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イサクの生涯(2) 「神の時を待つ」 (創世記十六章全体)
待てなかった十四年間
イサクが誕生するまで、もうしばらく、アブラムとサライの精神的、霊的葛藤、産みの苦しみが続きます。「ただ、あなた自身から生まれ出て来る者(身から出る者)が、あなたの跡を継がなければならない。」(創世記十五の四)と主のお言葉をいただき、そのお約束の成就の根拠となる徴まで頂きました(十五の十七)。その後、間もなくイシュマエルが生まれた時、アブラムは、八十六才でした(参照 十六の十六)。イサクが生まれたのは、アブラムが、百才の時でした(参照 十七の十七)。その間、正味十四年間、アブラムは神さまのお約束を待てなかったのです。
なぜ待てなかったのか
二つの理由が、考えられます。
一つは、妻のサライが、自分の妻として母としての立場を確立しようと焦ったためです(「多分、彼女によって、私は子供の母となれるでしょう。」二節)。
もう一つの理由は、神さまが自分の胎を開かれるのは無理だと、サライ自身が決めつけてしまい(「主は私が子供を産めないようにしています。」二節)、自分たちに跡を継ぐ子供が与えられるという神の御心を少しでも早く成就するため、人為的な方法の努力をすることにより、神さまのなさる事の手助けが出来ると思い込んだためかもしれません。
そのために、アブラムの妻サライは、自分の女奴隷のハガルを、夫アブラムの妻として与えたのです。アブラムも、それに同意し、ハガルを迎えたのです。こうして、男の子のイシュマエルが生まれました。
神には、時と方法がある
ここで彼ら二人は、大切なことを見逃していました。「神の時」ということと「神の方法」ということです。「神の約束」は彼らにとって、はっきりしていました。しかし、神さまが定められましたのは、アブラムが「百才になった時」彼の「妻サライを通して」後継者である約束の子を与えるということでした。それなのに、彼らは自分勝手に、十四年の時間を縮めて、しかも、当時の慣習的方法とは言え、神さまの御心とは全く正反対の、神さまの心を痛めてしまう方法、手段に頼ってしまったのでした。
神に全く任せ切れるか
アブラムは、神の約束の言葉を信じ、神さまがひとりごを与えてくださることを信じました。しかし彼は、信仰とは、自分の肉的(自己中心的)活動をやめて、神のなさることを待つことであると言う事を知りませんでした。むしろ、彼は、自分にひとりごを下さるという神の約束を信じる信仰があるなら神を助けて、考えられる手段方法を用いるべきだと思い込んでいたのです。アブラムは、神さまの手伝いをしたと思っていたのかも知れません。本当に神さまを信頼出来ますとき、肉的人間的な、はやる心は消えて、心は休むことが出来るでしょう。
何年か前、神戸から彦根に帰るとき、直通の米原行の電車が直ぐにはなく、途中の駅の京都行きや草津行き、安土行きなどの電車を二、三本待たなければならないことがありました。途中で乗り換えないほうが、楽であることは分かるのですが、じっと待つことが出来ないで乗ってしまったことがあります。そのように、私たち人間は、とかくしますと、待つことが出来ず、待つ時間は無駄のように思えて、その間も何かをしていないと心が落ち着かないのです。そんな経験をされたことのある方々もおられることと思います。「神さまの時」を待てないということ、「神さまの方法」に委ね切れないということは、言い換えますならば、「神さまを信頼出来ません」と言うのと少しも変わらないことでしょう。
待つだけのことはある
アブラムは、創世記十五章で信仰を表明しました。しかし、十六章では、忍耐ということ、待つということに失敗してしまいました。ヘブル人への手紙の記者は、「信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となる」(六の十二)ようにと、励ましています。
商業の世界で、約束手形というのがありますが、聞くところによりますと、お金の受取人が、お金の受取の日を待たされるとき、支払い人は待たせた日数分の利子も支払わなければならないそうです。待たされるほど、受取人は、利子の分、多くもらえるというのです。
信仰の世界においても、神の約束手形というものがあるのではないでしょうか。「神さまの時」を、制御された忍耐深い心をもって待ち、「神さまの方法」に全く委ね切ることが出来ましたならば、神さまはご自身の約束そのままをそっくり果たして下さるばかりではなく、遥かにそれ以上のことをして下さるのではないでしょうか。「神さまの時」を、制御された忍耐深い心をもって待ち、「神さまの方法」に全く委ね切るならば、そうすることは、言い換えますならば、私たちが、神さまを天のお父様として、全く信頼しているということを、神さまご自身に分かって頂けるからです。そのように神さまを信じきって待つことができたとき、神さまは、利子ではありませんが、約束以上の充分豊かな報酬を私たちに授けて下さるのではないでしょうか。
真の祝福の条件は
「神さまの約束」は、「神さまの方法」によって、「神さまの時」が来たときに成就されることを信じて、「待つ」ことの大切さを教えられましたが、ただ、待つだけが、祝福の条件ではありません。真の祝福のもう一つの条件は、「自分に死ぬ」ということではないでしょうか。自分に死ななければ、新しい命は生まれないということです。
ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだのは、アブラムが八十六才の時(創世記十六の十六)、つまり、彼の肉の力、生まれながらの天賦の力が、まだ相当に残っているときでした。ですから、パウロによれば、イシュマエルは、肉によって生まれたと言っています(ガラテヤ人への手紙四の二十三)。
一方、サライを通して、イサクが生まれたときは(創世記二十一章)、アブラムは、まさに百才になった時であり(創世記十七の十七)、アブラムの体が、死んだ状態であり、サライの胎が不妊であった時でした(ガラテヤ人への手紙四の十九)。言い換えますと、彼の肉の力、生まれながらの天から授けられた力が全く枯死してしまったときでした。このときこそ神さまが選ばれた「神の時」だったのです。 私達の神様は、今でも、生きておられ、ご自身のわざをなさるときは、この時期を選んでなさるに違いありません。天から授かった力がみな衰えてしまったとき、イサクを産んでくださったのです。もはや自分は、死んだものであり、自分の力では何もできないということを彼に認めさせ、神ご自身が、死人をよみがえらせ、無から有を生じさせる神であることをアブラムに認めさせようとされたのでした。真の祝福の条件は、「自分に死ぬ」ということです。
私たちは、クリスチャンとしての信仰年限がどんなに長くても、主に対して、「私はもうおしまいです。私は死んでしまった。私には全く方法がありません。」という境地にまで導かれなければなりません。そうでありませんと神さまは、私たちを用いることができませんし、私たちは、「イサクを産む」ことができません。ですから、父なる神さまの御心を成し遂げることができないのです。「イサクを産む」ときは、アブラムにしてみれば、百才の時であります。つまり、自分は、何もかもおしまいだと自覚したときです。この日が来る前に、すなわち、キリストとともに自我が、「たく殺」されたという十字架経験がないままで、私たちが自分でしたことは皆、「イシュマエル」なのです。真の祝福の条件は、肉的な自我が、「たく殺」され、自分自身の無力を徹底して悟り、「神の方法」「神の時」に委ねて待つ事ではないでしょうか。私たちは、イシュマエルを選びますか、それとも、イサクを選びますか。
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86歳(病む)でイシマエル(意思の前の屡)が生まれたのは、アブラム(阿亜の舞謀)に運する、あん、あめんの覇(刀)気がなかったからです。
刃を得てアブラハムとなったので意を咲かせる(イサク)ことができた。飛躍(ハンドレッド=手を赤くして神向した)してイサクを得た。侍=意を照らす=意作=意咲く=イサク、魂
サライ=皿の意=殻田、肉体本能の法、666の餓鬼根性の法(イ)を捨ててサラ(新=更生=反省=ミカエル)となったので、実魂を得ることができた。
モリヤの地にある山で一人子(魂)のイサクを捧げよと命じられた。
諏訪(48音の言を訪ねれば主に和す)大社の御神体は裏山にある守屋山である。
言霊(ダジャレ=打邪礼=尾も白くする)が真理を蘇らせる=十字架刑はしゃれこうべの丘で行われ、語瑠午立(ゴルゴダ(48音=ヨハネ)のすすめが聖書のメッセージである。いかがでしょうか?
2012/5/17(木) 午前 11:59