エボのメモ帳

Je pense, donc je suis.(我思う、故に我あり)

懐旧

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遠い昔、小学生時代の思い出である。疎開先の田舎町で、近所の子ども達と「かくれんぼ」をして遊んだ。場所は、小さな神社の境内であった。鬼が「もういいかい」を繰り返している間に、本殿の床下に潜り込んで身を潜め、「もういいよ」と返事をした。この場所は絶対に見付からないという自信があった。鬼はしばらく探し回っていたようだが、諦めたのか声が小さくなった。私は、安心しきって眠くなり、そのまま寝入ってしまった。どれほど時間が経過したのかは分からないが、暗い床下に射し込む太陽光が眩しくて眼が醒めた。もう夕方になっていた。床下から這い出してみると誰もいなかった。その時、私が何を感じ取ったかは、説明したくない、と言うか、説明できないのである。虚しさだったかも知れない。
閑話休題。

添付の写真は、本文とは全く関係ない。

以上

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昨日、歯の治療を受けた後、市場池公園横を自転車走行した時、ヤマモモ(山桃)の木が実を沢山つけているのを見た。自転車を降りて写真撮影したが、ふと遠い昔のことを思い出した。我が家は、両親を初め兄や姉たち全員、戦時中に神戸市から山口県吉敷郡阿知須町井関に疎開(!)した。疎開先での生活は、戦後の混乱もあって、極めて厳しくて「筍生活」そのものだった。私も当然ながら空腹を抱えていた。特に、甘味に対する憧れは強いものがあった。旧制山口高校に通っていた兄が、時折、アルバイト先の進駐軍ベースから持ち帰る米国製チョコレートがどれほど美味しく感じられたかは、表現できない程であった。そんな状況にあって、甘味に対する欲求を満たしてくれたのが、ヤマモモの実であった。疎開先の前に小さな蓮池があり、その側にヤマモモの木が茂っていた。多分季節は今頃だったと思うが、ヤマモモの実がたわわについていた。早速、木に登って実を貪った。何とも言えないほど美味であった。満足していると、突然、下から「実を勝手に採るな。降りて来い」と怒鳴られた。その後、どうなったかは思い出せない。母親に苦情が行ったのか、あるいは殴られたのか、どうしても思い出せない。小学校1年生の頃だったと思う。閑話休題。

以上

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5月1日、京都市動物園を訪れた。懐かしい動物園である。懐かしいと言っても今まで一度も入園したことがない。疎開先の山口県から京都市内で働いていた姉を頼って上京(?)したのが中学校1年生の時、思えば60年以上も昔の話である。知人も無く、また友人も無く、ひたすら閉じ籠っていた当時、夏休みに入れば毎日のように岡崎の動物園横を流れる疎水まで泳ぎに出掛けたものだ。ランニングシャツに短パンといった軽装で左京区田中高原町から歩いた。市電に乗れば楽に行けたが、乗車賃を節約するために歩いた。
疎水の川幅は15m程もあったろうか。流れの中を対岸まで泳いだ。水中眼鏡を通して、川底の青い藻が見られ、顔の側を横切るモロコの群れも見られた。対岸の動物園から流れ落ちる水を見て、もしかすると汚水かも知れないな、と思ったのを記憶している。戦後の貧しい時代の思い出である。

以上

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日本のおとぎばなしに「ぶんぶく茶釜」というのがある。未だにどういう話なのか分からないが、60年以上も引きずっている思い出をメモとして残し、忘れてしまうこととする。
我が家は終戦直前、神戸から山口県の田舎町に疎開をした。歳の離れた兄姉は比較的早い時期に京都に出て都会生活を始め、私は小学校を卒業するまで疎開先で暮らした。思い出というのは、小学校6年生の冬休みのことである。突然、担任の先生から、学芸会で児童劇「ぶんぶく茶釜」をやることになったので、その劇中の小坊主「頓念」の役を演じる(?)ようにと言われ、冬休みに登校し練習することになった。もともと学校嫌いだった私は、雪中をゴム長靴を履いて登校し、あれやこれやと演技(?)指導を受けるのは、苦痛以外の何物でもなかった。当時の教室の床は板張りの上、暖房が一切無いので、足の霜焼けが一層酷くなってしまった。
劇の中で小坊主がお経を唱える場面があり、先生から本物のお経だと言われて、どんなお経かを長年調べた結果、数年前に書店で偶然知ることとなった。このお経をメモとして残しておこうと思う。



  具 足 妙 相 尊   (ぐー そく みょう そう そん)

  偈 答 無 尽 意   (げー とう むー じん にー)

  汝 聴 観 音 行   (にょー ちょう かん のん ぎょう)

  善 応 諸 方 所   (ぜん のう しょー ほう しょー)


     妙法蓮華経 観世音菩薩普門品 第二十五偈より


大意は次の通り。

  妙相を具足したまえる尊は、偈をもって無尽意に答えたもう。汝よ、観音の行の
  善く諸の方所に応ずるを聴け。


添付の写真は、本文とは全く関係ない。

以上

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太平洋戦争の末期、我が一家は空襲を逃れるために神戸市から山口県吉敷郡阿知須町井関(現、山口市)に疎開した。どうして彼の地に疎開したのかは、両親、姉、兄が亡くなった今、確かめようもない。そんな遠い昔の記憶の中に宇部大空襲がある。疎開先の道路に筵を敷いて、南の夜空が一面真っ赤に映える様を一家全員で眺めたのである。長年、この大空襲の日を特定したいと思いながら、今日に至っていた。先日、インターネットで検索し、遂にその日を推定できた。

昭和20年に宇部市が受けた空襲は、次の通り、8回あった。

   ● 4月26日  罹災人員 88人
   ● 5月14日  罹災人員 6人
   ● 7月 2日  罹災人員 24277人
   ● 7月15日  罹災人員 29人
   ● 7月24日  罹災人員 18人
   ● 7月28日  罹災人員 42人
   ● 7月29日  罹災人員 401人
   ● 8月 5日  罹災人員 563人

当時の宇部市人口は100680人であり、上記8回の空襲で罹災した市民は25424人であった。私が目にした空襲は、規模から推定して、7月2日の空襲であろう、と思う。

戦後の苦しい生活を思うと、二度と戦争をしてはいけないと考える。軍備拡張競争をしてはならないと思う。他人を思い遣る心が大切である。添付の写真は、本文とは全く関係ない。

以上


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