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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/
16(最終回) 核の愚かさ訴える殉難碑=広岩近広 ≪記事≫
(毎日新聞 2012年5月29日 大阪朝刊)
広島に原爆が落とされた8月6日の午前8時15分、東京都目黒区の五百羅漢寺で毎年、平和の鐘が鳴り響く。原爆死した桜隊の丸山定夫ら9人の「原爆殉難者追悼会」はこうして始まる。
五百羅漢寺で最初に平和の鐘がつかれたのは1952(昭和27)年12月8日だった。遺族や演劇人が参列して桜隊の「原爆殉難碑」の除幕式が行われた。碑銘を書いた徳川夢声は、丸山と一緒に苦楽座を創立している。夢声は訴えた。
「非人道的な原爆を発明、使用した人類を憎み呪う。その最初の犠牲者を永遠に祈念し原爆を使う愚かさに抗議しよう」
桜隊を失った演劇人の怒りが集約されていた。75年には「桜隊原爆忌の会」が誕生する。事務方を担ったのが桜隊の生き残り男優、池田生二だった。原爆に見舞われる直前、空襲に遭った家族を静岡から長野に転居させるため広島を離れて難を免れた。戦後は映画やテレビドラマで活躍するかたわら、生き残った者の使命として「桜隊原爆忌」を根づかせようと奔走した。
この後、妻が丸山の姪(めい)にあたる加藤博務さんが事務局長に就く。加藤さんは常々話していた。「戦争を知る世代が少なくなる現在、そして国内外の核をめぐる事情を考えるとき、夢声の言葉がますます重く響いてくる」
加藤さんから「原爆忌の会」の世話人を手伝ってほしいと頼まれたのが、現在の事務局長で詩人の近野(こんの)十志夫さん(65)である。
「園井恵子の人物史詩を書きたいと思って調べているときに、加藤さんから誘われたのです。演劇でさえ自由でなかった時代に、桜隊を結成して移動演劇という形で芝居を続けた人たちがいた。しかも、原爆で死んでしまった。このことは語り継いでいかねばと引き受けました」
こうして99年から事務局体制になる。加藤さんは近野さんに託して04年に鬼籍に入った。08年の追悼会で、近野さんの詩集「櫻隊−−人物史詩」(青磁社)の序章が朗読された。
<戦局おしせまった一九四五年一月 苦楽座移動隊として再出発、桜隊と改称 広島に就いた十四名のうち 九名があの閃光(せんこう)の下で死んでいった>
「桜隊原爆忌」の追悼会ではゲストの講演のほかに桜隊の親族や平和団体の近況報告があり、広島市長からのメッセージが披露される。被爆65年の追悼会には早坂暁さんが登壇した。「丸山さんの体を無残に焼き殺してしまった核がなくなるときがきたら、そのとき丸山さんは成仏してくれる」
近野さんは語る。「丸山定夫をみとった生き証人は諸岡千恵子さんだけになりました。桜隊の原爆殉難を風化させてはならないと思っています。若い俳優さんが桜隊のことを知れば、自由に芝居のできる時代がいかにすばらしいか、きっとわかってくれるはずです」
この夏、広島と長崎は被爆67年を迎える。「桜隊原爆忌」は、あの日を問い続ける。(この項おわり)
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