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明治21年(1888)7月17日、品川の第二台場沖に大きな鯨が現れた。 船で沖合に繰り出した見物人が見守る中、鯨は盛大に潮を噴き上げ、一同大喝采だったという。当時の警視総監、三島通庸もこの鯨の潮吹きを見物した一人である。 ところで、これが日本におけるホエールウォッチング第一号かといえば、そうではない。大隅清治『クジラと日本人』では、寛政十年(1798)に江戸っ子の間で評判になった鯨の見物をホエールウォッチングの走りであろうと推測している。5月に品川沖に現れた鯨は、将軍徳川家斉の希望で浜御殿(現浜離宮)沖まで曳航され、そこで家斉も見物に興じたという(今井金吾校訂『定本武江年表 中』)。 そして何よりも、明治21年に現れた鯨は見事な作り物であった。 というわけで、今回は鯨を模した噴水の話である。 鯨の噴水といえば、浅草水族館の例がある。浅草水族館は、明治18年(1885)10月17日、日本最初の水族館とされる上野動物園の「観魚室」(うおのぞき)に続いて浅草に開業した民営の水族館である。『東京日日新聞』(明治18年10月14日)によれば、敷地の一角に海水を湛えた池があり、「粗大の海魚を数多飼ひ池の中心には漆喰細工の鯨ありて絶えず水を噴けり」という。 この漆喰細工の鯨を作ったのは「其の道に有名なる伊豆の長八老人」である。漆喰細工の名人として世に名を馳せた人物で、伊豆は松崎生まれの入江長八、通称伊豆の長八という。文化12年(1815)生まれというから、明治18年にはすっかり伊豆の長八「老人」である。浅草水族館では鯨のほかに「巌石に海潮の激せるさま水禽の驚き飛へるさま弁才天女并に蜑女の子等が状など実に目を驚す」漆喰細工を手がけたという。 伊豆の長八が手がけた漆喰製の鯨の噴水は残っていないが、名古屋には漆喰ならぬコンクリート製の鯨の噴水(現在は噴水せず)が現存していることを最近知った。「特集・東海ワンダー」と銘打ち、東海エリアの珍物件を取材した『ワンダーJAPAN』4号というムックでこの鯨が取り上げられている。目に鮮やかな水色の鯨で、手元にある白黒の絵葉書との落差に驚く。昭和2年に設置されたもので、製作者は後藤鍬五郎。聚楽園の大仏などを手がけたコンクリート製彫刻の名人である(加納誠『近代史を飾る コンクリート製彫刻・建造物職人 後藤鍬五郎』)。この鯨もいずれ取り上げたい。 さて、明治21年の鯨である。 明治18年12月、第五代警視総監に就任した三島通庸は、翌年5月を皮切りに明治20年7月、明治21年7月と三回にわたり警視庁を挙げて大慰安会を催した。豪快な御仁である(三回目の大慰安会の直後の明治21年10月、在任中に死去)。「漁遊会」「漁猟会」「品海船遊会」と新聞記事によって呼び名はまちまちだが、要するに「終日遊び暮されし」という大宴会で、船で海上へ繰り出し、花火あり、水雷火あり、朝から晩までさまざまな余興が披露されたという。 明治21年7月17日、18日に開かれた三回目の大慰安会の様子を描いた絵が、警視庁史編さん員会編『警視庁史 明治編』に収められている。警視庁各署が趣向を凝らし飾り立てた何十隻もの船が海へ繰り出す中、ひと際目立つのが石川島監獄署の「鯨」である。 「一際目立て見えたるは石川島監獄署員の大鯨にて荷足船を眞(しん)とし外覆ひを造り船腹に大喞筒を装置して潮を吹くの体をなすもの」(『東京朝日新聞』明治21年7月18日)といい、「衆人の大喝采を得たり」(『読売新聞』同)、「大喝采」(『東京日日新聞』同)と各紙揃ってその評判を伝えている。 『警視庁史 明治編』によれば、「鯨の腹の中には、十一名の消防手が手押ポンプを一生懸命汗を流して押していた」この大鯨を手がけたのは「西岡景房」なる人物であるという。どこかで聞き覚えのある名前だと思い、手元の資料をひっくり返してみると案の定、このような新聞記事が出てきた。 石川島監獄署詰の西岡景房氏が多年の苦辛を積んで工夫成りし水引ポンプの妙工なるは今さら云ふまでもないが先ごろ向ヶ岡の弥生舎にて試験されしは井戸より二十二間余距たりし山の上を斜に上り左右に分れて西へ二十間引いて料理場へ噴水し南へ二十四間引いて庭中へ噴水すること各々高さ四間余また主上便殿の御手水鉢へ水五筋に分れて噴水したるは尤も見事なりしと右に付き今度内山下町の外務省接待所(旧博物館跡)へも是を据え付らるると云ふ
『読売新聞』明治16年(1883)9月6日 漆喰細工の名人に続き、ポンプ造りの名人のご登場である。西岡景房は「明治の初年東京府消防掛りを奉職中外国よりお買入に成りたる大ポンプは二疋立の馬車に曳かせるものにて運搬甚だ不便利なるを憂へられ何とか改造せんものと深く工風を凝らす内同氏は石川島詰と成りしが尚も心を変ぜず」(『読売新聞』明治16年7月28日)、ポンプ一筋の人物であったらしい。 西岡が勤めた石川島監獄署は、江戸時代の人足寄場の流れを汲む監獄である。当時、東京の警察と消防は両方とも警視庁の管轄で、西岡景房擁する石川島監獄署は、西岡の頭脳と囚人の労働力を活かし、優れた国産の消防ポンプを次々と世に送り出している。 明治21年に現れた七月の鯨はポンプ造りの名人が「一生一代の精魂をこめて造りあげた」大噴水であった。
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噴水事情
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東京美術学校(現東京藝術大学)で図案科の教授を務める等、明治時代後半から昭和にかけて日本の図案工芸界の先駆者として活躍した意匠家、島田佳矣(よしなり)は大正11年(1922)、雑誌『現代之図案工芸』(8巻7号)に「噴水の少い都市」という小文を寄せている。東京の噴水を切り口に、建築様式の進歩、文化生活の向上に伴い、これからの噴水がどうあるべきかを論じた文章である。浅草公園等で自ら噴水の意匠を手がけたことのある佳矣―――山形・千歳公園の鶴の噴水の意匠もおそらく彼の手による―――は、噴水論の前段として東京の噴水事情を、噴水に意識的な意匠家らしく、細かなエピソードを織り交ぜて書き記している。それぞれの噴水の絵葉書を添えて、「噴水の少い都市」前段をご覧いただこう。 噴水の少い都市
夏になると、想出すやうに欲しいとおもふのは噴水であるが、それもちかごろではあまり作られない、市内にもいくらもない、 九段、靖国神社境内にある鯉の噴水は、割合にも高い方で、あれは確か納富介次郎氏の図案で、石川県で作つたとおもふ、何でも前田侯から、寄進されたものと覚へておる。 一番古いものといふと、元の横浜停車場前にあつたものだが、いまでは何処へ往つたのやら形もない。日比谷公園の鶴の池の噴水は、最初は、市で、鶴の下に亀の台座を拵えたものであつたが、丁度その頃、支那の大官連が東都を訪れた時この噴水を見て彼等は一斉に批難した、それは支那人が一体に亀を嫌うところから。で、東京市では再考した結果、とまれ公園なるものは各国人が漫遊し散策する解放の場所だから、人類の嫌悪するものを作つておくといふことはよくないといふ所から、亀の台座は現在のやうに取換へられた訳である、鶴は、確か学校の近森氏が吹かれたと記憶する、その時に、津田信夫氏が十数の水鳥を制作して、いまの、あの石垣の方の水端に据えられた筈だつたが、いまでは、まるで影もないやうに見へる、とまれその当時はあつたものだが、ちかごろではどうなつてしまつたものか見当らぬが、実は、あれは市の経費の関係で、アンチで製作したものだから、多少そんな関係で、兎や角されてしまつたのかも知れない、 博物館前に、あつたのを見たが、ちかごろどしたか見当らない。浅草の観音裏にある噴水は、自分で図案して、高村光雲氏監督の下に、津田信夫氏が吹かれたものだが、場所柄のせいか、いつも人だかりで賑かである。 この外には、一寸気が附かない、とまれ市内にはいくつもない、京阪の東宮御所の御庭には、たいそう立派なのがあると聴いておるがまだ拝観しない。 ※東京藝術大学の吉田千鶴子さんにこの小文の存在をご教示いただきました。厚く御礼申し上げます。
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風俗画報(343号) 明治39年7月 |
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△涼しいが贅沢な噴水 |
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東京朝日新聞 明治40年3月11日 |


