エボのメモ帳

Je pense, donc je suis.(我思う、故に我あり)

懐旧

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半世紀以上も前の遥かな昔、義兄が若くして急逝した。義兄は手先が大層器用な人で、ガラス板をはめ込んだ温箱を自作してサボテン栽培を楽しんでいた。彼は高校生の私に向かって「サボテンを育てるのは難しい。適温を維持するために、日中は温箱を日光に当てなければいけないし、夜は温箱に毛布を被せる必要がある。最も大事なことは水を与え過ぎないことである」と教えてくれ、霧吹器で優しく水を遣っていた。大事に育てられた数種類のサボテンが花を咲かせることはなかったのを記憶している。
私は、見知らぬ草花や花木を求めて植物園に出かけて観覧温室に必ず入室する。温室には必ずサボテンコーナーがあり、見事な花を咲かせている。そんなサボテンを観ると義兄のことを思い出すのである。閑話休題。

(上の写真)精巧殿
(中の写真)緋牡丹錦
(下の写真)金環蝕

以上

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遠い、遠い昔の思い出である。我が一家は、終戦の直前、神戸市葺合区二宮町から山口県吉敷郡阿知須町へ疎開した。私自身は、幼かったため、当時の記憶は殆どないけれど、屋外に敷いた蓆の上で宇部市が空爆され夜空が真紅に染まっていたのを眺めた記憶がある。これが戦争に纏わる唯一の思い出である。戦後の思い出といえば、隣町の山陽荘に連合国軍が進駐してきたこと、そして子供たちの間で言い争いが起こると最後に「マッカーサーに言いつけてやる」と言った者が勝ちとなったことぐらいである。もう一つの思い出は、小学校の1年生の時だったと思うが、澄み切った青空を東から西へ緑色の双胴戦闘機が爆音高く飛んで行ったことを記憶している。多分、岩国飛行場から板付飛行場に向かっていたのだろう。子供ながらに、敗戦国の惨めさを味わったように記憶している。私の見た双胴戦闘機を長らくグラマン製と思っていたが、インターネットを検索すると、どうやらロッキード製らしい。どちらでもよいことだが。閑話休題。

添付の写真は、11月12日に神戸花鳥園で撮影したフクシアである。グラマン戦闘機とは全く関係ない。


以上

(追記)
吹田市立図書館で双胴戦闘機について調べた結果、アメリカ陸軍が1941年から運用を開始したロッキードP−38双発戦闘機ライトニング(時速600km以上)であることが判明した。参考図書から形状をメモとして残しておく。

(追記了)

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60年近く前の古い思い出である。当時、私は小学校6年生だったと思う。朝鮮戦争による特需景気で日本がようやく復興の歩みを加速し始めて、少しは前途に希望の光りが見えていたと思う。とは言え、山口県に疎開していた我が家は、相変わらず貧しい生活を送っていた。そんな生活の中で私が楽しみにしていたのは、父が毎月買ってくれた少年雑誌(少年クラブ?)を読むことだった。その雑誌に少年向けのカメラの広告が出ていたのだと思う。我が家の経済状況が厳しいのは十分承知していたが、母に買って欲しいとねだってみた。その時、母は何も言わなかったが、神戸に行った際にお土産として買ってきてくれた。それが添付写真に示す「スタートカメラ」(インターネット検索による)である。当時の価格で500円だったと記憶する。小学生へのお土産としては破格である。固定焦点で、固定シャッター速度の現在風に言えばバカチョンカメラである。使用するフイルムは、35mmフイルムではなく、少し大き目のモノクロ12枚撮りフイルムであった。このカメラにより撮った写真で印象に残っているのは、和服を着た母の立ち姿と、ランニングシャツに短パンで下駄履きという我が姿である。学校が嫌いで勉強もせず遊びまわって真っ黒に日焼けした我が姿である。いずれの写真もセピア色に変色している。
小学校を卒業すると同時に京都市内のT中学校に入学した。2年生の担任が新任のO先生で、この先生は理科を担当されていた。先生は、理科クラブの顧問もされていたので、このクラブに入って日光写真の勉強を始めた。目的は、学級新聞を作り、その中にO先生の写真を入れることにあった。ガリ版作業を頑張りながら日光写真の品質向上に努めたが結果的には大失敗であった。理由は、用紙がわら半紙のため紙面が粗くて写真に馴染まず、さらに写真の濃淡が思うように焼付けできず、O先生が黒一色になったことにある。そうこうしている内にカメラのシャッター機構が壊れてしまった。セピア色に褪せてしまった青春の思い出である。


以上

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4月9日に赤穂の観光に行った時、JR新快速電車の車窓から「鉄人28号」の巨大な像が見えた。帰路、新長田駅で下車して写真を撮ってきた。鉄人28号といえば、甥が幼い頃に愛読していた漫画の主人公である。甥が夢中になっていた理由は分からない。(私の好んで読んだ、あるいは今でも好んで観ている漫画は、サザエさんである。)
甥は、私にとって、学校の後輩でもある。時々しか会っていないが、気になっている。なんと言っても後輩だからだ。相撲をとったり、チャンバラをした仲は懐かしいものだ・・・。
添付の写真には満足していない。夕方に訪れたので、像の前面からカメラを向けると、どうしても逆光になり、うまく写せない。仕方なく、バックシャンを撮ることにした。像の大きさが分かるので、よしとしたい。

以上

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4月9日、赤穂からの帰りに明石公園に立ち寄った。明石は、亡くなってから久しい母が生まれた所で、一度は訪れようと考えていた街である。明治生まれの母は青春時代(大正時代)に、明石公園の堀端の道を颯爽と自転車に乗っていたと聞いている。どんな恰好で乗っていたのだろうか。袴姿だったかもしれないな、と想像を巡らしていると懐かしくなる。お転婆だったに違いない。閑話休題。


(上の写真)旧明石城の巽櫓
(中の写真)旧明石城の坤櫓
(下の写真)剛ノ池の桜


以上


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