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http://x6.cho-chin.com/bin/ll?081850800 アクセス解析 http://blogs.yahoo.co.jp/eishintradejp/18617379.html ↑【1】からの続きです。 この「井陘(せいけい)の戦い」のあと、韓信は配下の諸将から、 背水の陣という戦いのセオリーを全く無視した作戦でなぜ勝てたのか、 いまだによく分かりません。 どうしてでしょうか? と聞かれて、こんなふうに答えたそうです。 「諸君は孫子(九地篇)に 『これを死地に陥れて然る後に生く。』 と書かれているのを知らなかっただけだ。」 兵たちを背水の陣に追い込んで、死に物狂いで敵に当たらせることで、 自軍の少なさをカバーしたわけです。 ただし、それはもちろん、 ・事前に敵を油断させ、驕らせ、判断を誤らせるため、という計算と ・別働隊が趙軍を混乱の極みに陥れるまでの間だけ踏ん張れれば良い、という計算 に基づいての「死地に陥れ」というわけです。 ということで、 背水の陣とは、上記のような韓信による 互いに有機的に連動する多重の作戦計画のごく一部に過ぎないのです。 経済政策においても、このような「有機的に連動する多重の作戦計画」 の発想が必要ですし、 さらには、 「何を以って勝利となすか」という達成目標も明確にしておかなければなりません(作戦計画を練る前に、こっちの方がよほど重要です)。 まず、「何を以って勝利となすか」ですが、 「政府の財政黒字化」達成で「勝った」と思い込むとしたら、 それは、韓信軍が背水の陣を敷いたのを見た趙軍が、勝ったつもりになって有頂天になってしまったのと同じです。 昨年のアイスランドが、まさにその好例ですね。 「政府黒字化、いぇーい♪」と思ってたら、 あっという間に国家丸ごと破綻状態となりました。 さらに付け加えると、 「民間の膨大な外貨建て対外債務」という「別働隊」が、 城の背後から回り込んでいたのに全く気付かなかったわけです。 そして、「勝利目標」については、 短期的な「国民生活の維持向上」と、 100年単位の「国民生活の維持向上」 の 両方を「勝利目標」として持つべきということは言うまでもありません。 ここで、 短期でも長期でも、 国の借金なんてどれだけ増えようが民間の貯蓄が増えるだけですから、 そして、 短期的な「国民生活の維持向上」については、 デフレの今は、一にも二にも財政出動です。 長期的な「国民生活の維持向上」については、 将来はエネルギー不足、食糧不足、資源の枯渇、労働力不足などがほぼ間違いなく襲ってくるわけですから、代替エネルギー技術やロボット技術、リサイクル技術への投資、教育投資うんぬんを中心にした財政出動こそが、短期でも長期でも有用であるということになります。我々に必要なのは、 精神論的な「背水の陣内閣」ではなく、 有用で明確な作戦目標を定め、 その作戦目標を達成するための「有機的に連動する多重的な作戦計画」を 策定して実行する、 本当の意味での「背水の陣内閣」であります。 「本当の意味での『背水の陣内閣』万歳!」と思われた方は↓こちらのリンクのクリックをお願い致しますm(_ _)mhttps://blog.with2.net/in.php?751771ブログランキングに参加しております。ご協力、ありがとうございます!http://ecx.images-amazon.com/images/I/51iN5BfVzDL._SL500_SS75_.jpg
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2009年06月13日
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あとがない、という意味で「背水の陣内閣」 と福田元総理が自ら名づけたのも今は昔、 今昔物語ですが… 「背水の陣」の語源となった「井陘(せいけい)の戦い」は、 そういった「精神論的」な意味合いではなくて、 高度な戦術的意味合いのあるものでした。 さて、なぜこんな話をするのかというと、 一つには、軍事と政治あるいは経済は共通することが多いということと、 もう一つには、これ、本当は「国債を刷れ!」の締めくくりに使おうと思っていて いままで書けていなかったので、 とりあえず書きます^^; (この図は、「井陘の戦い」に関する複数の記述と、 現在の井陘(中国河北省)のgoogleの地図や航空写真に基づいて、 テキトーに作ってみました^^;) さて、 舞台は紀元前204年、つまり今から2200年ほど前です。 漢の武将韓信が、魏の国を占領したあと、 上図のように、西の方から 井陘の道 という、山に挟まれた非常に狭い道を伝って 趙の国を攻めようとしていました。 この井陘の道の出口が「井陘口」と呼ばれているのですが、 この井陘口から東は一気に広大な平野部(趙の領土)が広がっています。 そのため、 趙軍は「井陘口」に大軍を配備し、 韓信の東進を防ぐという戦術を採りました。 趙軍は20万(公称20万なので、実態は半分ぐらいだと思われます) 漢軍は約2万(これももちろん推定です) です。 さて、 韓信率いる漢軍の接近を受けて、趙では軍議が開かれました。 その場で趙の李左車という将軍が、 私に3万の兵をお与え下さい。
間道を伝って、韓信の軍の背後に回りこみ、 韓信の軍の補給を絶ち、退路を断ち、挟み撃ちにすれば、 味方の勝利は間違いありません という提案をしまいた。 しかし、 宰相である陳余(このときの趙は、秦が滅びたあと、陳余が立ち上げた勢力であり、王はお飾りなので、宰相陳余が趙の実質の支配者)は、 こちらは大軍を擁しているのに、
そんな姑息な策を弄すれば、諸国の笑いものになり、なめられるだけだ。 正攻法でやるべきだ と、李左車の提案をにべもなく却下しました。 さて、これについて、史記にはこんな記述があるそうです 韓信、人をして間視せしめ、その用いられざるを知る。
ここで、 「間(かん)」とは、「間者(かんじゃ)」の「間」、スパイのことです。 つまり、 韓信は、かなり強力な諜報網を持っていて、この趙の軍議の様子をしっかり把握したわけです。 これについては、 かつては陳余とともに趙国再建に尽力し、その後、陳余に追い出された 張耳という人物が幕僚として韓信の側に従軍しており、 その張耳の人脈をつてに、大金をバラ撒いて 趙内部のハイレベルな機密情報の収集ができていたようです。 韓信は、上記のような重要な情報を得たため、 本当は不安一杯だった井陘の道の通過を安心して行うことができました。 そして、 陳余のことをよく知り、陳余への恨み骨髄の張耳からは、 陳余の性格をしっかり聞き取っており、 次のような作戦計画を立てたのでした。 概要: 1.別働隊2千を間道を伝って敵の城の背後に回らせ、待機させる。 2.本隊1万を先行させて、川のほとりに陣地を築かせる。 3.自分が1万を率い、「おとり」になって、趙軍をおびき出す 4.自分の率いる1万はわざと負けて、1.の本隊の「背水の陣」に逃げ込む。 これにより、敵軍は勢いづき、陳余の性格からして、ほぼ全軍城から出てくる。 5.「背水の陣」で自軍は全く逃げ場がなく、兵は必死で戦うしかない。 それで必死でこらえているうちに、 1.の別働隊が、手薄になった敵城内に一気に攻め入り、 大量の漢の旗を立てさせる。 6.敵は城に漢軍の旗が大量に立っているのに驚き、 大軍ゆえに統制が取れなくなって混乱を来たし、壊乱するはず。 解説: 2.については、 「背水の陣」の陣地を築く前に、趙軍が攻撃しては来ないか? という心配があるのですが、 韓信は、 「自分が出て行かない限り、趙軍は攻撃してこない。 なぜなら、自分がいない隊を趙が先に攻撃してしまえば、 自分が逃げてしまうことを趙が恐れるからだ。」 と読みました。 →実際その通りになり、本隊は何の妨害も受けずに「背水の陣」を築きました。 また、通常、敵陣と川の間に陣を築くのはナンセンスとされています。 「孫子」行軍篇にも 戦わんと欲する者は、水に附きて客を迎うること勿かれ。 とあり、 「水のほとりで、敵を迎え討ってはいけない」 というのは、当時でも常識中の常識でした。 韓信は、これを逆手に取り、 敵に自分が無能であると思わせることを狙ったのです。 →これもその通りになり、敵はすっかり勝った気分になり、そこに油断が生じました。 それゆえ、韓信が「佯敗」つまり負けを偽装して、背水の陣に逃げ込んだとき、 趙軍は、城を空にして一気に攻め立てようとしました。 さて、結果や如何に? 韓信の計算通り、 趙軍は、自分たちの城に漢の旗が大量に立っているのを見て、 実際には2千しかいないのに、「漢の別働隊の大軍が来ていたのか!」と勘違いし、 恐慌を来たし、指揮系統は完全に喪失して、算を乱して逃げに逃げてしまいました。 その中で、 趙王も、宰相陳余も、李左車将軍も捉えられました。 趙王は漢王劉邦の元に送られ、 陳余はその場で斬首、 李左車は、韓信に「是非、私の師父になって下さい」と乞われました。 さて、ここで李左車の言った言葉もまた、現在の日本でもよく使われる成語として残っています。 敗軍の将、兵を語らず。 |
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