|
宮内庁三の丸尚蔵館『内国勧業博覧会―明治美術の幕開け』展解説図録より。この噴水と「噴水の日」をめぐるあれこれについては、「『噴水の日』をめぐるすっきりしない話」http://blogs.yahoo.co.jp/eigajin/54058466.html にて。
|
博覧会の噴水
[ リスト | 詳細 ]
|
この夏の旅で発見した噴水について書き留めている途中だが、こちらは番外篇。特命捜査中の観覧車情報と小便小僧情報である。
8月17日に福岡県立図書館を訪れた。東亜勧業博覧会の資料を探すのに大変お世話になった図書館だ。その『東亜勧業博覧会誌』の現物を確認するため、長崎から東京への帰路に博多行を組み入れた次第。この図書館には国会図書館や横浜の新聞ライブラリーが所蔵していない『門司新報』という新聞のマイクロフィルムがあるのも見逃せない。
東亜勧業博覧会をはじめとする福岡の博覧会の噴水については本篇でご報告するとして、『博多築港記念大博覧会誌』で見つけた観覧車がどうやら面白いことになりそうだ。「観覧車通信」http://blog.livedoor.jp/tenbosenkaisha/の「噴水班キャップ」として、福井優子・東京支局長に集めた資料をお送りしたところ、「なんと言っても、築港記念大博覧会の観覧車にインパクトがありますね」とのこと。これまた、観覧車方面のスクープになるか!?支局長の発表に乞うご期待。
そしてもう一つは小便小僧情報。松山で見つけた小便小僧と「小便小僧の詩」。
こちらは、『芸術新潮』2010年5月号に「股間若衆―日本近現代彫刻の男性裸体表現の研究」を発表された木下先生へのご報告。裸で小便を垂れている小僧は、まごう事無き「男性裸体表現」である。 場所は松山城へのロープウェイ乗り場がある通りの入口、松山一番町郵便局の軒先(風景印をもらいに訪れた)。小僧の左下には松山東雲中学生徒会から贈られた「小便小僧の詩」のプレートがある。残念ながら「虹のシャワー」(「小便小僧の詩」参照)はこの30数年ですっかり枯れてしまったようだ。「小便小僧の詩」の最後に書かれた「昭和54年」は松山市の市制90周年にあたる年で、記念誌などが出ている。この小便小僧は市制90周年モニュメントの一つだったのかも知れない。 |
|
愛媛県立図書館では合計30点の博覧会資料を見せて頂いた。
●『豊橋市商工会主催全国特産品博覧会誌』
1930(昭和5)年、愛知県の豊橋市で開かれた博覧会。会期は3月20日から5月13日まで。会誌の本文中には、噴水について書かれた文章を発見できなかった。あったのは噴水の写真が1点。『豊橋新報』1930年3月27日の記事「特博観覧記」では「庭には服部醤油合名会社の噴水心地よく池の中には鯉魚か游泳し大衆を喜ばせ、田中屋の人形に次での美観である」と紹介されている。醤油からの連想か、漏斗らしきものから噴水する仕掛けになっており、それを支える天使像?というデザインになっている。JA豊橋のウェブサイトによれば「船町でしょうゆ醸造業を営んでいた服部平之助氏」という人物がいるらしいhttp://www.ja-toyohashi.com/brand/rekishi/onsituengei_hassyou/onsituengei_hassyou.html。噴水の台座のマークは、服部平之助氏の「平」の字をデザイン化したものだろうか。
ちなみに、この博覧会にも我らが浮田仙太郎氏が顔を出す。この時期、昭和初期の博覧会では本当によく登場する。会誌によれば、「サークリング」という遊具機械を「大阪市浮田電気営業所」が経営していたという。どのような遊具だったかといえば、「支柱に吊下したる大円盤上に人を載せ電動力にて運転し一上一下転回する」と説明がある。おそらく、一般的には「サークリングウェーブ」と呼ばれていた人気遊具だろう。しかし、資材の到着が遅れ、竣工した頃には「児童の学年末休暇を逸し」、「経営者が土地柄に通せざりし」ことも災いし思う程には繁盛しなかったそうだ。
そんなところにいたらずぶ濡れですよ! |
|
旅の楽しみの一つに地元の図書館訪問がある。「旅に出て、なにも図書館に籠ることはないだろう」という向きもあるだろうが、準備さえしっかりしていけば、旅先の図書館はお宝の山なのだ。書庫には国会図書館に所蔵されていない本もゴロゴロしている。これを見逃す訳にはいかない。特に、地元で行われた博覧会の記録など、本当にここでしか見られないという資料もあるので、事前の蔵書チェックがモノを言う。
今回の旅では香川の高松市中央図書館、愛媛の愛媛県立図書館、広島の呉市立図書館、福岡の福岡県立図書館の4館を訪れた。まずは愛媛県立図書館の収穫から忘れないうちに書き留めていこう。
【1】松山市主催国有鉄道開通記念全国産業博覧会(1927年)の噴水
この博覧会は、1927(昭和2)年、国鉄讃予線(現在は「予讃線」)が松山まで開通したことを記念して開かれたものである。会誌の『国有鉄道開通記念全国産業博覧会誌』を見ると、正門を抜けてすぐ、第一号館の正面に噴水があったことが確認できる。
同誌にはこの博覧会では場内の建造物の基本設計を「東京美術装飾社」という業者に依頼したとある。同社は本社を「東京市浅草区南松山町」に置く東京の業者だが、経営者の「三好雅利」氏が愛媛県出身であるという縁で声がかかったようだ。実際の建築工事の多くは地元松山の別の業者が受注したようだが、噴水については「噴水築造請負三好氏ト七百円ニテ契約締結ス」とある。
「場外のアーチは勿論、正門、奏楽堂、噴水塔に至るまで、時代の趨勢に連れて広告宣伝に利用せられたものが多かつた」とあるように、この噴水塔にはアサヒビールが広告を出している。アサヒビールがいくら払ったのかは残念ながら見つけられなかった。
また、博覧会側では、出品者が装飾について業者と直接折衝するときの便宜を図り、身元や経歴の確かな装飾業者を「指定装飾業者一覧」としてリストアップしている。無論、先の東京美術装飾社は入っているが、ここにわれらが「浮田仙太郎」氏の「ウキタ電気営業所」の名前を発見することができた。
ウキタ電気営業所はこの博覧会では助成金の交付を受け、娯楽施設を自ら運営している。これは「子供の国」という一種の遊園地で、園内の中央には桃太郎の噴水塔があった。『松山市主催国有鉄道開通記念全国産業博覧会写真帖』に写真が残っているが、桃から飛び出してきたのは、勝ってくるぞと勇ましく、すでに陣羽織姿の桃太郎という無茶苦茶なデザインの噴水である。
|
|
どこの誰が言い出したのか、8月21日は「噴水の日」だという。この「噴水の日」をめぐるすっきりしない話を書いてみたい。試しにネットで「噴水の日」の由来を調べてみると、表現は多少異なるが、およそ次のような文章が出回っている。
「1877(明治10)年のこの日、東京・上野公園で第1回内国勧業博覧会が開催され、会場中央の人工池に日本初の西洋式の噴水が作られた。落成したのは9月8日だった」。
とても不思議な文章だ。噴水が落成したのが9月8日だったというなら、「噴水の日」は9月8日でよさそうなものだが、8月21日だという。この「落成したのは9月8日だった」という落ち着きの悪い一文はどこからやってきたのだろう。
噴水が作られたという内国勧業博覧会は、明治新政府の殖産興業政策に基づき、各地の物産の出品を募り、産業促進を図ったイベントである。第一回が1877(明治10)年に東京・上野で開かれ、以降、第二回と第三回は同じく東京・上野、第四回は京都、第五回は大阪で開催されることになる。8月21日は記念すべき第一回内国勧業博覧会の開場式が行われた日である。
翌日付の『読売新聞』を読んでみると、開場式模様に続き、場内の状況として「美術館前の噴水器は未だ出来あがらず」と書かれている。なんとまあ、「噴水の日」は8月21日だと言いながら、この日に噴水が噴き上がっていなかったことがさっそく判明してしまった。「落成したのは9月8日だった」というヘンな一文がくっついてくるのは、どうやらここに事情があるようだ。「この日、東京・上野公園で第1回内国勧業博覧会が開催され、会場中央の人工池に日本初の西洋式の噴水が作られた」というだけでは嘘になってしまうのだ。
戦前の博覧会のことを調べていると、開場した後も会場施設の設営工事がまだ続いているという事例は決して珍しいものではない。この内国勧業博覧会でも噴水のみならず、場内の「動物館」には僅かしか動物がおらず、肝心の出品も出つくしていないことが報じられており、見切り発車の開場だった様子が伺える。
さて、噴水はどうなったかといえば、9月8日付の『東京日日新聞』。「上野の博覧会場にて美術館の前に設けられたる噴水器は此ごろ落成して一尺五寸も噴き上げ」とある。開場から二週間以上が経ち、ようやく落成したようだ。しかし、あくまで「此ごろ落成」であり、「9月8日落成」とは書かれていないことに注意が必要だ。
はっきりと9月8日落成とする別の新聞記事が出てくれば別だが、8月21日、9月8日のいずれも「噴水の日」を名乗るにはすねに傷ありである。であれば無理に「噴水の日」を決めることもなさそうなものだが、唯一日付のはっきりしている開場式の日を無理矢理当てはめたということなのだろう。
また、この噴水が「日本初の西洋式の噴水」だったというのが記念日たるゆえんだが、これが曲者だ。「日本初の噴水」とは言っていないのだ。極論をいえば、噴水というものは水を噴き上げさえすれば噴水と呼べる訳で、「日本初の噴水」を決めることなど不可能である。石井研堂は『明治事物起原』において噴水の起源を「本邦にて、この噴水を仕掛けし始めは、十年八月開催の第一回内国勧業博覧会なり」とするが、鵜呑みにするのは難しい。そこで「日本初の西洋式の噴水」という言い方になったのではないだろうか。
しかし、その実、どのような噴水のことを「西洋式」というのかさっぱりわからない。デザインが「西洋式」なのか。構造が「西洋式」なのか。そもそもどこからが「西洋式」なのか。「和式」噴水というのもあるのだろうか。ちなみに「近代においては1903年開園の日比谷公園の東京美術学校製作の鶴の噴水が洋式噴水のはじめとなった」とする百科事典もある。おかしなことに日比谷公園の案内板によれば、鶴の噴水は
「公園等での装飾用噴水」としては日本で三番目に古く、一番目は長崎の諏訪神社だという。とまあ、すっきりしないことこの上ない。
とはいえ、明治時代から一気に花開く日本の噴水の歴史にあって、第一回内国勧業博覧会の博覧会の噴水が最初期の貴重な作例であることは間違いない。最後にどんな噴水だったか見ておこう。
博覧会の会場があったのは寛永寺本坊跡、現在の東京国立博物館のあたりである。その中心にあったのが煉瓦造の美術館だ。噴水があったのは美術館の前で、不忍池からポンプで水を汲み上げ、鉄管でここまで水を引いて噴水を仕掛けたというわけだ。不忍池との高低差は「凡そ四十尺」(約12メートル)、鉄管で引いた距離は「凡三百十間」(約563メートル)だったという。噴水の高さは「五尺余」(約1.5メートル)というからこじんまりとした噴水である(落成を伝える『東京日日新聞』の記事では高さを「一尺五寸も噴き上げ」とするが、これは約45センチ。それでも「一尺五寸も」と書かれているのは面白い)。 「美術館の前面に六十尺の池を穿ちて中央にすえつけたり 水の噴出注上こと凡そ五尺余に達せり 此水は不忍の池の水にして即ち東照宮の社後に於て十四馬力の蒸気機関を装置し『ドンキーポンプ』を以て土中の鉄管より此に誘導せるものなり 其経過する所凡三百十間 池面より高きこと凡そ四十尺余とす 此は工作局の幹理する所なり 此噴水器の設けたる 唯場内を装飾するのみならず 或は失火消防の用に備え 或は花卉に灌漑し 或は観者の為に炎熱を退け塵埃を收む 而して其余流は鉄管を通過して鳥欄及ひ養魚池に及へり」(『明治十年内国勧業博覧会場案内』改正増補版)
|





