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 1945年8月6日、アメリカ軍の落とした一発の爆弾によって、広島市にいた35万人のうちの半数以上の人が亡くなりました。それが『原子爆弾』でした。つづく9日、長崎にも原子爆弾は落とされ、長く続いた日本の戦争は、8月15日、ついに終わりを迎えます。
 原子爆弾による被害の記録は、小説や手記、映画やマンガなどにたくさん残されています。ここでは、たまたま広島にやって来ていた小さな劇団のことを、お話ししましょう。

   *原爆の落ちた日

 ここは、広島に落ちた原爆の中心から750メートル東にある、高野さんのお屋敷です。1945年(昭和20年)8月6日、東京からやって来た劇団「桜隊」の俳優さんたち9人が泊まっていました。ここを事務所にして、劇団の人たちは近くを公演して回っていたのです。劇団の団長は、丸山定夫という有名な舞台俳優でした。丸山さんが体の具合を悪くしていたことと、近くの町々が爆撃を受け、公演の予定が立たなくなっていたこととで、公演はしばらく休みになっていたのです。

 この劇団には、ほかにも有名な俳優さんたちがいました。
 一人は、宝塚少女歌劇団でスターになっていた園井恵子でした。園井さんは、昭和の始め頃から活躍していた女優で、華やかな宝塚の舞台で日本中の若い女性をはじめ、多くのファンを持つあこがれのスターでした。3年前に宝塚をやめ、『無法松の一生』という映画に出演して、もっともっと有名になっていた女優です。森下彰子と羽原京子という、映画会社から離れてやって来ていた女優さんたちもいました。また、仲みどりという女優さんは、地道に芝居の脇役をやってきていた人です。
 これらの人たちは、大道具係の人たちとか俳優の卵の人たちといっしょになって、舞台作りの準備をしながら、だんだん激しくなっていく戦争の中で、地方公演を続けていたのです。

 8月6日の朝早くのことです。その日の食事当番は、園井恵子と仲みどりでした。園井さんは、丸山さんの食事を下げに、二階に上がっていきました。病気で寝ていた丸山さんは、食事を終えて、床に戻るところでした。食事を終えた高山象三という舞台監督をしていた若い青年は、二階に上がっていって一休みしようとしていました。ほかの人たちも、下で食事をすませ、仲さんが台所で洗い物を始めました。

 朝食の準備中だった7時頃、アメリカの飛行機が広島の上空に現れました。それで7時9分、爆撃の危険を知らせる空襲警報が鳴り始めました。しかし、飛行機がそのまま去っていったので、31分に警報は解除されました。落ち着かない食事でしたが、皆、ちょっぴり安心していました。
 その日は、朝8時だというのに、気温が27度もある暑い日でした。

「こんな暑い日には泳ぎにいきたいね。」
 みんなでそんな会話をしていたときのことです。空に、飛行機のような、ぴかりと光るものが見えました。誰かの声が聞こえました。
「何でしょう、空襲警報も解除になったというのに。」
 園井さんが階段を降りてきたときです。ピカッと激しい光が走ったかと思うと、みんなの目の前が真っ白になりました。8時15分のことでした。

 それが、世界で初めて、人を殺すために使われた原子爆弾の爆発だったのです。さて、この劇団の9人はどうなったのでしょうか。その前に、こうした有名な俳優さんたちが、どうしてここまでやって来ることになったか、次に説明しておくことにしましょう。<続く>

(小峰書店・近野十志夫編「子どもノンフィクション8・戦争の悲劇」『象のいなくなった動物園』から加筆して掲載)


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