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*ひとつの劇団の結成
さて、2で書いた、強制的に解散させられた2つの劇団の人たちは、いったいどうなったのでしょう。その2つの劇団は、50年以上たった今でも舞台やテレビ、映画で活躍している有名な俳優さんたちもいた、新しい演劇を目指す歴史を持った劇団でした。その劇団の人たちは、それぞれが生きる道を求めて別の劇団に入ったり、映画会社に入ったり、小さな劇団を作ったりしました。
こうした動きの中で、「苦楽座」という劇団が誕生しました。ここに参加した俳優さんたちの中に、最初に書いた「桜隊」の丸山定夫、園井恵子、仲みどり、高山象三などがいたのです。
その頃活躍していた俳優もたくさん、団員になったり、公演に参加したりしました。苦楽座は、1942年の12月の第1回公演から1944年の1月までに、四回の公演を行いました。その第四回公演は、映画で有名になった『無法松の一生』でした。もと宝塚スターで、大ヒットした映画『無法松の一生』で一気に人気女優になった園井恵子と、舞台や映画で活躍していた名優、丸山定夫が演じる舞台の『無法松の一生』が人気を呼び、本公演の終わった後も、その年の11月から12月にかけて、西日本各地十数か所を公演して回りました。
公演が大成功に終わったところで、苦楽座は、「苦楽座移動隊」として日本移動演劇連盟に参加することになりました。丸山さんは、これから先も演劇をして生きていくには、移動劇団として活動していく方がいいのではないかと考え始めていたからです。移動劇団は、農村や漁村、工場で働く人びとをなぐさめる仕事です。そうした人々を、演劇によって力づけ、楽しませることができるのです。丸山さんは、戦争という状態の中で自分が追いつめられていることとは別に、演劇をする者にとって、人々の心をやわらげるという、大切な役割があると思ったのです。
新しい活動を始めた劇団には、17人が集まりました。短期間の練習の後、1945年(昭和20年)の1月から公演が始まり、3月まで続きました。劇場とは違って、講堂や食堂などでの公演ですから、準備がたいへんです。机や、渡り廊下のすのこなどを組みあわせて舞台を作らなければなりません。そして、運んできた大道具や小道具などの荷物をほどいてセットするのも隊員たちの仕事です。俳優さんたちは、汗水流して働きました。一日毎に会場を変えながらの公演でした。
公演は大成功をおさめ、3月4日に東京に帰りました。しかし、その数日後の10日、東京はアメリカ軍による大空襲を受けたのです。死んだ人8万人、怪我をした人13万人、そして100万人もの人の家いえが、あっという間に焼き尽くされてしまいました。もちろん、東京のおもだった劇場も全部焼けてしまいました。
「東京はたいへん危険だし、実際に公演する劇場も焼けて、無い。そんな危険を待つよりも、劇団ごと安全な地方に疎開した方がよいのではないか。」
ますます激しくなっていく戦争の中で、そう考えた移動演劇連盟は、参加しているそれぞれの劇団に、疎開先を通知しました。苦楽座の疎開先は、2月から3月にかけての公演でたいへん評判のよかった広島に決まりました。そして6月の出発にあたり、「桜隊」という名前に変えました。<続く>
(小峰書店・近野十志夫編「子どもノンフィクション8・戦争の悲劇」『象のいなくなった動物園』から加筆して掲載)
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