マタイの福音書5:1〜12
「神を見る」(1)
2006.8.20.金沢教会創立記念礼拝(聖餐式)
説教 萩原雄介
「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。」マタイの福音書5:8
【金沢教会創立について】
◆ 1948年(昭和23年)、矢木 薫師・すゑみ師が金沢に任命を受 け、旧・松任市の自宅に「北陸宣教会事務所」を開設。翌年4月から、 金沢 市内にて、家庭集会を開始した。翌年12月までにまでに、合 計12名 の入信、受洗 者が与えられた。
◆ 1950年(昭和25年)に寺町5丁目に会堂を建設。同年8月20 日(日)に週報第1号が発行され、献堂式が執り行われた。この日を以 て、創立記念の日と定められた。
◆ 祝福を受けるに伴い、何度かの教会堂の増改築が行われた。198 9年には、金沢泉教会の分蘖(ぶんけつ)・設立があった。
◆ これまで、幾名かの副牧師を迎え、初代牧師の矢木師を支え、補佐 してきたが、1991年(平成3年)、萩原雄介・恵子牧師夫妻が任命 され着任。
◆ 教会堂の老朽化と共に、何度かの修復工事がなされてきたが、駐車 場(借地)の問題とともに、会堂建物も限界に近づき、早急に新築の 必要を感じ、建設の場所を含め祈りが積まれ、検討され始めた。
◆ いよいよ具体化が迫ってきた折、弥生1丁目の現在地が売りに出て いることを知り、会堂委員を中心に検討を重ね、教会総会の承認を経 て、2003年(平成15年)8月に、新会堂が完成、引き渡された。
◆ 同年10月13日(月)献堂式が執り行われた(出席者140名)。
◆ その後、宣教の働きが推し進められ、現在に至っています。
金沢教会の歴史の中に、主の足跡を見せられ、主の御名を崇めます。続いて、救霊の働きが力強く推し進められるよう、教会経済が祝福されるよう、会堂融資金の完済のために、引き続き、お祈りを頂ければ感謝です。
さて、現代の私たちの国では、「頭の良い人は幸いです。」と言うかも知れません。しかし、主イエスさまは、「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」と語られました。幸福の条件が、頭の良さでなくて良かったと思います。しかし、ほっとするのも束の間です。再び、私たちは、絶望的になります。なぜならば「内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであ」るからです(マルコの福音書7:21〜22)。
今朝の礼拝で取り上げる第六番目の幸いな人とは、「心のきよい者」です。これは、最初の「心の貧しい者」と同様に、「心の」という言葉が付加されています。キリスト教は、心の宗教です。世俗的で功利主義的な宗教ではありません。世の中には、沢山の財を献げれば(病気が治って)幸福になるとか、難行苦行すれば幸福になれるとか、何か良い行いをすれば幸福になるとかいう宗教が少なくありません。それらは行動を条件とするのです。しかし、キリスト教は、行動以前に、心の状態を問題にします。キリスト教は、最も高い倫理基準を、心の純潔に置く宗教です。性的な肉体の純血は勿論ですが、それに先立って、心の純潔は、更に大切なもので尊いものです。
真っ白のハンカチでも、顕微鏡を通して覗いてみると、沢山の黴菌(ばいきん)が付着していることが分かります。男の人でも女の人でも、外観は清潔そうに見えるでも、心の中には多くの汚点が見られるということがあると思います。情欲であるとか、怒りであるとか、嫉妬や傲慢や憎しみや嘘・偽りなどなど、一つもないと言い切れる人が、何人いるでしょうか。
自分は、それほど悪くはないと思うでしょうか。幼子を次々と誘拐し殺すような人もいますが、自分は、そんなことはしないから、それほど悪くはないと思うでしょうか。確かに、多くの人たちは、警察の厄介にならないで、一生を終えると思います。しかし、主イエスさまは、言われます。
「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」と。 マタイの福音書5:22
実際に、新聞の社会面を埋める事件のどれを取り上げても、心の内側にある怒りや憎しみや嘘・偽りなどから始まるのではないでしょうか。それに加えて、私たち人間が、「善人を装う」のが上手であることは、自分自身が良く知っています。おまけに、自分を欺くことまで、平気でやってのけるのが、この自分の汚れた心ではないでしょうか。
エレミヤは言っています。
「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」(エレミヤ書17:9)と。
ある集会で説教者が、「あなた方のうちで、嘘をついたことのない人は立ち上がって下さい。」と言うと、何人かの人が立ち上がりました。すると説教者は、立った人たち全員を示して、「今立った人たちは、嘘つきです。嘘をついたことがないという嘘をつく人です。」と言ったというのです。故意に意識して嘘を言わなくても、意味もなく嘘を言ったり、冗談半分で言ってしまったとしても嘘は嘘なのです。まして、意識的に故意に嘘をつくならば、それは罪になるわけです。
小学校の時だったか中学の時でしたか、工作の時間に、何かつくったものの上に絵の具かペイントか何かで綺麗に塗り上げれば仕上がりというような場合、一度全体を塗ってみて乾いてみると、随分と斑(むら)になっていることが解ります。それで、色が薄そうなところを、さらに上塗りして一様に染め上げようと思って、もう一度、塗り始めると、今度は別の個所に斑が出てきてしまい、何回も何回も上塗りする、そして、いつの間にか絵の具が厚くこびり着いてしまうということを経験したことがあります。塗装屋さんの苦労が良く解ります。
「嘘の上塗り」ということばがあります。一つ嘘をつくとそれを隠すために次から次へと嘘を重ねていかなければならなくなって、どんどん嘘が大きくなっていくということを、経験された方もおられると思います。
【例話】何十年も前のこと、親元を離れて、遠いところに下宿していたある貧しい学生さんがいました。まわりの学生たちがカメラを手にして、パチパチ撮っているのを見て、カメラを自分も欲しくなりました。それで、両親に嘘の手紙を書いたのです。「病気になりましたので、大至急、お金を送って下さい。」と。
この学生さん、最初は、得意になって写真をパチパチ撮っていたのですが、どうも、心から楽しむ気持ちになれなくなってきました。両親や兄弟に申し訳ないという気持ちで、心の負い目が次第に強くなってきて、苦しくなってきました。そして、一体、自分という人間は、どういう人間なのだろうかと考え込み、その苦しさにたまりかねて、教会に行くようになったというのです。
怒ったことがない人も少ないと思います。傲慢でない人も少ないと思います。しかし、自分は謙遜であると思っている人がいたとしたら、「自分は、これほど謙遜なのだ」と自負する心は、傲慢に通じるのだと言って良いと思います。
ヤコブは、次のように言っています。「愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。」(ヤコブの手紙1:19)。
なぜ、ここで突然、「怒り」という問題が出てきたのでしょうか。本当のところは、良く分かりませんが、あるいはヤコブが当時のクリスチャンたちのことを思いながら、この手紙を書いているときに、「怒り」という問題が、その人間関係の中にある大きな課題であることを知って、このようなことに筆が及んだのかもしれません。
外側からは迫害が迫り、内側からは罪に負けて、ついには信仰から脱落していく人も出てくるというような、いろいろな現実の中で、ストレスがたまり、焦りが出てきたり、中にはヒステリックになる人たちも出てきたかもしれません。お互いの中で、怒りが起こりやすかったのではないかと思われます。
そのような迫害の緊迫し状況の中で、「みことばに聞く」ということが、どうしても後回しになってきて、苛立ちで波立つ心が、神さまに扱われるチャンスがなくなり、心に神さまの平安を頂くことが出来ないために、感情をコントロール出来なくなっていたのかもしれません。このようなことは、何も迫害の時代だけのことではありません。今でも、身近なところで起こりうることです。ひょっとすると私たちは、自分自身について、恵みによって感情をコントロールするということに失敗してしまうかもしれないのです。言葉に刺(とげ)となって現れ、顔の表情に出てきてしまうということがあるかもしれません。
情欲が全くない人はいないと思います。なぜならば、食欲や社交欲などともに、情欲は、神さまが下さったものです。ですから、自然の情として情欲を否定出来ないでしょうが、それが、しばしば不純なものになりやすいのです。情欲ほど軌道を外れやすいものはありません。
(2)へ続く
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協会も分蘖するんですね!
知りませんでしたし、面白い気がします。
2008/7/11(金) 午前 9:44
イソップ通信さん→コメント、トラックバック、ありがとうございます。教会で言う「分蘖」は、いわゆる「株分け」です。稲と同じ事だと思いますが、教会がある程度、規模が大きくなってきた時に、教会員の生活圏も広くなりますので、少し離れた人たちも、教会の礼拝に通いやすくするために、新会堂を建設するなりして、一部の人たちに、そちらの教会に行って頂くという方法をとります。祝福の結果ですよね。
2008/7/11(金) 午後 1:40