|
平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う
2 鑑札手にし巡演の旅=広岩近広 ≪記事≫
(毎日新聞 2012年2月7日 大阪朝刊)
ひとたび戦争になれば、国家は勝手放題に振る舞う。そのことを見せつけられたのが、先の15年戦争だった。演劇にしても、俳優が舞台に立つには、内閣情報局が発行する「鑑札」と呼ばれた俳優登録証明書を必要とした。いわば国家の意に沿わない俳優を、強制的に排除できたのである。
鑑札について、「桜隊原爆忌の会」の中村美代子会長(88)が追悼会で体験を披露している。「俳優座で演じるため、警視庁の特高二課に行きました。指紋を押印させられたうえで俳優鑑札をもらえたのです」
なんともいかめしい限りの鑑札だが、東京都内に住む諸岡千恵子さん(84)は、13歳のときに申請し、2年かかって手にした。
「歌や踊りが好きな浅草っ子でしたから、子役として金語楼劇団に入ったのです」。この劇団は落語家にして喜劇俳優の柳家金語楼が1940(昭和15)年に結成した。「警察から鑑札をもらえたのは15歳のときでした。身長が低いのをいいことに、子役で出演させてもらえたのです」
諸岡さんの芸名は柳みどりだった。新派の俳優、乃木年雄に引き立てられた。あるとき、乃木が言った。「兵隊に取られて芝居ができなくなったら困る。一緒に移動演劇に行こう」
すでに2人の兄が召集され、諸岡さんと2人暮らしの母親は強く反対した。母親の気持ちは理解できたが、それでも舞台に立ちたい。18歳の一念が実り、諸岡さんは乃木を座長とする移動演劇「珊瑚(さんご)座」の座員となる。9人の一座だった。
「東北の軍需工場やお寺などを巡演する途中で、何度も空襲に遭ったのですよ。四国では、特攻で飛び立つ兵隊さんの前で剣劇を披露しました。おすそわけに頂いたおまんじゅうに、特攻と焼き印されていたのが忘れられません」
日本移動演劇連盟から疎開を命じられた珊瑚座は45年6月に広島入りした。丸山定夫の率いる桜隊もすぐにやって来た。丸山の他に園井恵子、仲みどり、島木つや子、森下彰子、高山象三らがいた。両劇団は広島市の中心街、堀川町の民家を寮にした。
「持ち主が疎開していた家屋ですが、とても大きな木造2階建てでした」。諸岡さんは同宿した桜隊に言及する。「おちびさんと呼ばれて、桜隊の俳優さんにかわいがられてね。買い出しで手に入れた野菜を、園井さんや仲さんから分けてもらったものです。炭火で熱くした鉄のコテでパーマをかけあったりもしました」
丸山定夫は慢性の肋膜(ろくまく)炎を患っていた。諸岡さんは述懐する。「丸山さんは、ほとんど寝ていました。部屋の前を通ると手招きをして、紙に包んだあめ玉をくれるのです。優しい方で、誰からも慕われていました」
7月16日、桜隊は島根と鳥取の公演を終えて、10日ぶりに広島の寮に戻った。入れ替わりに諸岡さんの所属した珊瑚座は8月2日から地方巡演に出る。そして8月6日−−諸岡さんが岡山にいたとき、米軍により広島に原爆が落とされた。(次回は14日に掲載)
|
桜隊原爆忌の会
[ リスト | 詳細 ]
|
本日1月31日から、以下の連載が毎日新聞大阪で始まりました。毎週火曜日、全16回の予定です。ということは、5月まで続くわけですね。全国版でないのは残念ですが、ここに転載予定です。関西の方、新聞読んでいただければ幸いです。私どもも取材に協力させていただきました。
平和をたずねて:原爆非命 桜隊は問う
1 国策に散った演劇団=広岩近広 ≪記事≫
(毎日新聞 2012年1月31日 大阪朝刊)
<移動演劇さくら隊原爆殉難碑>。石碑に刻まれた原爆殉難の文字が、1945(昭和20)年8月6日を今に問うている。占領下の建立だったので、軍隊を連想する漢字の「櫻」を碑銘に使わず、平仮名の「さくら」にしたという。毎年、広島原爆の日を迎えると、石碑の建つ東京都目黒区の五百羅漢寺で「桜隊原爆忌」が営まれる。
移動演劇「桜隊」は新劇の団十郎と評判をとった人気俳優、丸山定夫が率いた一座だった。当時の演劇事情と桜隊の被爆については「桜隊原爆忌の会」(東京都)によるパンフレットに詳しい。
<戦争のさなか、戦況の悪化とともに、劇団は壊滅状態にありました。国の方針に沿わない劇団は、強制的に解散させられ、100名以上が検挙されました。芝居を続けるには、移動演劇連盟に加盟するしかありませんでした。1944年に入ると、連盟に加盟している劇団は、地方への疎開を強いられます。全国の工場、学校、軍へと慰問の公演を続けたのです。そして1945年8月6日、桜隊は広島で被爆し、そこに居合わせた劇団員9名全員を失ったのです>
築地小劇場の分裂後に丸山が所属した新築地劇団と新協劇団が、弾圧の末に解散させられたのは40(昭和15)年8月だった。この年は「芸名統制令」「国民服令」が出され、10月には国民を組織的に統制する大政翼賛会が結成された。
日本移動演劇連盟は演劇を大政翼賛会に組み込むために、内閣情報局が41年6月に設立した。演劇の国家統制にほかならず、各地を巡演する移動演劇は国策宣伝隊の役目を負わされたのである。
ここに新劇人の苦悩があった。しかし丸山がそうであったように、舞台に立つことを何よりも優先させた。丸山は俳優の他に己の存在はないとさえ思っていた。
41年12月、丸山は新劇の同人らと苦楽座を結成して、第1回公演を行う。旗揚げ公演のパンフレットにこうある。
<世の中には悲惨事が多い。けれどもどんな悲劇の中にも血路があります。私達の明るい性質、健康な物の考え方から、何かを汲(く)み取って下さい>
苦楽座には宝塚歌劇団から園井恵子が加わり、ヒロイン女優が生まれた。丸山と園井が共演した「無法松の一生」の舞台は大ヒットする。ところが東京大空襲で主な劇場が焼け落ちると、移動演劇連盟は劇団の地方疎開を決めた。苦楽座は「桜隊」と改称して45年6月、広島に移った。
被爆65年の夏、五百羅漢寺の追悼会で「桜隊原爆忌の会」の会長で俳優の中村美代子さん(88)は嘆き、そして怒った。
「丸山定夫が生きていたら戦後の新劇は変わっていた。新しい、素晴らしい演技をファンに見せたかったのに、アメリカが原爆で丸山定夫を殺してしまった。本当に残念です」
丸山定夫は享年44、園井恵子は32だった。原爆は桜隊という新劇の偉才集団を殺したのである。
(次回は2月7日に掲載)
|
|
たいへんよい講演なので、ご紹介しておきます。
|
|
被爆66年 桜隊原爆忌 ―原爆殉難者追悼会
2011年 8月 6日(土) 午前10:30〜 碑前祭 12:00〜 追悼会 なお、午前 8:00から五百羅漢寺主催「平和祈念桜隊殉難法要」が行われます。
ご都合のつく方はぜひご参加ください。 □ 追悼会の主な内容 □
◎講演 「桜隊に思う ―原爆と演劇・そして今」 ふじた あさや(劇作家・演出家) ◎ミニコンサート:歌とギター 「べんさん平和を歌う ―いのちをみつめて」 たかはし べん(シンガーソングライター) (劇作家・演出家)
1934年東京生まれ。早稲田大学第一文学部演劇科在学中、福田善之氏と合作で『富士山麓』を発表、劇作家としてスタート。前進座、文化座、青年劇場などに戯曲を提供。一方で児童青少年演劇、音楽劇などの脚本・演出も手がける。1975年、劇団えるむの創立に創造責任者として参加。1981年、青年劇場が千田是也演出で戯曲「臨界幻想」を上演。ラジオ・テレビドラマ作家としても活躍。『しのだづま考』(92年芸術祭賞) たかはしべんさん
(シンガーソングライター)
北海道生まれ。炭鉱の町で育ち、十代後半にアメリカのフォークソングと出合い、平等・平和・人権を歌う歌に感動。1979年、子どもの自殺の悲しみを歌った「空をとぶ子供」でプロ歌手としてスタート。世界を回って歌い続けている。東日本大震災でも、現地入りしたり、チャリティーコンサートなど開催している。「息子に」「はえをのみこんだおばあさん」「がんばれアフリカ」「せかいじゅうの海が」など多数。 参加費:3,000円(献花料・記念写真・昼食代含) 高校生以下1,000円 会 場:目黒五百羅漢寺(電話 03‐3792‐6751)
桜隊ホームページはこちら お申し込みは桜隊HPポストからどうぞ。
|
今年も一度、舞台『父と暮せば』を観た。映画化されたものは観ていないのだけれど、四年ほど前に観た小舞台に続いて二度目だった。ここに貫かれている「生き残った者は幸せになってはいけない」という思いは、私の絡んでいる桜隊原爆忌にお出で願った被爆の語り部たちから聞いた声となり、胸に焼き付いて消えない。それは亡くなっていった人々への申し訳なさ、後ろめたさであり、その時の自分自身から失われていた人間性に対する悲痛なまでの罪の意識として現れていた。
今年の七月、ロバート・J・リフトンというアメリカの精神科医の著『精神史的考察 ヒロシマを生き抜く』上・下(岩波現代文庫)を新聞広告で見つけ、ぜひ読んでみたいと思った。初版本は一九七一年に朝日新聞社から発行された『死の内の生命?ヒロシマの生存者』(原書は一九六八年イギリスで発行)で、著者は一九五八年に来日し、被爆後十七年の一九六二年からヒロシマに移り住んで聞き取りを始めた、被爆者の心理学的研究論文である。 僕は、この本の序文を読んだところで、『父と暮らせば』や語り部たち被爆者と、それに対して加爆者と言っていいのか米側との心のずれに戸惑ってしまった。つまり殺す側と殺される側の大きな違いにである。原書のタイトルは『DETH IN LIFE Survivors of Hiroshima』、その中の「Survivor」という言葉に、著者が言及しているのだ。心理と翻訳を巡って、この著書(以降、『ヒロシマを生き抜く』と表記)と、もう一冊の本から、多くを引用として考察したいと思う。 【『ヒロシマを生き抜く』から】 アメリカ人が被爆者または被害者という言葉を英訳する場合には、生存者という言葉を用いるのがふつうである。なるほど、生存者という言葉は従来の用法にかなったものであり、比較的さしさわりのない表現ではあるが、アメリカ人の心のなかには無意識のうちに、原爆体験を中性化しようとする傾向があることを示すものと解釈できるのである。 【英和辞典から】 [動詞]survive ―(他)…の後まで生存する、…を免れる、…から助かる (自)生き残る、生き延びる [名詞]survivor ―生き残った人、生存者…… 【和英辞典から】 [動詞]被爆する ― be bombed, be A-bombed [名詞]被爆者 ― an atomic bomb victim ― a victim of radiation sicness caused by an atmic bomb 【英英辞典から】 survive ― v.t & v.i ―― Outlive, be still in existence after the passing of, come safe through be still alive or existent. survivor ― (sur-), n.[sur-2, vi・va・cious] (※和英注)sur-1 ―― pref. =sub-. sur-2 ―― pref. 「上」の意. vi・va・cious ―― a. 活発な, 陽気な. 右記のように、当然ながら英語には「atmic bomb」の意を含む言葉は存在しないのだ。正確なニュアンスまで翻訳するとなれば、和英辞典の最後の例のように訳さなければならない。 【インターネットで拾った記事から】 ハーバード大学ケネディスクール在学生の「ジャパン・コリア・トリップ '06」という、全世界からの超エリート大学院生64名が日本にやって来たときの会話だという。 学生達は被爆者を英語で「VICTIM」(犠牲者)でなく、「SURVIVOR」(復活生存者・生き残り)と呼ぶ。 日本人「こんな思いを他の誰にもさせてはならない」 外国人「なぜサヴァイバーたちが平和を祈るんだろうか?」 【『ヒロシマを生き抜く』から】 日本ではもっぱらこの言葉(注:被爆者)が原子爆弾を経験した人を固定するために用いられているが、(略)この言葉は、日本語においても新造語であって、文字通りには「爆弾の影響を被った人」の意味であるが、単に原子爆弾を経験した人の意味で用いる場合もあるし、もう少し積極的に、原子爆弾により直接身体的被害を受けた人の意味で用いる場合もある。 (略) 被爆者という正式の呼び名のほかに、もう少しくだけた表現として、被害者という言葉も用いられているようであるが、このほうは犠牲者、負傷者という意味に近く、なんらかの形で苦しみを受けたことを強調する言葉である。日本語では「生存者」という言葉は、研究者によっても、その他の人たちによっても、あまり用いられないようである。そのわけは、生存者という言葉は、生き残ったという点を強調し、その当然の帰結として、不幸にして生き残れなかった人たちに対して申し訳ない表現になるからだと聞いている。もしそうであるならば、これは単に言葉の問題に止まらず、(略)原爆体験の根底に、自分だけが優先的に生き残ったことに対する罪意識が広く存在することを表すものと考えられるであろう。同時にまたこれは、被爆者の心のなかに強く残っている犠牲者意識を示すものでもある。 被爆者はただ生き残ったのではなく、生き残っても間もなく死んだり、現在生存しているにもかかわらず犠牲者であることには変わりがないのだ。そして、生きているが故の苦しみ……。 そこで、もう一冊の本、『夕凪の街 桜の国』を見てみよう。この本は数年前から読んでみようと思っていたマンガだ。昨年双葉文庫として再版され(初版コミック版 双葉社 二〇〇四)、ようやく先日読んだ。。著者は、一九六八年広島市生まれのこうの史代。 映画化もされ、ラジオドラマにもなったが、コミックを読んでいる読者は少ないと思うので、被爆から十年後に死んでゆく主人公皆実(死亡時は二十三歳の設定)の、以下の三か所のモノローグ部分をつないで、詩の形として引用したい。 わかっているのは「死ねばいい」と 誰かに思われたこと 思われたのに生き延びているということ × しあわせだと思うたび 美しいと思うたび 愛しかった都市のすべてを 人のすべてを思い出し すべて失った日に引きずり戻される おまえの住む世界は ここではないと 誰かの声がする × 嬉しい? 十年経ったけど 原爆を落とした人はわたしを見て 「やった! またひとり殺せた」 と ちゃんと思ってくれてる? ラストは空白のマス目にモノローグだけが流れてゆく。強烈だった。この言葉を生み出した作者の気持ちを聞いてみよう。 【『夕凪の街 桜の国』あとがきから】 わたしは広島市に生まれ育ちはしたけれど、被爆者でも被爆二世でもありません。被爆体験を語ってくれる親戚もありません。原爆はわたしにとって、遠い過去の悲劇で、同時に「よその国家の事情」でもありました。怖いという事だけ知っていればいい昔話で、何より踏み込んではいけない領域であるとずっと思ってきた。しかし、東京に来て暮らすうち、広島と長崎以外の人は原爆の惨状について本当に知らないのだという事にも、だんだん気付いていました。わたしと違ってかれらは、知ろうとしないのではなく、知りたくてもその機会に恵まれないだけなのでした。だから、世界で唯一(数少ない、と直すべきですね「劣化ウラン弾」を含めて)の被爆国と言われて平和を享受する後ろめたさは、わたしが広島人として感じていた不自然さより、もっと強いのではないかと思いました。(「あとがき」から抜粋) 「被爆者」という言葉は、フランス語で「hibakusya」、英語で「hibakusya」。日本でも、広島を「ヒロシマ」、最近では、被爆者を「ヒバクシャ」と表すことが多くなった。そのことについての抵抗は多いと聞いている。しかし、前記リフトンの記述のように、この言葉はそれまでの日本語にはなく、一九四五年以降にできた新造語なのである。もちろん英語にもフランス語にもない。原爆を落とされた国にしか存在しない言葉だ。カタカナで表すのは、現実を薄めるものでも、かっこよさでも、事実を中性化することでもない。例えば既成の英語「Victim」や「Survivor」で表せない、「生き残った者は幸せになってはいけない」という思い、「自分だけが優先的に生き残ったことに対する罪意識」、そして何にも増して、苦しむ人たちの上を、何一つ手助けをしようともせずに通り過ぎてきた自分の中に潜む非人間性を憎んでの後悔、懺悔。「被爆者」という言葉を用いるには、これらすべてを理解しなければならないのだろう。今でこそ、精神崩壊をうむことが一般的に認識されているPTSD(心的外傷後ストレス障害)も、その最たるものが戦争であろう。核廃絶に向かおうとする中で、世界語になることこそ、その役を果たすのだと思う。 (詩誌『1/2』30号掲載2009・近野十志夫) |





