熊五郎の枚方日記

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蓮如上人と光善寺

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『蓮如上人と光善寺』その106 真宗大谷派 淵埋山 出口御坊 光善寺 刊(大阪府枚方市)

 門徒の参戦を最後には認めざるを得なかった蓮如上人も、これで一連の争いはやっと終わったものと考えておられた。しかし、戦勝に勢いづいた門徒たちは、もはや上人の戒めの『御文』にも従わず、寺社領の年貢不納など、傲慢の振る舞いに走った。すでに急膨張してしまった門徒集団の中には、下級武士や信仰とは無関係の野心ある者、土地や物への獲得手段を目的とした者など、雑多な人々も数多く含まれていたに違いないと思われる。
 勝利の暁には、本願寺を保護すると称して門徒の協力を求めたはずの加賀の守護・富樫政親も、さて加賀の一円の勝者となってしまうと、本願寺の門徒勢力が強大化することを恐れて、逆に本願寺門徒への圧迫を始めた。門徒の反寺社の振る舞いは、同時に反守護体制の振る舞いとされて、門徒圧迫の充分な理由となり得た。

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『蓮如上人と光善寺』その105 真宗大谷派 淵埋山 出口御坊 光善寺 刊(大阪府枚方市)

 その年の三月二十八日、吉崎坊舎が炎上した。三界火宅無常のことを、早速『御文』にしたためられている。本坊は直ちに再建され、昼夜を分かたぬ上人の説法は続いた。熱誠そのものの蓮如上人の姿に少しも変るところはなかった。
 この夏七月、加賀の富樫政親は、本願寺門徒と連合して、弟富樫幸千代と高田派・専修寺門徒の連合軍との戦いを起こした。世に言う「文明の一向一揆」であった。
 本願寺に対して、足利将軍家からの富樫政親支援要請の書簡があったことや、高田派との宗教戦ということなどもあって、「多屋衆」が先駆けて門徒の参戦を認めてしまったことではあったが、その十一月、政親・本願寺の連合軍はついに勝利をおさめた。

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『蓮如上人と光善寺』その104 真宗大谷派 淵埋山 出口御坊 光善寺 刊(大阪府枚方市)

 結果として、この年・文明五年には吉崎が攻撃を受けずに終わり、上人は東国への旅立ちを思いたって越中(富山県)の瑞泉寺まで行かれた。しかしあまりにも多くの群衆が参集したので、事故の起こる事を慮ってこの旅を取りやめ、吉崎に引き返された。
 一方、都では三月に西軍の将・山名宗全が死亡した。続いて五月には東軍の将・管領の細川勝元が死亡した。東西両軍の巨頭が相次いで没したにもかかわらず、応仁・文明の戦乱は治まらなかった。やや小康を得た年の暮れ十二月に、幼少の足利義尚公が第九代将軍を継承した。明けて文明六年正月、蓮如上人は、繰り返し多屋坊主以下門徒たちへ、三カ条のきびしい戒めの『御文』を書いておられる。吉崎存亡の危機に立つ、上人の教団最高指揮者としての自己反省と苦渋がしのばれる。

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『蓮如上人と光善寺』その103 真宗大谷派 淵埋山 出口御坊 光善寺 刊(大阪府枚方市)

 この『掟の御文』の作成の意図は、他の宗教勢力とも共存していく柔軟姿勢と、支配権力者たる守護地頭らとの紛争回避にあったと思われる。単純に体制側への忍従と倫理道徳を強いた『御文』と考えるのは、一面的な理解ではなかろうか。
 やがて支配者たちが、力でもってこの吉崎の地を囲むかもしれぬ危機を感ずる中で、蓮如上人は門徒たちへの軽挙妄動の戒めを語りかけずにはおられなかったものと思われる。
 急速に膨張した教団には、上人周辺の門弟や参謀役の人も増え、堅田時代のようなわけにはいかず、動き出す門徒集団の勢いを押さえ切れぬもどかしさを思う上人の姿があった。

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『蓮如上人と光善寺』その102 真宗大谷派 淵埋山 出口御坊 光善寺 刊(大阪府枚方市)

この『掟の御文』は、教団の内外に公開された宣言のような性格を思わせる。内には門徒たちへの戒めであり、外には他宗の社寺や支配者たちに対する本願寺教団の伝道姿勢の公表とも言える。門徒たちの思いがけぬ反社会的な暴走過熱ぶりに対する、上人の当惑のほどがしのばれる。
 これらの条項を一つひとつ裏返しに読めば、当時吉崎の地に参集して来る多くの門徒衆の中には、念仏者になったことをよいことにして、諸神諸仏を軽んじ、他宗をないがしろにし、守護・地頭(地域の行政官僚らのこと)らに逆らう傍若無人の輩も多々あったのであろう。また、聞法よりは、自己の営利目的のための参集者もかなりいたことであろう。

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