インマヌエル金沢キリスト教会 萩原雄介牧師のブログ

人生の課題を共有し、聖書のことばから神の恵みを分かち合い、より豊かな人生を過ごすために、聖書から豊かな語りかけを頂きましょう。

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最後に残る大切なもの

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黙示録22:16〜21
「最後に残る大切なもの」
2007.11.11.聖書と讃美集会
説教 萩原雄介

「・・・渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」ヨハネの黙示録22:17

「・・・渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」ヨハネの黙示録22:17

 聖書の中で一番最初の言葉は、覚えている方々も多いでしょう。しかし、聖書の一番最後の鍵の言葉を言ってみてご覧と言われますと、戸惑ってしまいます。聖書は、内容的には、「・・・(主イエスさま、)来て下さい。・・・」(17節、20節)というお言葉で締め括られております。

 天地創造に始まった神さまのみわざは、主イエスさまが再びこの地上に来て下さることによって、完成するのです。私たち個人個人も、教会も、国々や世界の歴史も、自然界すらも、地上のすべてのものの完成の希望が、この主イエスさまの再臨にかかっていると言えるのではないでしょうか。

 ですからこの「主よ。来て下さい。」というお祈りは、すべてのクリスチャンの大切なお祈りなのです。実際に、このお祈り、この希望を抜きにして、地上の世界だけで物事を理解しようとしたり、解決しようとしても、無理なのではないかと思います。たとい救われて大きな恵みを頂いても、地上の世界の事柄だけでは、あまりにも理解できないことや、矛盾だらけに見えることや、耐え難いことが、数々あります。涙が乾ききらないうちに次々と何かが起こることがあります。

 このキリスト再臨の希望がなかったならば、地上だけの尺度で物事を考えたり、行動しようとすると、日常生活に、特にクリスチャンにとりましては、信仰生活に、歪みが生じて、脱線しかねないと思います。物差しが狂えば、全部狂ってしまうのです。物差しが正しいとき、初めて正しく物事を見つめ、正しく行動することが出来るのではないでしょうか。プラスチック製の定規ですと、たった1ミリという長さでも、誤差が随分あるように思います。1ミリと次の1ミリとを区切っているメモリの黒い線も、1ミリという全体の長さからしますと、随分と太いように思います。ですから、そのような誤差でも差し支えないものを計る場合にだけしか使えないわけです。永遠という角度から、自分の人生を見るためには、永遠の神さまの基準となる物差しが必要であるわけです。

 「最後に残る大切なもの」という題を付けました。私たちがどのような人生観をもって、どのような価値観に生きているかというとき、「最後に残る大切なもの」とは、《神さまの尺度》であると言って良いかもしれません。神さまは私たちの「何」をご覧になられ、「何」を決め手として、私たちを神の都に入れて下さるのか、天の都、天国に入れてくださるのだろうか、ということではないでしょうか。

 大切なことは、私たちが地上で行なった様々な行ない、積み上げた業績がどんなに立派でも、「最後に残る大切なもの」それは「何」かではないでしょうか。それがなくて、他の何かがどんなに立派でも、救いの生涯には入れませんし、人生の喜びも祝福もありません。

 ですから、私たちが人のためや世の中のために何かをしたという事実や実績や経験にしがみついているのではなく、救いの恵みに与って、その名前を天に書き記していただいたという恵みの事実に、喜びの土台を置きたいと思います。

 なぜならば、神さまの御前に「決め手」となるのは、この罪からの救いの恵みの事実だからです。「小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることが出来る。」(黙示録21:27)と書かれているからです。この御言が意味することは、輝く神の都を描き出されている後に、このみことばが書かれていることから、この都に入る資格は、小羊であるキリストの十字架の血によって罪が赦され、その名をいのちの書に書いていただいているという、その恵みの事実ではないでしょうか。

 私たちの神さまは、この事実だけに基づいて、この都、天国に入ることが出来るかどうかを決定されるわけです。神の御前にあって、「最後に残る大切なもの」は、この事実ではないでしょうか。言い換えますと、私たちは、地上での良きわざや実績を何ら持ち出す必要はないのです。また、持ち出すことは出来ないのです。

 ただ裸のままで、信仰だけによって神さまの御前に出ればよいのです。赦された罪人に徹すればよいのです。このようになりますと、自分は、世の中であまり良い成果や業績を残さなかったから駄目ではないかと思っている人たちにとっては朗報だと思います。神さまの前に、ただありのまま出させていただけばいいのですから。

 勿論、クリスチャンになってから、なしている奉仕や、献身的な善い行ないは、何も意味がないと言うのではありません。それなりの豊かな報いがあることは間違いがありません。しかし、どんなに善い行ないを積み上げても、罪の生活から救われて神さまの子どもになっていませんならば、神の御前にあって、地上的な物事で「最後に残る大切なもの」は、何一つないということを意味しています。

「・・・渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」ヨハネの黙示録22:17

「・・・渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」ヨハネの黙示録22:17

 あるキリスト者(内村鑑三)が「目的の進歩」と題する文章を残しています。

「自分は、初めに地理学者になろうとした・・・
 自分はその次に、水産学者になろうとした・・・
 自分はその次に、慈善家になろうとした・・・
 自分はその次に、教育家になろうとした・・・
 自分はその次に、社会改革者になろうとした・・・
 自分はその次に、聖書学者になろうとした・・・
 自分は、今は何者にもなろうとは思わない。
  ただ、神が遣わされた、そのひとり子を信じたいと願っている。
 自分は神に導かれて、ついに自分がしなければならないことに到達した。それはイエス・キリストを信じること、このことこそ、人生においての最大の事業である。」と。

 私たちも、人生における最大のなすべき事は、赤子のようになりきって、罪の赦しを求めて、恵みによりすがることではないでしょうか。十字架による罪の赦しの恵みこそ、現代の私たちにとっても、なくてはならない中心的なことではないかと思います。

 「渇くものは来なさい。いのちの水が、欲しい者は、それをただで受けなさい。」(17節)とイエスさまは言っておられます。この「来なさい。」とは、イエスさまからの私たちへの招きの言葉です。私たちが、このいのちの水の恵みに与っていればこそ、イエスさまに申し上げることが出来る言葉があります。それこそは、「イエスさま、私の所に、そして、この地上に早く来て下さい。」(17節)という祈りではないでしょうか。

 御霊も、また、すでにキリストの花嫁となっている人たちも、御国におられるイエスさまに対して「来て下さい。」と懇願しています。そして、それを聞いた者たちも、同じように「来て下さい。」と周囲の人々に言って欲しいと述べられています。キリストの再臨の希望をもって待つ人たちの祈りです。

 それこそ、「最後に残る大切なもの」を持っているかどうかではないかと思います。そうであればこそ、何一つ不安になることもなく、恐れ脅えることもなく、大胆にも、「イエスさま、再び地上に来て下さい。私の所に来て下さい。」と申し上げることが出来るのではないでしょうか。

 人生には、登山に例えますと、遭難したり、遭難しそうになったりすることが、屡々ありますでしょう。命に関わるような、重大な出来事です。

 【例話】
 ある人が、まだ16歳という少年の時、山で遭難しかかったことがあったそうです。正しいと思っていた道が途中で急に細くなり、「しまったー」と思って、引き返そうと思ったときには、既に日が暮れていたというのです。あてどもなく薮の中を歩き回り、体がすっかり疲れ切って、もう歩けなくなってしまったとき、微かに水の流れる音が聞こえたというのです。 
その音を頼りに、山間(やまあい)に流れる小さな川を見つけ、その川を頼りに、山を下りることが出来たというのです。■

 私たちは、何を頼りにして、どなたを頼りにして生きていますでしょうか。人生の中で、試練という山の中で、行く道を見失ってしまったとき、どのようにしますでしょうか。人生には考えられないほどの苦しみが、突然に訪れることがあります。そんなとき、どこに救いを見いだそうとするでしょうか。

 自分で道を切り開き道を作りながら、山から下りるでしょうか。それとも、既に出来ている何らかの道筋を頼りに、救いを求めるでしょうか。17節の後半のみことばが、その応えです。「渇くものは、来なさい。いのちの水が欲しい者は、それをただで受けなさい。」(17節)

 私たちの救い主イエス・キリストは、ご自身が十字架にかかって、私たちの身代わりとなって死んで下さったことにより、愛の道、救いの道を備えて、イエスさまご自身の血の色で舗装して下さったのです。金沢市内のバスレーンのように、赤く舗装されているのではないでしょうか。

 イエスさまは言われました。ヨハネの福音書14:6で、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれ一人、父の御許に来ることはありません。・・・」と言っておられます。正にこの御言の通りではないでしょうか。イエスさま御自身が、私たちの救いの道そのものになって下さったのです。

 求めましょう。イエスさまの道を。
 捜しましょう。救いの方法を。
 その前に、心静まって、じっと聞き耳を立てましょう。
 救いに至る招きの声を。

 小川の水の流れる音が聞こえませんでしょうか。「渇くものは、来なさい。いのちの水が欲しい者は、それをただで受けなさい。」(17節)という、小川の囁くような音、声が聴こえませんでしょうか。

お祈りを致しましょう。

いのちの水のサイトは、
http://www.city.himi.toyama.jp/~40200/suidou-home/gakusyu/inoti.htm

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アーメン。
yahooの不思議な導きで、ここを訪れました。

今週の礼拝メッセージは、マルコ福音書から、
イエスが、悪霊を追い出す出来事でした。
よろしくお願い致します。

2014/1/28(火) 午前 7:22 [ ohb*_k*ouka* ]

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失礼します。御一読をお願いします。
卑劣な仕返しをする教会があります。悔い改めて下さい。

.
題:キリスト教の心底に流れているものは・と、神の失敗・・、
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
五木寛之氏が、本「神の発見(キリスト教司祭との対談)」の5頁で・・、
「(市場原理の自由競争に)その経済のシステムを土台で支えるのは、『見えざる神の御手』に対する深い信頼が(西洋・欧米文明に)ある」と言う。

そして、氏は、その結果を記してないが・・、
その結果は、市場は、『散々(さんざん)』だった。
『神がコントロールする』とされたが、コントロールされるどころか、ある時から『暴走し始めた』。
キリスト教の神は『 (つづく)
..
(詳しくは、以下のブログへ)
http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /

2014/6/27(金) 午前 0:56 [ けいせん ]


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