エボのメモ帳

Je pense, donc je suis.(我思う、故に我あり)

懐旧

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9月12日、京都市左京区の深泥池(みぞろがいけ)を訪れた。懐かしい所である。戦争中、我が家は全員、神戸から山口県の小さな町に疎開し、私自身は小学校を卒業するまでその町で過ごした。母は、遊び呆ける私の行く末を心配して、卒業を待って私を京都で働いていた姉のもとに送り出してくれた。中学校入学時から姉と一緒に都会(!)での生活を送ったのである。この共同生活は長く続かなかった。姉が病に倒れたからである。姉は、深泥池の畔にある京都博愛会病院に入院し、私はその姉をよく見舞いに行ったものである。そういう由縁で深泥池を忘れられないでいる。
先日深泥池を訪れたが、50数年前の風情がそのまま残っており、まるでタイムスリップをしたようだった。もっともタイムスリップがどんなものか分からないが・・・。池畔で見つけた説明板から抜粋して、深泥池の概要を残しておく。


<国指定天然記念物 深泥池生物群集>
深泥池は、面積約9ヘクタール、周囲約1.5キロメートルの大きさで、市街地に接する場所に位置しているにもかかわらず、現在でも氷河時代以来の動植物が生息する大変貴重な池です。

◆深泥池の浮島
深泥池の不思議のひとつに浮島があります。池の中央に広がり、池全体の3分の1を占めています。この浮島の下には水の層があって、水面に浮いていることが確認されています。
浮島は水温や水質の関係で、有機物の分解が遅く、植物の遺体が分解されずに堆積し、その上にミズゴケや種々の植物が成育しています。また、池の底には分解せずに沈んで泥濘となったミズゴケが堆積していますが、その分析の結果、浮島は約14万年前から存在していたことが判りました。

以上

  

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大阪市と吹田市の間を神崎川が流れている。神崎川の右岸(写真の左手)、つまり北側が吹田市で、左岸(写真の右手)は大阪市の東淀川区、淀川区である。(元は、両区を合わせて東淀川区であったが)この神崎川にいくつも鉄道橋が架かっている。添付の写真はその一つ、JR東海道本線の神崎川鉄橋である。
神崎川のすぐ脇にある大阪市立A中学校が懐かしき我が母校である。その校歌の一節に、“白魚の棲む水清き神崎に・・・”とあったように記憶する。通っていた当時、川は救いがたいほどドロドロと濁り、川底から浮かんでくる泡が悪臭を放っていた。また川幅が狭かったため、少し雨が降り続くと水位が高くなり、コンクリート製の橋脚が水没し、JR(当時は国鉄)東海道本線の運休が心配されるほどだった。
その後、川筋の拡幅工事、堤防の補強工事が行われて、現在の姿になっている。水質の改善が進み、水害の心配もなくなっている。しかし、この事をメモとして残そうというのではない。残したいのは、当時第一橋脚まであった河川敷で、橋脚壁に向かって懸命に投球練習をしたことである。真夏に大汗をかきながら、よく続けたものだと思う。(もちろん軟式球であったが・・・)

以上

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近くのスーパー、「まねきや」の入口にツバメが巣を作って子育て中である。親鳥が戻ってくると雛たちは口を大きく開けて餌をねだる。生存競争が厳しいようだ。過日、観察したところ、雛が5羽数えられた。五つ子の大家族である。親鳥は大変だろう。毎日のように観察に出かけ、そろそろ巣立ちが近いと思われたので、今朝8時前(つまり、店の人と買物客に見つからないように!)に雛たちを写真撮影した。

街中でツバメを見掛けることが少なくなっている。天敵のカラスが山里から都市部に移住してきたからだと思われる。そういえばムクドリも多く見掛けるようになった。ハトやスズメに到っては、人間様を怖がるどころか、早く餌を出せとばかりに寄って来る。餌を持っていないことが知れると、彼らは「ちっ、しけてやがるの!」といった風情で飛び去ってしまう。悔しいことではあるが、仕方がない。閑話休題。

小学生だった頃、梅雨の晴間の昼下がりに中年の男が畳んだ唐傘(番傘)を右手に持って歩いていた。太陽を背にしていたので、その男の人相がどうだったか、全く記憶にない。当時の田舎はツバメが飛びまわっていたものだ。当然、男の脇にもツバメが飛び交っていた。そんなのどかな風景の中で、男は唐傘を一振りした。足元にツバメがポトリと落ちた。鳥が地に落ちるということは、「死」を意味する。これを見た私は、「佐々木小次郎みたいな奴だな」と思った。そう思ったことを半世紀以上を経た今も記憶しているのである。今思えば、許せない行為だった。

以上


(追記)
6月5日現在、雛は2羽を残すのみ。3羽は元気に巣立ったようだ。

(追記了)

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老境に入ると、新しいことに馴染めず、旧いことが妙に懐かしくなるもののようだ。そんな旧いことの一つに「西淡路高射砲陣地跡」がある。昭和32年当時、近くのA中学校に通っていたので、高射砲台のことは鮮明に覚えている。道路を挟んで南側に墓地があり、北側10m程のところに高射砲台2基があり、人が住んでいた。50年を経た一昨年の夏、ふと高射砲台を思い出し、その後どうなっているかの調査に出向いた結果、跡地に住宅が立ち並んでいるのを知った。あー、無くなってしまったのかと思っただけで気にもしていなかったところ、最近になって高射砲台は今でも残っており、昭和25年に計画された市道十三吹田線の工事が跡地の手前で中断していると聞いた。
そうなると、我が性格上、再調査をせざるを得ない。4月20日に再調査を実施した。そして遂に、高射砲台2基が現存しているのを発見したのである! しかしながら、その位置が、我が記憶と違い、道路から30m程のところである。これは何かあるとインターネット検索で調べたところ、次のことが分かった。

・この高射砲陣地は昭和19年、高空から侵入・爆撃する米爆撃機B29を撃ち落すために陸軍が構築したものである。高射砲台6基(陸軍八八式7糎野戦高射砲を各1門装備)、弾薬庫、戦闘指揮所で構成された。
・この高射砲陣地の正式名称は不明であるが、「東淀川高射砲台」と言ったかも知れない。この地区の名称は昭和32年当時、「国次町」であり、その後に「西淡路1〜5丁目」と地名改称されたので、「西淡路」を冠することはあり得ない。
・高射砲台の配置は、道路側(南側)から約10mのところに2基、約30mのところに3基、約40mのところに1基だったように推定される。道路に近い2基は、マンション「ロイヤルハイツ西淡路パート1」建設のために取り壊され、最も北の1基はマンション「サンロイヤル新大阪」の建設に伴い取り壊されたものであろう。中央の3基の内、東の1基は大阪府営淡路住宅の駐車場とされた模様。その他の施設がどこにあったかは推定もできないが、現在公園となっている辺りではなかろうか。
・跡地は、大阪市の所有である。


高射砲が実際に防空の役に立ったのか否かは、関連する資料が入手できないので全く分からない。この高射砲台を、学術的に貴重だからとして、保存しようとする運動に到っては我が理解力をはるかに超えるものである。少なくとも建築工学的には貴重とは思えない。また、大阪市教育委員会が戦争遺跡としての価値を調査するそうである。どんな調査報告がなされるか興味のあるところでもある。
それにしても保存状態の悪い遺跡である。荒れ放題である。説明板一つある訳でもなく、内部を見学できる訳でもない。一刻も早く、市道を完成させて欲しいものである。吹田市民の切なる願いである。


以上

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昨日はふと思い立って京都に出かけた。その昔、人情の暖かさに触れたことのある西大路下立売(現在は西大路妙心寺道と地名変更されている)がどのように変貌しているか、あるいは昔の面影を残しているかを知るのが目的であった。一面識も無かった私を一ヶ月間、歓待して下さったH・Mさんとご家族の自宅はなくなっていた。北野白梅町から円町にかけての町並みは変貌を遂げているが、北野神社御旅所だけは昔と変わらぬ佇まいであった。

久し振りの京都なので、知恩院の三門(国宝)と大鐘楼を拝観し、北野天満宮の梅を観賞してきた。

(上の写真)北野神社御旅所
(下の写真)北野天満宮

以上


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