こけしおばちゃん

伝統こけしを訪ね歩いています

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全578ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

作田栄利のこけし

イメージ 1

イメージ 1

 工人の多い産地でありながら、今一つ人気が出なく、しかも松之進の外弟子の為か、数多く製作したわりには忘れられ、騒がれない工人。しかも鎌田文市の遠刈田での師匠で吉郎平系統の大らかな古風的描彩を、受け継いでいる。サラブレッドではないが、底力を持った野生馬的なセンスを持つ工人の一人である。作田栄利を取り上げてみたい。
 第一次こけしブームで復活した栄利も、昭和18年以降は作っていない様だ。戦後昭和25年に復活するも、27年頃までは、見た覚えはない。28年〜34年頃までの作品は種々変化があり、興味をそそられる。 例えば、緑のロクロ線、五段、六段の重菊、葉の元は巻いてなく、ビン飾りはふっくらと戦前作と同じであるが、翌年32年頃には、圧迫された顔で、目より下に下がって来た。変化が多く、人それぞれに楽しめ、固定化されていない。しかし、35年になると、ビン飾りも開き、眉毛の位置によって来る。ロクロ線がなくなり、葉元が巻き出し、それ以前と明らかに違いが生じ、頭も縦長がはっきりし、目も細く強く、張りが出てくる。そして品も増してくるのである。 
 その後は、大きい変化は無いが、だんだん目が上に寄り、大きくなってきて、甘さを感じられる。
 一般に、人気がないと中古市場でも良いものが残っている事が多く、各人の好みもあるが、絶えず頭の中にポイントを入れて探し続けると、収集の楽しみも増すものである。
 写真の右は昭和16年頃の木地友晴の木地、鋭さが感じられる。 
 写真の左は、昭和36年、64歳の時で、固定化された初期の作品で、重菊の3段は面白い。以上。
『こけし手帖』平成17年9月号 536号「例会ギャラリー」より。吉田博人氏著より。
 ※ 遠刈田系こけし工人・作田栄利(明治31年生まれ〜昭和40年、享年67歳)その後、長男・作田栄一工人(昭和4年〜平成9年、享年68歳)。後継者は?
  

この記事に

開く コメント(0)

「こけしとの再会」

イメージ 1

イメージ 1

 『こけし手帖』平成17年8月号 535号より
 最近は、面白いことが続き、気分を良くしている矢先に、36年前に所有していたこけしに、会えたのである。だいぶ前にも、高橋盛さんに会えたのであるが、今回は、伊藤松三郎さんがいたのである。
 流通の範囲は、そんなに広いものではないのだろうが、それでも、確率的には難しいのではないだろうか。しかもこけしを扱う店ではなく、露店の古物商となれば、さらに難しさを増すと思える。
 この松三郎は(写真は別です)、鬼頭温泉にスキーに行ったときに、入手したうちの一本である。記録によると、昭和40年2月から45年まで所有しており、就職初期時代のスキーの友であり、岳友でもある友人にあげたものである。
 ここ5年程、音信不通状態となり、どうしているのかと心配していた矢先であり、何か胸騒ぎを感じていたのであるが、やはり転職引越後、入退院を繰り返し、肺がんで亡くなられた、と12月の挨拶状で知らされた。早速線香を供えさせてもらい、雑談の中で奥様に確認したところ、お嬢さんに、だいぶ昔(昭和54年)にあげたそうで、箪笥の上にずっと飾られていたとのこと。そのお嬢さんも、平成15年に結婚され、身辺整理のかたずけの品物の中に、松三郎もあったようだ。大分色あせているが、大事に飾ってくれた形跡がある。しかし処分から、1年強の月日がたっており、その間に、顔や胴に生傷も増え、辛い思いをしたように感じられた。
 収集も運の内と誰かが言っておられたが、意外な形での再会であり、形見にも似た形となってしまったようだ。
 散歩がてら立ち寄った骨董市での出来事もこんな再会となってしまったが、うろうろ散歩運動法は、意外な成果をもたらすものである。友人にこけしをあげる、そしてそのこけしが、何らかの役立の一端を担ってくれれば、充分満足である。
 奥様が、持参したこけしをしみじみと眺めていたのだが、今も強く印象に残っている。
 以上。こけし友の会・吉田 博人氏著。

この記事に

開く コメント(0)

慈しむ小寸こけし

イメージ 1 イメージ 2 イメージ 3 イメージ 4

イメージ 4

 『こけし手帖』平成17年8月 535号 「例会ギャラリー」より。
 愛らしい小寸こけしは、私にとって心を和ませ癒してくれています。
 私はいつもは主に定寸こけしを収集しているのですが、素朴なこけしの原形のような小寸こけしにも魅かれるものがあり、入手できる機会には自然に収集に熱が入りました。
 今日見て頂くのは、お気に入りの小寸の数本ですが、工人がこのこけしを作った時の気持などを想像して楽しんでいます。特に、盛秀太郎の極端な細胴には心魅かれます。
 写真の右から、佐藤喜一の小寸で戦前の作で一筆目に花模様で特徴が表れている。二本目は、盛秀太郎作で昭和20年代のもの。中央二本の重治こけしはとぼけた表情が良い。
 写真△痢右二本は、高橋通の作で、鯖湖の中心的な継承者としての雰囲気がある。中央二本は
高橋忠蔵で、戦後間もない頃の作。左二本は、俊雄でずんぐりしたフォルムと配色が魅力である。
 以上。東京こけし友の会 百足正文氏著。

この記事に

開く コメント(0)

平賀謙次郎のこけし

イメージ 1

イメージ 1

 『こけし手帖』平成17年7月号 534号「例会ギャラリー」より。
 戦前からの工人は本当に少なくなってしまった。今回は平賀謙次郎のこけしを時系列に迫ってみたいと思う。
 山形系(作並系)こけし工人・平賀謙次郎は大正7年11月17日、平賀謙蔵の二男として、作並温泉で生まれた。昭和6年3月、作並尋常小学校卒業後、父につき足踏みロクロで本格的に作り始めた。兄弟弟子には兄の多蔵、叔父の貞蔵がいた。同14年2月日華事変で応召。帰還後、同16年7月より謙次郎名儀でこけしを出したが、同13年作も僅かに残されている。
 写真の右は、鹿間氏旧蔵品で尺(こけし・人・風土)にも掲載されている。(辞典)にこの時期のこけしについて『特殊の情味、情味が瞳小さく緊迫感をゆうする快作であった。戦地に行く前の精神的緊張の現れであろうか。』と評されている。弱冠20歳の時の作品には驚かされる。 
 戦後の作は『鼻小さく上瞼の曲がり少なく、両髪も短かく』めんこいこけしを追っかけたようである。かわいらしいこけしは愛好家の手元にはあまり入ってないかもしれないが、一般の家庭の中で多くの人々に安らぎを与え続けているに違いない。写真の中央は、同30年作で八寸、左は同35年作八寸であるが、仔細にみると変化していく様子が楽しめる。以上。(小川一雄氏著)
 ※ 平賀謙次郎は、平成24年2月14日没、享年94歳。長男の平賀謙一工人は(昭和18年〜平成19年8月11日没、享年64歳)。現在、謙一の長男・平賀輝幸工人(昭和47年生まれ)が、作並温泉でこけしを作っている。一昨年、こけしコンクールで文部大臣賞を受賞した。私の大好きな工人です。 

この記事に

開く コメント(0)

福寿の勘治型古作

イメージ 1 イメージ 2

イメージ 2

 『こけし手帖』平成17年6月号 533号「例会ギャラリー」より。 
 昨年6月インターネットのオークションで写真左側のこけしを入手した。顔の描彩や胴模様から勘治型のこけしらしく思われたが、胴底の署名は「鳴子 高橋福寿作」で、福寿さんの独身時代(昭和32年以前)の作と分った。
 勘治型のこけしは昭和27年に土橋慶三氏が西田峯吉氏蔵の有名な勘治こけしを鳴子に持参し、盛、福寿の両名がその写しを作ったのが始まりとされている。その勘治のこけしと比べて写真のこけしには相当な違いがあり、製作年代に興味が湧いた。
 そこで福寿さんの昭和26年作のこけし(写真右側)と比べて見た。右のこけしには頭頂に髭が描かれており、その様式は左のこけしと酷似している。またその横鬢も下部が後ろに跳ねており、左のこけしの横鬢から上部の丸結いを除いた様式とも思える。顔も一筆目と二側目の違いはあるがほぼ同様と言えるだろう。そう考えると頭部の描彩に関しては、昭和27年以前にもこのような様式が「高勘」に伝えられていたのが分かる。
 一方、胴模様に関しては他に類例が無く、27ねんに勘治のこけしを見てから後に作ったものと推測される。勘治のこけしは大輪の菱形菊を二輪描き、その両脇に二対の蕾を配したものであるが、福寿さんは上の菊は縦長に下の菊は横長にデホルメし、蕾も写実的にアレンジして描いている。若き日の福寿さんの迸る(ほとばしる)才能を彷彿させるこけしである。以上。国府田恵一氏著。
 ※ 鳴子系こけし工人・遊佐福寿(昭和5年〜平成13年、享年71歳)は、高橋盛の次男で高橋盛雄の弟。昭和32年、遊佐家に養子に入る。作品は何を作っても優秀で、特に高橋勘治型継承者として抜群の人気を集めた。各大臣賞など、多数獲得。人柄もよく、鳴子の中心となって活躍。鳴子駅前の「福寿の店」も有名。

この記事に

開く コメント(0)

全578ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.


みんなの更新記事