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ローマ人への手紙7:7〜14(12〜13節)
「律法についての正しい認識」(2)
2011-1002総員伝道礼拝
説教 萩原雄介
「律法についての正しい認識」(1)より続く
「ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。/では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。」ローマ人への手紙7:12〜13
(2)罪についての、もう一つのことは、「戒めによって、極度に罪深いものとなりました。」(13節後半)と述べているところで、語っていますように、罪の罪深さの暴露なのです。ここで、「罪深いもの」と訳されていることばは、「罪人」と言う意味ですが、ユダヤ人が、特に、罪を犯した人や異邦人のことを、軽蔑して使ったことばなのです。罪の恐るべき力だけではなく、悪辣(あくらつ)さを示していることばです。律法によって、罪の悪辣さが暴露されたというのです。
パウロは、ガラテヤ人への手紙3:19の中で、「では、律法とは何でしょうか。」という問いかけに対する答えとして、「それは・・・違反を示すためにつけ加えられたもので・・・す。」と述べています。ところが、ユダヤ人が律法に対して犯していた根本的な誤りは、それを守ることによって救われると考えていたことです。彼らが、神さまから離れた歩みをして行った理由は、まさに、その点にあるのです。ですから、パウロは、次のように述べているのです。
聖書には、何と書いてあるでしょうか。
「しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。/なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。」(ローマ人への手紙9:31〜32)
◆例話◆
●信仰の実行がむずかしい
ある女性が礼拝に出席しなくなった。
宣教師が心配して訪問し、そのわけをたずねた。
「私は礼拝で教えていただいた事を、十分実行できないものですから」彼女は恥ずかしそうに答えた。■
皆さま方も、経験しておられるのではないかと思いますが、「信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めた」ことがなかったでしょうか。私も、クリスチャンになって間もない頃は、そのように思っていたことがありました。でも、これは間違いだというのです。ある意味で、私は、ほっとしました。聖書に書いてあることを、一つも間違わないで守っていくというように、道徳の教科書として考えていたら、自分で自分の首を絞めることであって、生きた心地がしません。
それでは、その律法との出会いによって、自分が殺されてしまったとパウロが言っていることは、彼の生涯において、いつのことなのでしようか。パウロが、ここで、自伝的に語っている律法の効用についての彼の体験的告白は、パウロの生涯の中で、いつのことなのでしょうか。
ピリピ人への手紙3:6を見ますと、「その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。」と述べていますが、これは、十二歳以下の少年の頃のことではなく、パウロが成人して、ガマリエルの門下で、学んでからのことです。
律法をガマリエル門下で学びながらも、教会を迫害し、その上、律法を守ることにかけては、他の誰にも負けないほどに優れており、それによって、神さまの御前に義とされていると思っていた時代のことです。言うまでもなく、パウロがクリスチャンになる前のことです。
ですから、パウロが、ほんとうの意味で律法と出会い、律法によって自分の罪が示され、自分の魂が、霊魂が全く死んだ者であることが分かったのは、彼がダマスコへの途上で、キリストと出会った、正に、その時でした。キリストとの出会いによって、律法に、新しい光が注がれた時、パウロは、それまでは、自分の力で律法を守ることが出来るし、自分の力で立派な道徳的な生活が出来ると思っていたことが、全部、間違いだったということが分かったのです。
それどころか、それまで自分の心の内に存在していることすら知らなかった罪が活動を始めて、自分が、どれほど罪の奴隷となっているかということが分かったと言っているのです。
それだけではありません。罪が律法を支点(支え)として、このように自分の心の中に、悪い思いを抱かせ、自分を欺いて、酷いことをさせるということが分かりました。このようにして、自分は何一つ、善を行なうことが出来ない者であることが分かったというのです。
このように、パウロは、キリストとの出会いを通して、ほんとうの意味で、律法の意味、目的、効用について知ることが出来ました。律法は、決して悪いものではありません。悪いものであるわけがありません。それは、神さまの御心を示している点において、「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」
そして、「罪は、・・・罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものと」して、認められるために、その戒め・律法の役割を果たすのです。ですから、律法を自分の力で守ることによって救いの恵みに与ろうというような、空しい努力はすべきではなく、キリストとの出会いによって、律法の価値を正しく認識し、位置づけたいと思います。
その時、罪の恐ろしさが良く分かり、罪からの救いは、ただキリストの身代わりの贖い以外にはないことを知って、神さまの聖名を崇めることが出来ます。罪が赦された喜びが沸き上がって参ります。このような罪からの救いの恵みに、私たちクリスチャンは、与ることが出来ました。また、同じ恵みに、道を求めておられる方々も、与ることが出来るのです。ぜひ、先ほど申し上げましたローマ人への手紙9:32に書かれていますように、「信仰によって追い求める」ことをして頂きたいとお祈りさせて頂いております。
「しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。/なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。」(ローマ人への手紙9:31〜32)
お祈りを致しましょう。
「ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。/では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。」ローマ人への手紙7:12〜13
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