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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/
5 「生きろ」叫び続け…=広岩近広 ≪記事≫
(毎日新聞 2012年3月13日 大阪朝刊)
大阪行きの列車が広島駅を出たのは午前3時過ぎだった。崩れ落ちたホームに詰めかけ、始発を待ち焦がれた乗客で車内はあふれた。1945(昭和20)年8月19日のことである。
桜隊の演出家・八田元夫は、珊瑚(さんご)座を率いた乃木年雄から頼まれて諸岡千恵子さんともう一人の若い女優を連れていた。
東京都内の自宅で、84歳の諸岡さんは追想する。「夜になると、焼け野原のあちこちで青白い火がぽっぽっとあがるのです。八田さんから、死体の燐(りん)が燃えているんだ、火の玉だよと聞いて、びっくりしました。怖いというより、多くの死体が埋葬されていないのだ、と思い胸が痛みました」
広島を後にした列車の車内は、復員の兵隊が目立った。八田の著書によると<汗と垢(あか)と埃(ほこり)と脂と革の息でむんむんとむれ返っていた>。太陽が海から昇り、車窓が光り始めたとき、八田が突然言った。
「一緒に神戸で、園井くんを捜そう」
根拠はあった。桜隊の寮と同じ町内会の理髪店主から証言を得ていた。「広島駅の方に、女の人と若い男の人が、肩を抱き合うようにして逃げるのを見ました。阪妻さんの無法松に出ていた女の人です」
園井恵子の名を高めたのが、阪東妻三郎と共演した映画「無法松の一生」だった。八田は男女を、園井と演出家を目指す舞台監督兼俳優の高山象三の2人だと推断していた。
諸岡さんは語る。「園井さんが宝塚歌劇団のときから家族同様にしてもらっていたお宅が神戸にあり、そこにいるのではないかと勘が働いたそうです。私は大阪で乗り換えて東京に戻る途中でしたが、八田さんに従いました」
桜隊の演出家と珊瑚座の2人の女優は神戸で降りた。米軍のB29爆撃機に27回も空爆を受けた神戸は、無残な焼け跡が広がっていた。園井が「六甲のママ」と呼んだ中井志づさんの住まいは、六甲山に向かう坂道の途中にあった。
亡き中井さんは北海道庁立小樽高等女学校の卒業生で、園井の先輩にあたる。こうした縁もあり宝塚時代から園井を支援していた。
八田が中井家の玄関を開けると、突き当たりの階段のそばに園井は揺れるように立っていた。八田の勘は的中したのである。
園井と高山は東京に向かう復旧一号列車に乗り込んだ。神戸にたどり着いたのが8月8日の昼下がりだった。園井は道端で拾った男物の地下足袋と短靴を別々の足に履き、素足の高山は藁(わら)を巻きつけていた。
「生きていたんだね、よかったね、ほんとによかった、と抱き合いました」
このとき高山は衰弱が著しく、高熱に浮かされて2階に寝ていた。園井は八田と諸岡さんに「ガンさんは?」と、桜隊の丸山定夫の安否を問うてきた。死んだとは言えず、八田は口をつぐんだ。諸岡さんも黙っていた。園井は察したようで、その夜、「ガンさんの最期を聞かせて」と、ぽつりと言った。(次回は20日に掲載)
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中村美代子さん、2012年2月28日ご逝去。(家族葬とのことで、発表を遅らせました)
中村さんは桜隊原爆忌の会の会長として、出向く先では原爆と丸山定夫についてお話しされ、8月6日の会には多くの人に声をかけて誘い、と、熱意をもって活動していただきました。「私にはこれくらいしかできないから」と言って…。私たちにとってだけでなく、大変得がたい存在でした。
「丸山定夫を殺した原爆が憎い! 原発が憎い!」
(2011年桜隊原爆忌で発言されているときの表情)
亡くなったと聞く2月28日の前日昼に電話をもらいました。3月4日に開く世話人会の確認のためでした。29日には、電話の後投函された中村さんからのハガキも届きました。会を風化させないよう、今後どのように運営したらよいか、方針を打ち出すための会議なので、中村さんも真剣に後釜を考えなければならないと言っていた翌日のことなのですから、無念です。丸山定夫を熱く語る人がまた一人減りました。舞台を観た人もほとんどいなくなっていってしまいます。ご冥福を祈るしかありませんが、きちんと後継方法を考えるのが、今の私たちの仕事です。
【中村美代子さん略歴】 俳優・元俳優座、新劇俳優協会理事、桜隊原爆忌の会会長
1923年生まれ。芸術小劇場、俳優座を経て現在フリー。
92年、清水邦夫『冬の馬』で紀伊国屋演劇賞受賞。
舞台:『三文オペラ』、『ピーチャム夫人』『女の平和』他。
映画:『人間の条件・完結篇』、『赤ひげ』、『金環蝕』、『死の棘』他。
TV:NHK『繭子ひとり』、『はね駒』他。
【注】Wikipediaに、生年1924年とありますが、本人と話した記憶(大正12年生まれと聞いていました)からご家族に確認し、1923年の誤りと判明しました。
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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/
5 「生きろ」叫び続け…=広岩近広 ≪記事≫
(毎日新聞 2012年3月6日 大阪朝刊)
<亡(ほろ)びるな 亡びるな 生きろ/起きろ 起きろ 起き得るかぎり/生き得る限り 生きろ 再び生を楽しめ>(詩「亡びるな」の冒頭)
新劇の団十郎と呼ばれ、桜隊を率いた丸山定夫がこの詩を書いたのは23歳のときだった。
それから21年後の1945(昭和20)年8月15日、丸山は宮島の存光寺でふせていた。急性原爆症で苦しむ姿は痛々しかった。
丸山に食事を運んでいた珊瑚(さんご)座の女優、諸岡千恵子さんは枕元で声をかけた。
「戦争が終わりましたよ、丸山さん」
すると丸山は、か細い声で応じた。「脚本を検閲されずに、好きな芝居ができる世の中になったんだね、よかったねぇ」。声は途切れながらも、丸山は希望をつないだ。「この体を治して、いい芝居をやってみせるよ」
このとき丸山は歯茎から血を出し、頭髪もかなり抜け落ちていた。
2日前には、桜隊の5人の女性が白骨で発見された。丸山の記憶から、事務長の槇村浩吉や珊瑚座の座長、乃木年雄らが広島市内の寮の焼け跡を掘り返して見つけたのだ。島木つや子(22)、森下彰子(23)、羽原京子(23)、小室喜代(30)、笠絅子(けいこ)(41)。笠と島木は母子、小室は槇村の妻で衣装係兼世話人として加わっていた。
丸山は演出家の八田元夫にうめくような声で言っている。
「こんなにまでやられて、なぜ日本は手をあげなかったのだろう−−」
原爆により骨と化した5人の通夜は存光寺で営まれた。丸山は遺骨に手を合わせて震えていた。諸岡さんたちが隣室に引き取ると、丸山の号泣が夜の底を揺さぶった。
このころ宮島では、運びこまれた重傷の被爆者が次々と亡くなっていた。「火葬場がないうえ、ひつぎの数も限られたので、亡くなった人は果物箱に折って入れるのです」。諸岡さんは18歳の夏を振り返る。「高く積まれた箱からは死臭が漂っていました」
空腹にあえぐ諸岡さんが足をとられて、ふらふらっと箱の山に近づいたとき、地元の人から注意された。「だめよ。水が流れているでしょ、死体の水よ」。諸岡さんは思わず空を仰いだ。「人間は死んだら、水になるのだろうか」
日付が8月16日に変わった。<生きろ>と胸のうちで何度も叫んだにちがいない丸山は、体力を使い切っていた。妻の骨を拾った槇村は「桜隊原爆忌の会」が作製したリーフレットに「丸山定夫の最期」を残した。
<高熱は朝から続いているし、シャックリは病人を苦しめ続けていた。ガンさんには、庭にとび出して井戸で水をかぶるような体力は、最早(もはや)なかった。時に、耐え切れず、水を一口飲んでは噎(むせ)んで体力を消耗した。(略)女医さんが来てくれた。「ご臨終です」と云(い)って、時計を見ると午後九時三十分だった>
享年44、丸山定夫の人生は永遠に幕を閉じた。(次回は13日に掲載)
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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/
4 「熱い」虫の息で水浴び=広岩近広 ≪記事≫
(毎日新聞 2012年2月28日 大阪朝刊)
その年の夏、18歳だった彼女は映画の一場面のような光景を脳裏にとどめた。67年も昔のことだが、まるで昨日の出来事のように、くっきりと記憶のスクリーンに映し出せる。
月が高く昇った半夜、寺の裏手にある井戸端で、痩せた男が水浴びをしていた。井戸につるべを落とし、くみあげた水を頭からかぶる。時間が止まったように鈍い動作の後、やがて男は動かなくなった。
移動演劇「珊瑚(さんご)座」の女優だった諸岡千恵子さん(84)は振り返る。
「大変よ、劇団の人が水浴びをしている、と言われて庭に出たのです。丸山定夫さんでした。井戸端に座りこんで動かないので、どうしたのですかと聞くと、体が熱くてかなわないので、水浴びをしているんだよ、と消えるような声で言われたのを覚えています」
広島湾に浮かぶ宮島の存光寺で水浴びをしていた丸山定夫は、爆心地から約750メートルの堀川町の寮で被爆した。寮は壊滅し、丸山が率いた桜隊の8人も、爆風と熱線と放射線に襲われた。諸岡さんら珊瑚座の座員は存光寺に疎開したうえで、8月2日から地方巡演に出ていて無事だった。
8月10日、存光寺に丸山メモが届いた。<タイビにいる。れんらくたのむ。ガン>。紙切れに鉛筆で刻んだ筆跡は本人に違いなく、丸山の愛称は「ガンさん」で通っていた。タイビは鯛尾収容所とみられた。
丸山メモが届くのを待っていたかのように、桜隊の2人が東京から存光寺に駆けつけた。演出家の八田元夫と事務長の槇村浩吉である。2人は召集された男優を補充するために帰京していた。
八田と槇村は、丸山の生存を喜んだ。広島にいた桜隊の9人全員が死亡したのではないか、と八田は覚悟のうえだった。
2人は存光寺を後にして鯛尾収容所に向かうが、丸山は国民学校の収容所に移っていた。2階の教室で毛布にくるまり、虫の息だった。このときの様子を、八田は著書「ガンマ線の臨終」(未来社)に記している。
<外傷は首、背、手、足、八、九ヵ所、裂傷だけで火傷は見当たらないが、首のあたりをしたたかに打っているらしい(略)「このままでは死ぬぞ、と這(は)い出た」「火の追いかけて来ないところへたどり着いて、そのまま倒れてしまったんだね」(略)頬は燃えるように熱い。話す言葉が途切れ途切れになってくる>
12日、丸山は存光寺に運び込まれた。丸山を診た医師の言葉を、諸岡さんは覚えている。
「だいぶガスを吸っておられるので、お気をつけてください」
目に見えない放射線の正体が定かでなかった一時期、市民の間でも「悪いガス」がささやかれた。
だが、丸山が弱り切った体で水浴びを続けたのは「悪いガス」のせいではなく、ひとえに放射線の影響による。原爆放射線は名優の全身をほてらせ、体内の細胞を壊しつくそうとしていた。(次回は3月6日に掲載)
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平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う/
3 生死分けた宮島疎開=広岩近広 ≪記事≫
(毎日新聞 2012年2月14日 大阪朝刊)
強い近視の目には、おびただしい数の丸太がぷかぷかと川面に浮いているようだった。光っていた。このとき18歳の諸岡千恵子さんは見えたままの様子を声に出した。すると諸岡さんの所属した移動演劇「珊瑚(さんご)座」を率いた乃木年雄が言った。
「いいな、近眼は。あれはみんな人間だよ」
諸岡さんは目を凝らして見入った。真夏の太陽が裸の死体を照り返していた。1945(昭和20)年8月9日のことで、諸岡さんの知る1週間前の広島はなかった。
振り返るに珊瑚座は8月1日に堀川町の寮を出て、宮島の存光寺に疎開する。米軍の空襲を警戒してのことで、同宿の桜隊も同行する予定だったが、珊瑚座が一足先に引っ越した。
8月2日、珊瑚座は芸備線に乗って巡演に出る。
8月6日、岡山での公演後、楽屋で広島の異変が話題になった。「汽車でここに来る途中、広島の空に雲のような白煙が立ちのぼっていたが、何かあったのだろうか」。空襲警報のたびに公演が中止になっていたので、座員たちは気にとめず島根を目指した。
8日になって、広島に新型爆弾が落とされ、被害が甚大だと聞いた。諸岡さんをはじめ珊瑚座の誰もが、桜隊の安否を気遣った。
9日朝、島根から広島に向かう。諸岡さんは回想する。「広島から来る汽車は、全身を焼かれて真っ赤な肉が露出した負傷者が大勢乗っていました」
途中から汽車は動かなくなり、珊瑚座の座員は歩き始めた。1時間ほど進んだところで、軍用のトラックに乗せてもらった。慰問公演で顔見知りになった少尉がいて、便宜を図ってくれたのだ。こうして諸岡さんらは広島市内に入る。
「何もない、焼け野原だけが広がって、あちこちから黒煙があがっているのです。川に浮かんだ死体もそうですが、それは恐ろしいまでの惨状でした」
珊瑚座は宮島の存光寺に戻った。翌10日から乃木たち5人の男性座員が、桜隊の捜索を始める。「広島原爆戦災誌」(広島市編)に乃木は手記を寄せている。
<堀川町の寮の焼け跡は、あたり一面真っ白な灰で、コナ雪が積もったようになっている。(略)私たちは屋敷跡を歩きまわったが、死臭は勿論(もちろん)、人間が焼けたような形跡もない。白い灰が地上一尺ほど平面に拡(ひろ)がって、瓦のカケラ一つ見つからない><たくさんの負傷者が横たわっている防空壕(ごう)を一つ一つ探して回った。「桜隊の人はいませんか!」大声で呼びながら、壕の奥の方まで行ったが、返事がない。探し疲れて、私たちはその日は帰った>
一方、存光寺には重傷の原爆被災者が次々と担ぎ込まれた。「やけどがひどく鼻や口がわからない人たちが、水を水を……と言っているのです。やかんに水を入れて運んでも、飲むことができず、顔から水がこぼれるばかりでした」
諸岡さんは死にゆく人々を前に胸が痛んだ。桜隊の俳優たちの顔がうかび、気がかりでならなかった。(次回は21日に掲載)
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