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(資料は全て、井上章一著『戦時下日本の建築家―アート・キッチュ・ジャパネスク』より)
〈その1〉は、米山リサの著書から引用紹介したが、図版など補足の意味で、井上章一の著書『戦時下日本の建築家―アート・キッチュ・ジャパネスク』(前著重版・朝日選書)から、モニュメントそのものの類似性について、井上の見解を紹介しておきたい。
なお、〈その1〉の補足として、同書から大東亜建設記念営造計画の配置図・図Bをここに転載しておく。
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広島平和記念公園の設計者丹下健三自身が、施設の中心となるべき記念モニュメント(慰霊碑)について述べている。「ここに安らかに眠る人々の霊を、雨霜から守りたいという気もちからできている。それがハニワのかたちをとることとなつたのである」(井上章一『戦時下日本の建築家』/井上注 : 『新建築』1954年1月号 丹下健三「ヒロシマ計画」より)
「このコメントは重要である。丹下はこのコメントの前年に戦前の『大東亜建設記念営造計画』を回想しつつこう述べていた。当時の応募案は『ハニワ風のコンクリートの版構造』であったと。」(同書/井上注 : 『国際建築』1953年3月号 丹下健三談「国際性・風土性・国民性・現代建築の造形をめぐって」による)
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平和記念公園の慰霊碑がハニワの形から来ているというのは、見て取れる。では、「大東亜建設記念営造計画」の「ハニワ風のコンクリートの版構造」とはどんなものか、同書の資料から見てみよう。図1-上が平和記念公園の原爆慰霊碑、図1-下が本殿立面図。
立面図では分かりにくいのだけれど、丹下自身「ハニワ」を構想していたということで、形状的には確かに似ている。ただし、空想的な計画上では、60メートルにおよぶ巨大な建造物であったところ、ずっと小規模なコンクリートの「ハニワ」造形となっている。「ともかくも、この原爆慰霊碑が『大東亜建設記念営造計画』の理念を引き継いでいることだけは、まちがいない。」(同書)
ところが、「ハニワ風建造物」については、もう一つ補足が必要なようだ。図2-上は、1940年代に発表された「忠霊塔競技設計」の落選案だそうで、図2-下の原爆慰霊碑に酷似している。『国際建築』1940年2号に掲載されたというもので、丹下の『大東亜建設記念営造計画』のデザインよりさかのぼる。本著で井上は「モニュメントの造形は、思想やイデオロギーの違いを超えて流通していくことが、よくわかる」としている。
以上、井上章一『戦時下日本の建築家』によって、原爆慰霊碑が「大東亜建設記念営造計画」の理念を引き継いでいることを、具体的に見ることができる。そのうえで、この丹下のプランは群衆の存在を意識したものと思える。井上は、「『大東亜道路』を通って首都圏から大勢の人々が、富士山麓の『忠霊神域』に群れ集う。そして、巨大な『ハニワ』を背景に、大東亜共栄圏の幻想に酔う祝典を挙行する。そうしたもくろみがあったに違いない」と考える。そして、「『日本ファシズム』下で画餅に帰したもの。それが『戦後民主主義』の時代になって、できあがる。丹下の広島平和記念公園は、そうしたものの一例として位置づけることができるだろう」と述べ、こここそまさに〈その1〉で紹介した米山リサの論考が始まるところであった。
最後に断っておかなければならないが、本書は、1930年代に流行した「帝冠様式」と呼ばれる建築(上野の国立博物館に見られる、平屋根ではなく社寺のような瓦屋根のついたビル建築)の起源の考察から始まっている。後世、建築界では戦時下における軍部の圧力と結論付け、戦争責任の問題と併行して論じられるが、井上によれば、強制的なデザインではなく、旧様式建築からモダニズムへの移行期に当たって生まれた様式と結論づけている。このことにより井上は、建築学会から著しい無視を受けたと記している。
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