桜隊原爆忌の会

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ちょっと長いけど、引用しておきます。

原秀成『日本国憲法制定の系譜』(全5巻・既刊1〜3巻)
第1巻「戦争終結まで」(日本評論社 04年3月刊)「序論」より。

1.1 序論――本叢書のもくろみとこれまでの研究

1.1.1憲法と《立ちあげの決まリ》
(1.1.1.1)「憲法」という言葉――東西での着想の異なり
 日本国憲法は、どのような系譜のもとに制定されたのだろうか。本叢書ではこの問題を、その根源から探っていく。
 そのためには「憲法」という用語の本来の意味を理解しておくことが、不可欠である。それは、1870年代にフランス語の「constitution」の訳語として、用いられ始めた。この日本語ないし漢語の「憲法」という用語は、そのもとの意味において欧米のそれとまったく異なる。この相違から、日本や東洋の学問の混乱が始まる。
 「憲」の字は、目の上へ入れ墨をする刑罰を意味した。このことは、古代中国の青銅器など金石文にまでさかのぼった白川静(1910.4.9一)によって、はじめて解明された。「憲」の字は、それだけ刑罰の色彩の濃い文字だったのである。そしてこの文字のあらわしている行為自体が、現在ならば「残虐な刑罰」として、人権侵害となる。「法」という字は、通常は「法則」「決まり」という意味で用いられている。しかしそれも金石文をたどると、かなり恐ろしい意味を含むことがわかってきた。すなわち古代中国で、訴訟の敗者を「水」に「去」らせて流罪とするときの呪術の器を、字のもとにしたというのである。「法」とは、文字文化をもつ統治者による断罪の行為を源とし、しかも宗教的な意味あいが強い。それは「決まり(law)」という英語の意味とは、大きくへだたる。
 これにたいして、フランス語や英語の「conStitution」という語は、より中立的で能動的である。それは「立ちあげる行為」を語源とする。そしてこの語源に近い「創設」「設立」「制定」という意味から、「政体」「憲法」「(結社などの)規約」を意味するようになっていった。それは、かならずしも国家の「憲法」だけに限らない。総じて《ある組織を立ちあげるための決まり》という、主体的な意味をもつ。それが《近代》欧米の生んだ原理として、世界中に《輸出》されてきたのである。

(1.1.1.2)認識の枠組みの違い――感情的対立の原因
 現代の日本人のほとんどは、このような東西の「憲法」の語の語感の相違を問題にしたがらない。日本では、むしろ「憲法」の語を西洋のそれと同じものだと思いたがる。なぜなら19世紀中葉の不平等条約を撤廃するため、日本は欧米なみの「先進的」な「法」を備えた「文明国」であることを内外に強調する必要があったからである。「法」という文字の微妙な認識のずれが議論の混乱の原因、というよりもさらに、感情的な政治対立の原因にさえなっている。そして憲法改正をめぐって、人間や集団は、まさに生死をかけた闘争になることさえある。*注)
 この混乱のなかにあって、こうした東西の認識の枠組みの違いが、対立の原因であると指摘することこそ、学問の任務であろう。誤解の原因を理解できたなら、自己あるいは相手の立場を再認識し、理解不能と思ってきた「他者」との紛争を最小限にできるかもしれない。「憲」や「法」という文字のもつ語感が、無意識のうちに日本人を呪縛し、それにふれてはならないという意識を形成させてきている。「憲法」を議論の対象とするためには、この語からいったん離れ、英語の《ある組織を立ちあげるための決まり》という意味で「憲法」をみていく必要がある。すると「日本国憲法」とは、《日本のくにを立ちあげるための決まり》などを意味することになる。
 このように「憲法」を《立ちあげの決まり》としてとらえると、その制定の系譜の探求の意味、方法、注意すべき点などが、自然に浮かび上がってくる。そこで、以下この章の第1節では、その探求の意味について論ずる(§1.1.1.3から§1.1.1.5)。そして第2節で《系譜学》の方法論を提示し(§1.1.2.1以下)、用語についての注意を喚起する(§1.1.2.4および§1.1.2.5)。第3節では、従来の研究とその問題点を論じ(§1.1.3)、最後に第1部および叢書全体の構成を示すことにしたい(§1.1.4)。

*注)「憲法」をどうするかという問題は、どのように《くにを立ちあげるか》を意味する。それだけにこの問題は、ある国家のなかだけで解決できるものではない。1国の成立には、多くの場合、革命や戦争を伴い、外国からの「承認」や国家群にはいるための条約締結が必要となる。この国家の「承認」などは国際法において定められ、条約や国際機関の「憲法」「憲章」までを視野にいれなくてはならない。それは、世界の諸民族・諸国家のあいだの紛争の結果でもあり、同時にその原因にもなりうる。

(1.1.1.3)《立ちあげの決まり》の歴史を探求することの意味
 《くにの立ちあげ》は、歴史の所産でしかありえない。誰がどのようにして、どのような理由から、《立ちあげの決まり》をつくったのだろうか。その過程で、人々はどのように意思を表明してきたのだろうか。このことを慎重に探求するのが、ここでの課題である。それは歴史の探求でありながら、けっして過去の歴史的事実の探求だけに、とどまらない。それは「日本国」という《くに》に生まれ、現在そこで暮らす人たちに働く法の力を、白日のもとにさらす。誰がどのように《決まり》をつくり、「適用」しているか。現在の人々は、いったいどれだけ、どのようにして自分の意志を反映することができるのか、できているのか。なぜ自分たちのことを、白分たちで決められないのか。そして現在あるいは将来のために《決まり》を変えることが、どれだけ妥当であるのか。《立ちあげの決まり》の歴史の探求により、これらの問いへの答えが、導き出される。そして現在の法や解釈の「正しさ」を評価する視点を、獲得することができる。それゆえ憲法制定の系譜を探求することは、そのこと自体、新しい憲法――《立ちあげの決まり》――を準備し、立案する行為となるのである。
 それだからこそ、憲法各条の一語一語が担っている意味の探求とその叙述には、細心の注意が必要であり、また大きな責任を伴う。もし憲法各条の一語一語が歴史の所産として理解されたならば、それに従って生きていこうとする人々の行為の意味を、変える働きをする。それは一人一人の人間が、この地球上のこの場において生きることの意味を、認識するための一つの手がかりを与える。一つ一つの行為に合意し納得して生きていくことができるならば、より主体的な行為を生みだすことになるだろう。疑問があれば個別具体の場で、みずから調べ、考え、問題にしていこうと思うはずだからである。

(1.1.1.4)日本国憲法各条の著者一その豊かな水脈
 《立ちあげの決まり》には、一カ条ごとに豊かな水脈がひそんでいる。数日といった単位から、数年さらに数千年の単位の活動が、何段階にもわたって、重層的に影響を与えてきている。数日の単位の立案過程を子細に再現し、それを数十年の単位の系譜のなかでみることが重要なのである。具体的な文言がどこからきているのかを、長期的な系譜のなかでみることにより、その文言が選択され、ほかが選択されなかったことの意味を明確にすることができる。こうした長期的な何段階かにわたる立案過程では、一つ一つの条文の著者の名前は匿名化され、意見や思想、政策が一人歩きしていく。最終的にほんの偶然により修正されたり、脱落した条項があり、それらがこれからの立法諭に結びつく。いったん「憲法」として固定されると、それは「与件」つまり疑いえない所与の前提とされる。それは確固不動たる最高法の位置を与えられ、その「憲法」に基づいて、「法令」つまり法律と政令が制定されていく。けれども《くにの立ちあげ》とは、より能動的で可変的な行為であるはずであろう。これまで制定過程の解明が、再軍備のための改正への論拠を与えることを恐れて、その研究が回避されてきた。しかし解明せずにいたからといって、こうした改正がなされないとは限らない。むしろ日本国憲法の各条が、国際関係と憲法思想のうねりのなかで、確固たる《根》をもっていることを、具体的に示すことが重要なのである。日本国憲法の制定の系譜を探求することは、日本の《くに》だけに関連していることではなく、世界のあり方と直結している。第2次世界大戦で、日独伊の枢軸国3カ国のうちの1国として、大日本帝国は残虐な侵略を繰り広げ、同時に悲惨な戦禍を受けた。無念のうちに死んでいった人々の声が、その一文字一文字に結晶している。その意味をくみとり、それを冷戦後の人類のあり方とつなげていく営為が、今こそ、真剣に求められているのである。

(1.1.1.5)《系譜》探求の力――戦勝国の「正しさ」の根拠
 《決まり》を生んだ系譜の探求は、根源的な価値の再検討を迫る。「人権」は「天賦」のものとされ、疑いをもつことは抑制されてきた。「自由」が主張されたとき、その「自由」の背後には、なにがあったのか。「平和」というのは、誰にとっての「平和」だったのか。「冷戦」という50年近い戦争を経て、いまその《冷戦の戦前》を検証していくことが、世界の根本問題として与えられている。原典にさかのぼり、そこに隠された修辞(rhetoric)をみることで、冷戦の原点を確認することができる。その営為が、冷戦後の人類の方向づけを与えてくれる。それは興味深くも、えられた知見は、現代の政治や社会にとって、重大な意味をもつ。政治や宗教上の価値観に関わるからこそ、冷静かつ慎重な扱いが、必要なのである。
 そのためには《決まり》を生みだした人と、その《決まり》との関係を具体的に分析することが鍵になる。憲法は、けっしてひとりでにできるわけではない。なんらかの著者ないし数人の立案者が、過去の宣言や法や著作を参照しながら、具体的な場で《決まり》をつくっている。そうした宣言や法は、誰がどのような意図で立案したのか。それが「公布」され「宣言」されることで、どのような効果を生んだのか。厳格な言語の集合体としての法を、一つずつ《系譜》づけていくべきなのである。
 「憲法」は、法を制定する権力の「正しさ」を所与の前提とする。「憲法」の制定過程の探求は、その「正しさ」の前提をも問題とする。「憲法」の「正しさ」は、その内側だけからは出てこない。日本国憲法の「正しさ」は、第2次世界大戦という総力戦に勝利した米国や連合国の暴力行使によって、最終的には担保されている。それは、原子爆弾という凶暴な兵器を用いたすえの「正しさ」である。「日本」と呼ばれる領域における「正しさ」は、そのかぎりの「正しさ」であり、しかしそのかぎりでは「正しい」とされうる。どの部分が「正しく」、どの部分の「正しさ」が問題をもつのか。それは制定過程における各条の立法理由をその原点まで探求して、はじめて明らかにされうる。《系譜》の探求は、国境、時代区分、学問分野という3つの《境界》を越えていく。《越境》した外からの視点(external point of view)は、「正しさ」を根底から問いなおす力をもつ。

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(資料は全て、井上章一著『戦時下日本の建築家―アート・キッチュ・ジャパネスク』より)

 〈その1〉は、米山リサの著書から引用紹介したが、図版など補足の意味で、井上章一の著書『戦時下日本の建築家―アート・キッチュ・ジャパネスク』(前著重版・朝日選書)から、モニュメントそのものの類似性について、井上の見解を紹介しておきたい。
 なお、〈その1〉の補足として、同書から大東亜建設記念営造計画の配置図・図Bをここに転載しておく。
    *
 広島平和記念公園の設計者丹下健三自身が、施設の中心となるべき記念モニュメント(慰霊碑)について述べている。「ここに安らかに眠る人々の霊を、雨霜から守りたいという気もちからできている。それがハニワのかたちをとることとなつたのである」(井上章一『戦時下日本の建築家』/井上注 : 『新建築』1954年1月号 丹下健三「ヒロシマ計画」より)
「このコメントは重要である。丹下はこのコメントの前年に戦前の『大東亜建設記念営造計画』を回想しつつこう述べていた。当時の応募案は『ハニワ風のコンクリートの版構造』であったと。」(同書/井上注 : 『国際建築』1953年3月号 丹下健三談「国際性・風土性・国民性・現代建築の造形をめぐって」による)
    *
 平和記念公園の慰霊碑がハニワの形から来ているというのは、見て取れる。では、「大東亜建設記念営造計画」の「ハニワ風のコンクリートの版構造」とはどんなものか、同書の資料から見てみよう。図1-上が平和記念公園の原爆慰霊碑、図1-下が本殿立面図。
 立面図では分かりにくいのだけれど、丹下自身「ハニワ」を構想していたということで、形状的には確かに似ている。ただし、空想的な計画上では、60メートルにおよぶ巨大な建造物であったところ、ずっと小規模なコンクリートの「ハニワ」造形となっている。「ともかくも、この原爆慰霊碑が『大東亜建設記念営造計画』の理念を引き継いでいることだけは、まちがいない。」(同書)

 ところが、「ハニワ風建造物」については、もう一つ補足が必要なようだ。図2-上は、1940年代に発表された「忠霊塔競技設計」の落選案だそうで、図2-下の原爆慰霊碑に酷似している。『国際建築』1940年2号に掲載されたというもので、丹下の『大東亜建設記念営造計画』のデザインよりさかのぼる。本著で井上は「モニュメントの造形は、思想やイデオロギーの違いを超えて流通していくことが、よくわかる」としている。

 以上、井上章一『戦時下日本の建築家』によって、原爆慰霊碑が「大東亜建設記念営造計画」の理念を引き継いでいることを、具体的に見ることができる。そのうえで、この丹下のプランは群衆の存在を意識したものと思える。井上は、「『大東亜道路』を通って首都圏から大勢の人々が、富士山麓の『忠霊神域』に群れ集う。そして、巨大な『ハニワ』を背景に、大東亜共栄圏の幻想に酔う祝典を挙行する。そうしたもくろみがあったに違いない」と考える。そして、「『日本ファシズム』下で画餅に帰したもの。それが『戦後民主主義』の時代になって、できあがる。丹下の広島平和記念公園は、そうしたものの一例として位置づけることができるだろう」と述べ、こここそまさに〈その1〉で紹介した米山リサの論考が始まるところであった。
 最後に断っておかなければならないが、本書は、1930年代に流行した「帝冠様式」と呼ばれる建築(上野の国立博物館に見られる、平屋根ではなく社寺のような瓦屋根のついたビル建築)の起源の考察から始まっている。後世、建築界では戦時下における軍部の圧力と結論付け、戦争責任の問題と併行して論じられるが、井上によれば、強制的なデザインではなく、旧様式建築からモダニズムへの移行期に当たって生まれた様式と結論づけている。このことにより井上は、建築学会から著しい無視を受けたと記している。

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 『広島―記憶のポリティクス』(米山リサ著・小沢弘明、小澤祥子、小田島勝浩訳・岩波書店・05年7月発行)。この本の序章で、かなり衝撃的な事実を昨年読んだ。広島平和公園の設計について。
 「平和記念公園は、広島・中島地区を恒久平和の象徴の地とするとともに、市民の憩いの場所とする計画のもとに、54(昭和29)年4月1日完成、設計は(設計コンペ応募145点からの入選作)丹下健三(代表)、朝田孝、大谷幸夫、木村徳四郎共同作品である」ということは案内書などで説明されている。ところが、この設計案がたいへん大きな問題を含んでいることはあまり知られていない。引用が多くなるが、広島平和記念公園のデザインについて、この本の一部を紹介しておきたい。

 米山は、広島平和記念公園のデザインの忘れ去られた事実について詳細に検証した井上章一(歴史家)著の『アート・キッチュ・ジャパネスク――大東亜のポストモダン』(青土社・87年)をもとに論を重ねていく。前記の設計コンペは、1949年に開催された一般公募の作品の中から決定されたものだ。これをさかのぼること7年、戦時中の1942年に、帝国主義的構想からの「大東亜建設記念営造計画」の一部として開催されたコンペティションがあった。丹下健三は、富士山麓の開けた平野に壮大な神道式記念ゾーンを建築する案をそこに提出し、採用された。
「彼の基本的構想によれば、四つの建物ブロックが二等辺三角形のかたちに配置されることになっていた。三角形の底辺中央に中心となる施設が置かれ、記念空間への入場通路の陰喩となる。中心施設の両側に左右対称に配置された二つの建物群は、人々が集う記念ホールや展示室となる。記念モニュメントが鎮座することになる二等辺三角形の頂点の方向へ、入り口部分からまっすぐに軸線がのびる。その軸線は「遥拝の軸」とされ、ヨーロッパのファシスト政権下で建設された同様の記念公園のように、人々の注意と動きを中央のモニュメントに引きつける役割を与えられていた。」(『広島―記憶のポリティクス』)
 しかし日本は敗れ、プランが実現することはなかった。

 ところが、1949年に丹下の提出した平和記念公園のデザインは、大幅に規模を縮小したものではあるが、これら大東亜共栄圏思想の記念碑として構想した壮麗な空間様式を、1954年に実現することになったものだという。
「日本の帝国的近代が有するハイデッガー的アイロニーを最も典型的に示しているのは、原爆ドームとよばれるモニュメント化した廃虚が平和記念公園に組み込まれていることである。丹下の最初のプランと同じように、礼拝のための中央軸が、入り口から中央の慰霊碑を通って、ドームの残骸へとのびている。(略)戦後のプランでは、戦前に構想された高さ六〇メートルの神道式モニュメントの規模が縮小されて、広島平和都市記念碑という公式名の人間大の大きさにあわせた中央のアーチ型慰霊碑に姿を変えた。井上が指摘するように、建物群の左右対称形の配列も、同じく一九四二年のオリジナルの構想にほぼ忠実なものとなっている。」(同書)
 確かに僕も様式美を感じとっていたからであろうと、1977年に訪広したとき撮った写真を取り出してみた(写真1、2)。そこで、1994年に旧平和祈念館は改築されているが、現在の平和公園の図をもとに作図(図A)してみると、ぴたりと丹下健三の構想が浮き上がってきた。詳細な解説と合わせ、なるほどそういうことかと、井上が提起し、米山が忘れてはならないという問題が身近に感じられてくる。

 かつて「近代、啓蒙、文明、そして大東亜共栄圏が約束した夢を祝福する」ための空間が、「核時代の幕開けの瞬間を想起し、文明の自滅の可能性を思い描くために集う」空間に置き換えられたという衝撃的な事実が忘れ去られていると、井上は指摘しているのだ。この項を米山はこう結んでいる。
「二つの儀式空間の構造的連続性や、より重要なことに両者の類似性が広範囲にわたって見落とされてきたという事態は(略)広島の記憶がこれまで占めてきた慣習的な地位がどのようなものであるかについて私たちの注意をうながしてくれる。広島への原爆投下を日本人の共同体によって経験された被害として想起する、(略)人類史における前例なき出来事として原爆を記録する(略)広島の記憶は、戦前の大日本帝国、その植民地主義的行為、そしてそれらの帰結の深刻な曖昧化の上に成立している。
 広島の中心的な記念空間は、帝国日本を祝福するものから、戦後の平和国家を称賛するものへと、問題提起もされないまま移行した。この事実が示すのは、戦前の社会的、文化的要素が、国家の再生と過去からの再出発を象徴すると思われるこのイコン的な場でさえも持続していることである。私たちはまず、いまだに持続していながら忘却されているこれらの要素がまさに何であるのかを見定めることから始めなければならない」(同書)と。<その2・補足に続く>

*米山リサ/カリフォルニア大学サンディエゴ校文学部準教授、スタンフォード大学人類学部博士。
*井上章一/国際日本文化研究センター教授・歴史家・人文学者。

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8月6日、東京目黒区の羅漢寺での「桜隊原爆殉難者追悼会」は、朝8時の羅漢寺主催の法要から始まりました。被爆時間に合わせたこの法要は、関係者中心に開催されますが、一般参加者にも開かれているもので、今年も30数名の列席がありました。
碑前で法要が行われている間、8時15分の黙祷のあと、遺族および関係者、朗読公演の出演者とスタッフ、そして一般参加者らで碑前供養を行います。毎年、この日は暑い日が多く、被爆時の気候を実感することが出来ます。
これを終えると、出演者と舞台スタッフは会場の羅漢会館に詰めて、最後の仕上げです。今年は、テレビドキュメンタリーのために、この最終稽古が収録されました。

一般向けの碑前祭は10時30分に始まります。9時を過ぎたころからお客さんが見え始めました。今回、山の手線が止まるという事故があり、開催時間に遅れてお客さんが駆けつける方がありましたが、それほど大きな影響はなかったようです。
参加者が碑前のテントに収まりきらず、本堂を埋め尽くしての法要です。読経が終わると、本堂内と本堂の前で焼香が行われ、そのあと碑前供養です。長い行列を作って、スイカを供えられた「さくら隊原爆者殉難碑」に参りました。碑前祭を終えると、羅漢に囲まれる中庭で参加者全員の記念写真を撮ります。そして公演会場になる羅漢会館へと移動しました。

11時30分、桜隊原爆忌の会会長の中村美代子さんの開会の挨拶に始まり、秋葉忠利広島市長からのメッセージの朗読(俳優・鹿島信哉さんによる)のあと、新藤兼人監督シナリオ『ヒロシマ』の朗読構成が始まりました。「息をするのを忘れ、拳を握りしめ、鳥肌が立つという感じで」だったという感想があったほどの、6名の若い俳優さんたちの熱演でした。大型スクリーンによるバックのスライドも大きな効果を得られたと思っています。終演12時30分。

食事をはさんでの懇親会は、250名の参加者のほとんどが残ってくれました。懇親会は1時頃から始まり、桜隊隊員たちのご遺族・血縁者・関係者の紹介と挨拶、そして出演者・スタッフの紹介と挨拶。丸山定夫ご遺族、園井恵子・高山象三血縁者などもいらっしゃっていました。
そのほか、桜隊につながる研究団体や関連団体からの報告、参加された俳優さんたちのお話を伺うことが出来ました。特に、直接桜隊の活動に触れた方々、俳優の佐野浅夫さん、平和活動家の黒川万千代さんのお話は貴重で、桜隊原爆忌の会として記録に残すべき内容でした。後日、要旨を掲載できるかもしれません。会が終了したのは2時30分でした。

ともかくも、250席用意した椅子が埋まりまり、来場者数260名という盛況で、今年の桜隊原爆忌も成功裡に終えることが出来ました。
なお、参加者には、報告集と記念写真が今月末に発送されます。

なお、桜隊原爆忌の会制作のWEBアルバムがアップされました。詳しくご覧になりたい方は下記のアドレスにアクセスして下さい。スライドショーでご覧になれます。
【06年桜隊原爆殉難者追悼会アルバム】
http://webryalbum.biglobe.ne.jp/myalbum/2006438007667b23e33c59b9142ffab118c63f430/26461715409750611

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多々良さんは、桜隊の生き証人だった。
広島に出かける際に「桜隊」と改称したわけだけれど、その寸前、応召されて桜隊には名前を連ねなかった。前身の「苦楽座」で生活を共にした俳優である。(写真は、昭和20年、苦楽座移動隊の公演時。聞き覚えのありそうな何人かの名前だけを写真に添えた。)

自責の念というか、偶然にしろ自分が生き残ってしまったことに悔いがあるのか、桜隊原爆忌にはたびたび顔を出され、僕もいろいろお話を伺った。数年前に体を壊して休み、1年おいて参加されたときには杖をついて無理を押しての出席だった。取材の記者に、当時のことを詳しく知っている人と聞かれると、今、体の具合が悪いけれど多々良さんだろうと名前を出した。その度に家で取材を受けていたようだ。苦楽座(桜隊)最後の生き残りが亡くなったことになる。僕の手元には、5〜6年交わした年賀状と、会場で記録にとった写真が残った。

そんなことは知らない子どもの頃、テレビが普及した頃の多々良さんが好きだった。童顔で、3枚目の役柄が何とも言えない味を持っていた。50歳を過ぎてから会ったときには親しい人のような気がした。

短いお付き合いしかできなかったのがとても残念だ。
ご冥福をお祈りする。

俳優 多々良純さん死去(東京新聞記事)
http://www.tokyo-np.co.jp/00/sya/20061010/eve_____sya_____002.shtml

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