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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/
10 死しても女優であり続け=広岩近広  ≪記事≫
          (毎日新聞 2012年4月10日 大阪朝刊) 

 終戦の年の夏、六甲の坂道を新聞紙に包んだ氷を手にして、24歳の内海明子さんは走っていた。宝塚時代から可愛がってくれた園井恵子を助けたい一念だった。

 「熱が40度を超したというので額に手を当てると、それは燃えるような熱さでした。もう井戸水くらいでは役に立たないと思いました」。園井の本名・袴田トミから「ハカマちゃん」と言っていた内海さんは呼びかけた。「氷を買ってきてあげるから、ハカマちゃん、待っててね」

 園井は小さくうなずいた。ビタミン注射を打った左腕は倍以上に腫れ、皮下出血による紫色の斑点ができていた。

 兵庫県宝塚市の内海さんは、67年前に追憶の糸をたどる。「氷屋さんを探し当てても、ひとかけらも手に入らなくてね。断られ続けても、神様どうかハカマちゃんのために氷を与えてくださいと祈りました」。内海さんは句切って言った。「何軒目だったでしょうか、やっと1キロほどの氷を頂いたのです。解かしてはならないと新聞紙にくるんだ氷を持って、坂道を必死で駆け上がりました」

 園井がわずかに呼吸を保っていた中井志づさん宅に戻るや、内海さんはガーゼを氷で冷やした。そのガーゼを園井の鼻や口元にあてると、弱々しい声で応えるのだった。「あー、気持ちいいわ」

 内海さんはしんみりと続ける。「あのときは、うれしくてハカマちゃんの枕元で泣きました。この言葉が最後になろうとは思いもしませんでした」

 8月21日、園井は神戸で帰らぬ人となった。

 「心配のあまり脈をとっていたのですが……、ハカマちゃんの脈がかすかになって、プツッと切れてしまいました」

 一方、桜隊と同宿した珊瑚(さんご)座の女優・諸岡千恵子さん(84)は東京の自宅で、園井が死んだと聞かされる。「信じられないので、だって神戸で会ったとき、助かってよかったねと喜び合ったばかりよ−−と言い返した覚えがあります」

 内海さんは園井に薄化粧を施した。「髪は少し薄くなっていましたが、苦しんだ顔ではなく、気品があって美しい、私の知っているハカマちゃんでした」

 園井は死に化粧までも映えていた。死してもなお女優であり続けた。

 一人息子の高山象三を骨揚げした俳優の薄田研二は、物言わぬ園井に手を合わせると、持っていたスケッチブックを開いた。園井の美しい顔を残したかったにちがいない。

 内海さんの夫で、宝塚歌劇団の演出家だった故内海重典氏は「私が愛した宝塚歌劇」(阪急ブックス)に書き留めた。

 <薄田さんはデスマスク(死顔)をスケッチしていた。(略)遺体を大八車に乗せ、六甲の焼け跡を縫って火葬場に運んだ。引き手は八田元夫さん、押したのは薄田さんと私だった>

 志づさんや内海さんら女性たちは、園井の遺体を乗せた大八車の後に従った。忍び泣きが六甲の坂道に降り注いだ。(次回は17日に掲載)

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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/
9 死の気配ごまかした日=広岩近広  ≪記事≫
          (毎日新聞 2012年4月3日 大阪朝刊) 

 神戸港は夏の落陽を浴びて光っていた。沖合には擬装空母が放り捨てられてあった。付近の船舶はことごとく米軍の空襲で沈没させられたが、子どもだましのおとり船は見向きもされていない。

 終戦から4日後の1945(昭和20)年8月19日に桜隊の演出家・八田元夫が、海に開けた六甲山麓(さんろく)に建つ中井志づさん宅の2階から目にした光景である。八田のそばでは、舞台監督兼俳優の高山象三が片息をついていた。

 高山は、やっと往診してくれた医者から、法定伝染病のジフテリアと診断された。誤診であるが、急性原爆症とわかる開業医はまずいなかった。

 桜隊を率いた丸山定夫をみとった八田だけは、ジフテリアに異を唱えた。しかし、ここは医者の診断に従い、高山を隔離する病院を探した。だが見つからず、高山と一緒に広島から逃げてきた園井恵子を、やむをえず隣の部屋に移した。

 ほどなくして園井の部屋から、高熱にあえぐ息遣いが聞こえてきた。8月20日を迎えていた。

 宝塚時代の後輩、内海明子さん(91)は中井家で園井に付き添った。園井の本名・袴田トミから「ハカマちゃん」と呼んだ内海さんが、当時を振り返る。

 「8月19日までは少し歩けたハカマちゃんですが、20日にはすっかり弱られたので、ずっとそばにいて看病しました。すると中井のおばさまから呼ばれて−−象ちゃんが亡くなったの、ハカマちゃんに知られたらいけないので注意してね、と言われたのです。隣の部屋が静かになったのに気づいたハカマちゃんから、象ちゃんはどうしたのと聞かれると、眠っているみたいよと答えて、夢中でごまかしました。あのときは、とてもつらかったです」

 八田が珊瑚(さんご)座の女優・諸岡千恵子さんに託した手紙を読んだ高山の両親が中井家に着いたとき、一人息子は火葬場に送り出された後だった。志づさんが「追いかければ間にあうかもしれません。お供します」と両親の背を押した。

 だが両親は、息子の顔を見ることができなかった。炎の向こうに幻の息子がいたにすぎない。高山象三、享年21だった。

 この間も内海さんは園井のそばにいた。高山の死はふせられたままであった。高山の遺体を納めた座棺を担いだ志づさんの夫らは、園井に気づかれないように静かに階段を下りた。

 園井は低声で、内海さんに頼んだ。「阪大病院に連れて行ってくれない」

 阪大病院に園井が思い至ったのは、体験したことのない症状に不安をおぼえたからに相違ない。当時、24歳の内海さんは「大好きで、尊敬するハカマちゃん」を助けてあげたいと痛切に思う。

 だが園井の容体と当時の状況からして、いかんともしがたかった。

 「お熱が下がったら行きましょうね」

 太く腫れた園井の腕を、内海さんは何度もさするのだった。(次回は10日に掲載)

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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/
8 元気だった姿、面影なく=広岩近広  ≪記事≫
          (毎日新聞 2012年3月27日 大阪朝刊) 

 移動演劇「桜隊」を率いた丸山定夫の絶筆は手紙だった。舞台監督兼俳優を務めた高山象三の両親に宛てて、原爆に遭遇する1週間前に書いた。<父上様 母上様 ご機嫌いかがですか>に始まる。<その後大きなブーブー(空襲)は来ませんか。(略)象ちゃんはつくづく私一生の掘り出しもの−−幸福でした>。<七月二十九日 ガン>と結ばれている。

 高山の父親は俳優の薄田研二で、丸山と一緒に苦楽座を創立した同人である。母親は面倒見のよさから、新劇人の間で「薄田のママ」と慕われていた。

 一人息子の高山は、演出家を目指して日大芸術学部に進んだ。桜隊では舞台監督や演出助手、さらに少ない男優の役を補っていた。原爆に襲われたとき、最年少の21歳であった。

 桜隊の演出家・八田元夫は広島で丸山と永別した後、神戸の中井志づさん宅で、捜していた園井恵子と高山に出会う。8月19日のことで、著書に記している。

 <これが一月前、元気な姿で別れたあの象三なのだろうか。頬はぐっとこけ落ち、鼻の穴は何やら赤黒いものがつまり、血の気を失ってうすら開いた口元が苦しそうに息づいている。思いなしか額がうすくはげ上がっている。枕元には紙と鉛筆が投げ出され、たどたどしい筆跡で「水がのみたい」と書いてある。(略)どす黒く血の塊がつばと一緒にはき出された。喉が赤くただれ、その喉仏の周りに赤黒い血がべったりとねばりつき、歯ぐきからも黒血が吹き出している>「ガンマ線の臨終」(未来社)

 八田に同行していた珊瑚(さんご)座の女優・諸岡千恵子さんは手紙を託される。「これを持って東京の世田谷に行ってほしい」。高山の両親に宛てた、息子の重篤を知らせる手紙だった。

 諸岡さんは神戸から東京に向かう。「復員の兵隊さんで汽車は満員だったのですが、慰問公演をした部隊の兵隊さんがいて、窓からぎゅうぎゅう詰めの車内に押し込んでくれたのです」

 84歳を迎えた諸岡さんは「生きているのが不思議です」と語る。幸運に恵まれたのも事実で、東京駅に着いたとき、兵役を解かれた長兄を見つけた。「事情を話したら、ぼくが手紙を持って行くよと助けてくれたのです」。諸岡さんは続ける。「実家に帰ると、おまえ足があるんだね、と母親が真っ先に聞くのです。広島の状況からして諦めていたのかもしれません」

 そのころ中井家では、食べ物が喉を通らなくなった高山に、桃を搾って口にふくませていた。志づさんの夫が神戸製鋼の幹部社員で、工場で分けてもらった貴重な2個の桃だった。

 一方、高山と中井家に駆け込んだ園井も変調を見せ始めていた。園井の看病を続けた宝塚の後輩、内海明子さん(91)は話す。「あれほど元気だったのに、血便、血尿、発熱が見られるようになり、とうとう床につかれてしまって……」

 原爆から放たれた放射線は残忍きわまりなかった。(次回は4月3日に掲載)

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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/
7 終戦「芝居ができるわ」=広岩近広  ≪記事≫
          (毎日新聞 2012年3月20日 大阪朝刊) 

 宝塚歌劇団から舞台女優を目指して桜隊の丸山定夫に師事した園井恵子は、岩手県の松尾村(現八幡平市)で1913(大正2)年8月6日に生まれた。32歳の誕生日の朝、原爆に見舞われたのだから、非情な運命である。だが園井は一時、運命の女神に救われたと思っていた。「六甲のママ」と慕った神戸の中井志づさん宅に飛び込んだとき、園井は真っ先に口にしている。「私、助かったのよ、助かったのよ」

 当時の園井については、結婚して中井家の近くに住んでいた元タカラジェンヌの内海明子さん(91)が詳しい。加古まち子の芸名で宝塚の舞台に立った内海さんは、7歳上の園井から妹のように可愛がられた。園井の本名が袴田トミなので、「ハカマちゃん」「アーちゃん」と呼び合い、園井が中井家を訪問するときは決まってお供をしている。

 内海さんは「大好きなハカマちゃん」の記憶が薄れることはなく、むしろ鮮明になってきたという。

 「広島のハカマちゃんが心配で中井のおばさまを訪ねると、浴衣を着たハカマちゃんが出てきて、ニコニコしながら元気に私を迎えてくれたのです。それも無傷ですから、抱き合って無事を喜び合いました」

 実は−−広島に原爆が落とされる直前の7月末、園井は公演の合間をぬって中井家でくつろいだ。広島に戻る8月1日、内海さんは相談を受ける。

 「私が広島出身なので、よい疎開先はないだろうかって、ハカマちゃんに聞かれたのです。お寺を紹介したのですが、すでに大学生が借りていました」

 そうした経緯もあって内海さんは園井を案じていた。8月8日に中井家で再会できると、やっと安らいだ。「洗髪したら髪の毛が抜けたので、中井のおばさまから、髪に触らないようにと言われて、そのことをよく守っていました」

 一方、園井と助け合って、広島から中井家にたどり着いた舞台監督兼俳優の高山象三は衰残の身だった。

 「象ちゃん、大丈夫、と何度も声をかけて、ハカマちゃんは象三さんの看病に懸命でした。たしか8月11日だったと思います。歩けない象三さんを荷車に乗せて、中井家の人たちと病院に連れて行ったのですよ、ハカマちゃんは」

 東北人の粘り強い性格にもよるのだろうが、このとき園井には、21歳の高山よりも体力が残っていた。

 終戦を迎えた8月15日、内海さんは園井の輝く瞳を見た。「これで思いっきり、お芝居ができるわ。そう言って、ハカマちゃんは心の底から喜んでいました」

 8月17日、園井は故郷の実母に宛てて、神戸から希望をこめた手紙を出した。

 <お会いしたく、たまらなくなりました。ほんとうに九死に一生を得たとはこのことです。しかも八月六日、生まれた日に助かるなんて、ほんとうに生まれ変わったんですね。健康に立ち返る日も近いでしょう。そうしたら、元気でもりもりやります。やりぬきます。母さん江>(骨子)(次回は27日に掲載)

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