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戦中戦後の貧しい時代の思い出である。我が家は、山口県の某農村に疎開していた。我が家の全員が旧地主さん(不在地主?)のお屋敷の一部を借りて生活していた。父は、宇部市で働き、母は手内職をし、姉は県立山口女専へ、また双子の兄達は県立山口高校(旧制)に通い、私は毎日遊びに熱中していた。 |
懐旧
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私は、昭和20年に神戸市から山口県吉敷郡阿知須町(現、山口市阿知須)に戦時疎開をした。兄や姉は一回り以上も歳が離れており、私はまるで一人っ子のようであった。遊ぶのも独りで、まあ孤独な毎日を送っていた。親しい友達と言えば、隣家のY.K君ぐらいだった。しかし、こんな思い出が本日の主題ではない。 |
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遠い、遠い昔の思い出である。終戦間際に神戸市から山口県の小さな町に疎開した我が家族は、多くの物を失い、所謂筍生活の苦しい経済状況にあった。母は家族を守るため、内職に励まざるを得ず、毎日夜遅くまで洋服や和服の仕立てをしていた。洋服の仕立てには、ミシンを使うが、そのミシンは神戸から運んだ米国製のシンガー・ミシン(Singar Sewing Machine)だった。勿論、足踏み式で、カタカタカタと単調な音を立てていた。いつも母の仕事を見ていたので、自然とミシンの操作を覚え、小学校の宿題に雑巾を作ったのを覚えている。ある時、「(中学校を卒業したら)仕立て職人になろうかな」と母に言うと、「学校ぐらい出ていないと将来困るよ」と諭された。そう言う母は、忙しさのためか、学校には一度も顔を出さず、止むを得ない場合には姉が代理をしてくれた。6年生の夏休みの最終日、母が「宿題は終わったのかねえ。宿題ぐらい終わったとかないと恥をかくよ」と呟いた。これを聞いて9月1日の始業式から帰って、漢字の書き取りと夏休みのドリルを終え、近所の遊び仲間に手伝ってもらって長さ30cm程の「戦艦大和」(木製)を完成させ、学校に提出したのを覚えている。母が亡くなって久しく、親孝行もしなかったことを申し訳ない気持ちで一杯である。やはり、初心通り仕立て職人になるべきだったのだろうか・・・。 |
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9月3日に大阪市大の植物園に出掛けて、写真撮影をしながら園内を散策した。その折、偶然イナゴを見つけた。イナゴは通常、稲に止まっているはずだが、地面を動いているのである。懐かしさの余り、お姿を撮らせてもらった。70年近く前、山口県の農村に住んでいた頃、高台にある小学校に通っていたが、行き帰りの道は農道であった。秋になると稲穂が頭を垂れ、イナゴが群がっていた。戦後間もない頃で、害虫駆除の農薬もなく、イナゴを見付けると捕まえて処分していたように思う。ある時、このイナゴを集めて佃煮に加工し食品としている話を聞いた。食料難の時代とは言え、イナゴが可哀そうになり、捕まえるのを止めた、という思い出がある。閑話休題。 |
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戦後、疎開先の田舎町(人口は1万人程度)にも映画館が1館あった。阿知須劇場と言ったろうか。椅子は一つもなく、人々は、筵をひいた板敷きの床に座り込んで、映画を観ていた。冷暖房は一切なく、冬は寒さに震え、夏は暑さにぐったりしながら映画を観たようだ。上映される映画は、「鞍馬天狗」とか、「ターザン」位しか記憶にない。小学校の厳しい規制もあり、我が家の経済事情もありで、小学生の私は、この映画館で映画を観た記憶がない。ところが、夏休みに入ると、何故だかは分からなかったが、小学校の校庭で映画鑑賞会が行われた。映画は無料で、誰でも観賞できた。もちろんモノクロ映画で、画面には白色の雨が多数走っていた。「鞍馬天狗」を観たのだろうか、それとも「鍋島騒動」を観たのだろうか。襲い掛かる蚊と戦いながら観たのを覚えている。 |



