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ローマ人への手紙7:7〜14(12〜13節)
「律法についての正しい認識」(1)
2011-1002総員伝道礼拝
説教 萩原雄介
「ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。/では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。」ローマ人への手紙7:12〜13
7:7 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
7:8 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。
7:9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。
7:10 それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。
7:11 それは、戒めによって機会を捕らえた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。
7:12 ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。
7:13 では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。
7:14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。
今朝の礼拝では、12〜13節を中心にして、《律法について正しく認識する》という視点から、メッセージを、お取り次ぎさせて頂きたいと思っております。
律法は、確かに、人を義とすることも聖化することも出来ません。「・・・律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」。そのようなことになりますと、何か律法が悪いものであるかのような錯覚に陥らないとも限りません。そこで、そのような問題を取り上げ、律法の効用について述べ、結論として、ここ12節で、「ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」と言っているのです。
(1)では、律法が聖なるものであるとは、どのような意味でしょうか。「聖なるものであり」(12節)とは、他のものから区別されているという意味ですが、特に、罪や悪から区別されているということで、罪や悪とは全く無関係であるということです。そして、このことは、律法が、神さまのご性格を表しているということを示していると思います。私たちの神さまは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」(Ⅰペテロの手紙1:16)と仰せられる御方です。律法とは、その御方の御心を示すものですから、当然、それは、聖い神さまのご性格を示しているのです。
(2)律法は、「聖」であるだけではなく、二つ目に、「正しく」(12節)と言われていますように、これは、神さまの律法が、あらゆる点において、私たちに公正な要求をしているということを意味しています。十戒の中に不公平な要求は一つもありません。
アダムとエバの場合を考えて見ますと、良く分かります。彼らには、一つの律法が与えられていました。それが破られた時には、どうなるかということも、はっきり語られていました。その後、彼らが、その律法を破り、神さまに対して罪を犯し、神さまに反逆した時、彼らはエデンの園から追放されたことについて、何一つ文句を言うことは出来ませんでした。神さまは正しく刑罰を課せられたからです。
(3)三つ目には、律法は「良いものなのです」(12節)と言われています。「良い」とは、この場合、どのような意味でしょうか。律法は、その目的においても、その効用においても、人に対して好ましい結果を齎すということなのです。
律法が「聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」(12節)とは、律法が完全でもあるということをも意味しているのです。詩篇の作者が次のように歌っていますが、その通りですね。
「【主】のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、【主】のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。/【主】の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、【主】の仰せはきよくて、人の目を明るくする。」(詩篇19:7〜8)
ところで、この12節に続く13節が、7〜12節に続く結びのことばと見るべきなのか、それとも、14節以下の文章への導入としてみるのが相応しいのか、意見が分かれるところかも知れませんが、よく見ますと、両方の役割を果たしているように思われます。扉でいえば、蝶番(ちょうつがい)のようなものに相当するのが、この13節なのかも知れませんね。
ですから、このどちらにも結びつく13節は、7〜12節と14節以下との橋渡しの役割を果たしているように思われますが、いかがでしょうか。そこで、この13節を、7〜12節に続く結びのことばとして、まず、ここで考えて見たいと思います。
7:13 では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。
ここにおいて述べていることを良く見ますと、12節で、「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」と言ったわけですが、その良いものである律法が、どうして、私(パウロ自身)を死に至らせるようなことをしたのかという疑問を取り上げ、それに対しては、「絶対にそんなことはありません。」と否定しています。律法が悪いわけではありません。「それは(悪いのは)むしろ、罪なのです。」と述べながら、律法は「良いものなのです」(12節)と強調しています。律法について、より正しい認識を持たせて頂きたいと思います。
さて、パウロは、ここで、罪について二つのことを述べています。
(1)一つは、「罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ」(13節)たのです。罪というものの正体を暴露するために、律法は私を殺してしまったのだと、自分の魂は、自分の霊魂は、律法によって殺され、死んだ状態になっているのだパウロは述べているのです。罪の正体については、既に11節で述べていますように、「欺く」ことです。それは、その背後に悪魔がいるからです。
◆例話◆鮎釣り
それは、ちょうど、釣りをしている人のようなものです。餌を付けて、その餌の中に巧みに釣り針を隠しています。滋賀県の彦根教会で奉仕させて頂いております時、今は既に天に帰っておられますが、釣りが上手な一人の兄弟がおられました。その兄弟は、ヘビースモーカーでしたが、罪を悔い改めて、イエスさまを罪からの救い主と信じたその日から、たばこから一切離れて教会生活を送っておられました。それは、クリスチャンの娘さんの証言によっても、間違いありませんでした。
その兄弟が、5月か6月頃から、8月末頃まででしたか、鮎の解禁になりますので、釣り方を教えて下さったのです。琵琶湖の鮎は、大人として成長した鮎でも、小さいですから、「小鮎」(×「子鮎」)と呼んでいました。琵琶湖から川を上りながら藻を食べながら成長して、体調が大きな鮎になるのだそうです。
その鮎の釣り方には、いくつかの方法がありますが、二つの方法を教えて貰いました。10本ぐらいの針の下に、練り餌を入れた籠をぶら下げながら餌をまき散らして行く方法と、もう一つの方法は、一本の釣り針を、練り餌で隠すように覆う方法です。このように、他の魚を釣る時と同じような餌の付け方です。■
先ほど、罪の正体については、既に11節で述べていますように、「欺く」ことです。それは、その背後に悪魔がいるからですと申し上げました。
釣り針が餌で隠されているように、律法との出会いを経験して初めて、その罪の正体が暴露され、自分は、その恐ろしい罪のために殺されてしまった、霊的に死んでしまった状態になっていると言うのです。
「律法についての正しい認識」(2)へ続く
「ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。/では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。」ローマ人への手紙7:12〜13
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