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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/
15 名優の無念、郷土に伝える=広岩近広  ≪記事≫
          (毎日新聞 2012年5月22日 大阪朝刊) 

 原爆の非命に倒れた名優、丸山定夫は1901(明治34)年に松山市で生まれた。きりっとした顔立ちの胸像として、丸山が生誕の地に帰ってきたのは被爆65年の2010(平成22)年6月だった。胸像を建立したのは「丸山定夫を語る会」で、JR松山駅近くの市立総合コミュニティセンターに建っている。

 丸山の舞台を郷土で見ることもできず、名前すら忘れ去られつつある実情を憂慮しての胸像建立だった。「語る会」の畑野稔会長(82)は補説する。

 「郷土の誇りとして丸山定夫を顕彰する、それだけの建立運動ではありませんでした。戦争で苦しみ、原爆の悲惨な犠牲者として命を落とした名優の姿を形にとどめることは、静かな平和運動の一つだと捉えています」

 松山市に「語る会」が誕生したのは01年12月だった。事務局長の寺岡信子さん(75)は明言する。「近代演劇史に名舞台を刻んだ丸山定夫を語る、さらには舞台に立てなくなった丸山の無念に思いを寄せて戦争と原爆を語る、この二つが語り継ぐ柱です」

 脚本家で小説家の早坂暁さんが像名を揮毫(きごう)した台座に、丸山の「俳優論」が刻まれている。<俳優である前に人間でなければならぬ>を3度繰り返してこう結ぶ。<但(ただ)し人間であるだけでは俳優になれぬ>

 畑野さんは言った。「丸山らしい一文です。戦時下にあって、真実の人間を表現することで、丸山は国策へのぎりぎりの抵抗を試みていた、つまり矜恃(きょうじ)を持って演じていたのです」

 寺岡さんが引き取った。「演劇人はもとより若い人たちは、胸像から丸山の役者魂に触れてほしい」

 一方、園井恵子像は岩手県の「岩手町働く婦人の家」の敷地に建っている。岩手山を望む立像は96年8月、園井が幼少期を過ごした、この地に完成した。働く婦人の家には園井恵子の資料室も併設されている。

 立像の建立を推進した「園井恵子を偲(しの)ぶ会」の柴田和子会長(64)は語る。「園井さんは生まれたときから平和のメッセージを携えていたと思います。園井さんの遺志を継承しようと、没後65年には町をあげて追悼イベントをしました」

 10年8月の企画「原爆に散った未完の大女優 園井恵子 今、語り継ぐあの瞬間」は大盛況だった。

 生誕100年を迎えるにあたって、柴田さんは声を強めた。「これからも園井さんの平和への思いを継承していきます」

 また被爆地・広島には「移動演劇さくら隊原爆殉難碑」がある。毎年8月6日の朝、広島市民劇場は平和大通りに面した碑の前で「さくら隊を偲ぶ集い」を開催する。昨年の集いでは福島第1原発事故の報告があった。事務局長の井上邦枝さん(63)は述懐する。

 「幼い子どもを抱え放射能におびえている若いお母さんの報告は、戦争体験のない参加者にも、広島から発信していく重要さを教えてくれました」

 ゆかりの地で、被爆地で、桜隊は語り継がれている。(次回は29日に掲載)

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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/
14 「憎んでいます、いまだに」=広岩近広  ≪記事≫
          (毎日新聞 2012年5月15日 大阪朝刊) 

 戦争と原爆をライフワークにしている映画監督の新藤兼人さんにインタビューしたことがある。1988年に封切られた「さくら隊散る」について、こう語った。

 「無念の思いを残し、新劇の俳優はどのようにして死んでいったかを克明に描けば、放射能がどんなふうにして人間を殺したかがわかると思いました」

 スクリーンの丸山定夫は激しいシャックリのたびに、体がびくんびくんとはねる。たたきつけられているようでもあった。うつろな目は一点を見つめ、ゆるゆるとあげた右手が何かをつかもうとしていた。園井恵子はブドウ粒の紫色の潰瘍が全身にでき、絶望に塗り込められた目を空に泳がせていた。

 もちろん丸山も園井も俳優の演技なのだが、2人はこうして死んでいったのだと、息をのんで映像に重ねた。新藤監督は「さくら隊散る」(未来社)の「あとがき」に書いている。

 <放射能が人間の体にしのびこんで、内部臓器を食いちらす状況は、丸山定夫、園井恵子、高山象三、仲みどり、がたどった死のプロセスが如実に物語っている。ピカッと光った瞬間に即死した以外の人はみな、こんな経過をふんでたおれたのだと思う。いったん助かって、ほっとさせ、あとからじわじわと殺すのだから、怖ろしい正体の怪物である。(略)おそらく今後、人類が放射能にさらされることがあるとすれば、丸山定夫たちのようにして死んで行くだろう>

 あれから67年の歳月をへて、84歳を迎えた元珊瑚(さんご)座女優の諸岡千恵子さんの脳裏から、最期をみとった丸山定夫の姿が消えることはない。「何十万もの人々が、丸山さんや園井さんと同じように苦しんで死んでいったかと思うと、今でも体が震えてなりません。人間の尊厳を奪って殺すのが核兵器なのです」

 元タカラジェンヌの内海明子さんは園井恵子の最後の脈を取っている。「原爆をどう思いますか?」と聞くと、内海さんは両手を顔の前にあげて「×」をつくった。91歳の白い手の指先まで力がこもっていた。

 俳優の佐野浅夫さん(86)は桜隊の前身である苦楽座で丸山らと過ごし、亡くなる直前の仲みどりを東大病院に訪ねた。「たった一つの原爆で、家族同然にしてきた桜隊を皆殺しにされた。原爆は造ってはならなかった、使ってはならなかった。戦争ほど嫌なものはない、原爆ほど嫌なものはありません」

 桜隊の演出家で今は亡き八田元夫は著書「ガンマ線の臨終」(未来社、65年7月)で<あとがきの最後に、もう一度>として特記した。<アメリカよ、お前たちは、ほんとうに許すことの出来ない、わるい、わるい、ことをやったのだぞ、とかきしるす>

 今年2月28日に89歳で他界した「桜隊原爆忌の会」の中村美代子会長は昨夏の追悼会で言い切った。

 「私は原爆をいちばん憎んでいます。いまだに憎んでいます」(次回は22日に掲載)

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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/
13 米軍封印…消えたカルテ=広岩近広  ≪記事≫
          (毎日新聞 2012年5月8日 大阪朝刊) 

 <二週間目・黒髪ボロボロ 「原子爆弾」その後>

 移動演劇「桜隊」の女優、仲みどりの原爆死に言及した毎日新聞(大阪)の見出しである。

 1945(昭和20)年8月31日付の記事は、GHQ(連合国軍総司令部)がプレスコードを敷いて原爆報道をすべて禁止する直前に掲載された。長めの記事だが、資料価値のある内容なので引用したい。

 <広島、長崎に魔の旋風を起こした呪うべき原子爆弾の残虐性は日を経るに従ってあらゆる観点から提出暴露されているが、この度わが国医学界の手で新たに病理学的立場からその悪鬼無残の真相が究明されるに至った。(略)

 東大都築外科の玄関口に衰弱甚だしい三十五、六歳の患者が家人に運ばれてきた。この患者は丸山定夫氏を隊長とする移動演劇団桜隊の花形、仲みどりさんである。(略)丸山氏をはじめ四人が爆死を免れたが、それも束の間、つぎつぎと倒れていった。みどりさんは災害の人として東大病院都築博士以下同外科総力を挙げての努力にもかかわらず、背中に受けた軽い擦過傷から日一日と衰弱してゆくばかりであった。輸血、輸血、残された手段は輸血以外にはなかった。恐るべし輸血した鍼(はり)の傷痕からまたまた腐蝕(ふしょく)しはじめていくではないか。

 広島で罹災(りさい)直後身体的内部症状の認められぬままに一人で元気よく帰京した旬日前の容姿も極度の食欲不振で今は見る影もなく衰え、入院四日目罹災後二週間目には房々とした黒髪はボロボロ抜けはじめ、一寸(ちょっと)した擦傷程度の背中の傷も急激に拡大化膿(かのう)、入院当初行った血液検査によると血球とくに白血球に非常な変化があり(略)その抵抗は著しく減少していた。二十四日朝みどりさんは今朝は少し元気が出たようだと付添の医師と話し合ったほどだったが、その日容体は悪化、同日ついに不帰の人となってしまった。実に罹災後十九日目である。

 死体は三宅助教授が主任となってただちに病理解剖に付されたが、その結果内臓に顕著な変化が認められた。何しろ原子爆弾による患者として最初の解剖なので、その身体に作用する恐るべき病理原因はただ内臓に現れた症状がレントゲン線、ラジウム線を作用させた際、最大の病症にまったく一致するという程度のことが判明したのみで病理学上はまだ材料が不十分だ。しかしこの史上空前絶後ともいうべき呪いの災害を被ったわが国としては医学界の名誉にかけても、これが身体におよぼす恐るべき影響ならびに症状を徹底的に究明し、これを世界に公示すべき重大な責務がある>

 都築正男教授は三宅仁助教授らを連れて広島入りするが、そこで得た原爆症のデータは米軍が持ち帰った。加えて9月19日にプレスコードが敷かれ、原爆の実相は長きにわたって封印された。日本の医学界とマスコミの敗北であった。

 仲みどりは「原子爆弾症」と医学的に診断された第1号患者となった。しかし、彼女のカルテは東大病院から消えたままである。(次回は15日に掲載)

(掲載写真は2日後アップ) 
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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/
12 面影消え苦しむ姿「無念」=広岩近広  ≪記事≫
          (毎日新聞 2012年4月24日 大阪朝刊) 

 憲兵は日本陸軍の兵科の一つで、軍事警察をつかさどった。権限が拡大されると思想弾圧など国民を監視したが、戦後、GHQ(連合国軍総司令部)によって解体された。

 当時、20歳になったばかりの佐野浅夫さんは、1945(昭和20)年8月15日の終戦を過ぎても軍から解放されなかった。幹部候補生を対象に補助憲兵を命じられた。

 86歳を迎えた3代目水戸黄門の佐野さんは語るのだった。「GHQのマッカーサー司令官が日本に来るまでの間、兵士が反乱を起こさないように治安を維持する補助憲兵にされたのです。広島に新型爆弾が落とされたと聞いていたので、桜隊のことを気にかけながら軍隊に残りました」

 この頃、珊瑚(さんご)座の女優・諸岡千恵子さんは広島で丸山定夫をみとり、神戸で園井恵子と高山象三に会って東京に戻っていた。園井と高山の死去は自宅で知った。広島の同じ寮で一時期を過ごした桜隊の9人が原爆に遭い、仲みどりを除く8人が他界したという。この悲しい事実を前に、諸岡さんは愁嘆にたえなかった。一方で、仲だけは生きていてほしいと祈り続けた。

 「仲さんは気性が強く男勝りでしたので、どこかで生き延びているのではと希望を抱きました。でも、原爆に遭った桜隊の人たちが次々と死んでいるので穏やかではなかったです」

 実はこのとき、仲は広島から東京・杉並の自宅にたどり着き、東大病院のベッドに横たわっていた。

 原爆を落とされた8月6日、仲は崩れ落ちた寮のがれきの下から抜け出して、京橋川にいるところを陸軍の救助隊に助けられた。収容所で死にゆく人たちを目にするにつけ、仲はじっとしていられなかった。

 8月8日、仲は破れたシーツに半裸の身を包んで、東京に向かう復旧一号列車に乗り込んだ。この列車には園井と高山も乗っていたが、互いに知る由もない。

 仲が東京の実家に着いたのは10日未明だった。容体は日増しに悪化し、丸山が亡くなった8月16日、母親に連れられて東大病院を訪ね、そのまま入院した。

 佐野さんは追想する。「ある補助憲兵から、桜隊の女優さんが広島から帰ってきて東大病院に入院している、と聞いたのです。仲さんだとわかったので、会いたい一心で東大病院に駆けつけました」

 佐野さんが憲兵の腕章を見せると、東大病院はすんなりと通してくれた。

 「お見舞いではなく、仲さんの顔を見たかった。桜隊のことを聞きたかった。その一念です」

 病室で見たのは、佐野さんの知っている剛健な仲ではなかった。「面影すらなく、問いかけても、うぅうっという声しか聞けませんでした」

 急性原爆症に苦しむ仲の様子について、佐野さんは多くを語らない。口に出すべきではない、と今も思っているのだろう。それほどに原爆は、仲みどりを壊していたに相違ない。

 「無念極まりました」

 沈黙の後、佐野さんはそう言って唇を引き結んだ。(次回は5月8日に掲載)

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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/
11 死んだら芝居ができん=広岩近広  ≪記事≫
          (毎日新聞 2012年4月17日 大阪朝刊) 

 「実を言いますと、私は散り残った桜です。召集されなかったら、桜隊の10人目の原爆犠牲者となるはずの人間でした」

 国民的人気を集めたテレビドラマ「水戸黄門」でおなじみの俳優、佐野浅夫さんが「桜隊原爆忌」の追悼会でマイクを握ったのは06年と07年の8月6日だった。3代目黄門の佐野さんは歴代最長の7年間にわたり水戸のご老公を演じた。

 この日はサマースーツに身を包んで、長い間の沈黙を破った。「丸山定夫さん、園井恵子さん、仲みどりさん、高山象三くんの4人と一緒に苦楽座で生活をしていたのです」

 苦楽座は桜隊の前身で丸山定夫、徳川夢声、薄田研二らが1941(昭和16)年12月に結成した。俳優志願の佐野さんは日大芸術学部で薄田の息子、高山象三と同期だった縁で、彼に誘われて苦楽座に参加する。

 「私は園井さんよりひと回り下の丑(うし)年で、最年少の18歳でした。園井さんから、ウシウシ頑張ろうね、と励まされたものです」。東京都内のホテルのラウンジで、86歳の佐野さんは振り返る。「宝塚時代のファンから頂いた貴重なヨウカンを、園井さんがお裾分けしてくれて食べていたら、仲みどりさんに怒られてね。男の子がそんな甘い物を食べるんじゃないのって。園井さんが正座してお化粧をしている隣で、仲さんはステテコをはいてあぐらをかく威勢のよさがありました。家族的な劇団でした」

 舞台にあがると、それぞれがプロの俳優力を発揮した。丸山と園井の「無法松の一生」を舞台の袖で見ていた佐野さんは、役者の神髄を学んだという。

 「生身の人間になりきり、ポロポロと涙を流す丸山さんは、人間の情を表現できる俳優でした。相手役の園井さんも丸山さんに応じて、やはり涙をこぼす。2人の演技をそばで見たことが、私の一生の財産です」

 佐野さんが苦楽座から引き裂かれたのは45年3月だった。陸軍の甲府連隊に召集されたのである。高山は病気がちだったので地方公演に出るのを許された。苦楽座が桜隊と改称して広島に移動するのは、6月のことだった。

 佐野さんは語る。「桜隊は、苦楽座でつけた名前ではありません。当時の劇団は国から花の名前を押しつけられた。俳優座は芙蓉(ふよう)隊、宇野重吉さんは瑞穂(みずほ)劇団でした。高山くんは桜は軍隊のイメージが強いと嫌がっていたが、芝居をするために仕様がなかった」

 佐野さんは標準体形だったので、「老け役もできれば少年役もできる」と、男優の少ない劇団にあって期待された。だが召集から逃れることはできない。「お国の赤紙には勝てませんよ」。佐野さんは東京を離れる前に丸山を訪ねた。

 「丸山さんは私を見つめて、ぜったいに死ぬなよ、と強い口調で言ってくれました。死んでしまったら芝居ができません。そのことを伝えたかったのでしょうが、当の丸山さんが原爆にやられてしまったのだから、悔しいですよ」

(次回は24日に掲載)

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