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ローマ人への手紙7:14〜25(24節中心)
「罪に悩む惨めな人間」(1)
2011-1009聖日礼拝
説教 萩原雄介
「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」ローマ人への手紙7:24
7:14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。
7:15 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。
7:16 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
7:17 ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
7:19 私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。
7:20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
7:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
さて、今朝は、クリスチャン信仰の正念場とも言える場面、これぞという大事な場面・局面とも言える8章に向かう大切な場面を取り上げます。政治の世界では「政局」という言葉がありますが、信仰の世界では、私が勝手に名付けるのですが、「霊局」と言っても良い大切な場面にさしかかってきました。私たちの心には、アダムとエバ以来、罪深い性質がありますが、聖霊によって聖くした頂きます時、ローマ人への手紙8:37に書かれているように、「圧倒的な勝利者」になることが出来るのです。
ローマ人への手紙8:37
8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
8:37 Yet in all these things we are more than conquerors through Him who loved us.(New King James Version)
ローマ人への手紙の中でも、最も興味深い個所は、7:14〜25ではないかと思います。そうであるだけに、解釈については、意見が分かれるところでもあるのです。大きく分けて三つの解釈があります。
第一は、この内容が、まだ生まれ変わっていない人について語られているのだというものです。つまり、未だイエス・キリストを信じていない人に関するものだというものです。
第二は、これが生まれ変わった人、つまり、クリスチャンの心の状態について述べているのだとする解釈です。
第三は、このことが生まれ変わった人についての言及だけれども入信しただけの状態で、第二の恵み、聖化の恵みを受けていない人の状態について述べられているのだという受け止め方です。私たちの教団・教会・私の信仰の立場は、この三つ目の解釈の仕方を信じているものです。
このローマ人への手紙7章の中に出てくる「罪」という言葉は、英語の聖書では、全部、“sin”と単数形になっておりますから、数えることの出来ない「罪」、つまり、アダムとエバが罪を犯した時以来、私たち人類の中に入ってきた「原罪」“Original Sin”つまり「罪深い性質」(Sinful Nature)のことを指しています。
数えることが出来る罪“sins”は、行ないとしての罪ですから、イエス・キリストの十字架によって、赦して頂くべき罪です。しかし、数えることが出来ない罪、つまり、性質として私たち人間の心の中に、こびり付いてしまっている罪深い性質というものは、赦されるべきものではなく、イエス・キリストの十字架の贖いの血によってではありますが、聖霊によって聖くして頂くべきものなのです。そのあたりのことを、良く整理しておきますと、私たちが、先ほど、申し上げました三つの解釈のうち、三つ目の解釈−−−このことが生まれ変わった人についての言及だけれども入信しただけの状態で、第二の恵み、聖化の恵みを受けていない人の状態について述べられているのだという受け止め方−−−を取らないわけにはいかない理由が分かって参ります。
そういうわけで、この14〜25節までのところを詳しく取り上げる前に、このところを、少し分解しながら、全体の流れを見てみたいと思います。今朝の礼拝のタイトルを「罪に悩む惨めな人間」と致しましたが、7:24は、この新改訳聖書では、「私は、ほんとうにみじめな人間です。」となっているところが、文語訳聖書では、「噫(ああ)われ悩める人なるかな」と訳されて始まっていますから、その両方をとらせて頂きましたことを、先ず申し上げておきたいと思います。
先ず、14節は、ここで、描かれている人の状態についての一般的な側面が述べられています。
7:14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。
15節では、毎日の生活の中に示されている状態について述べられています。
7:15 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。
16〜17節では、その人とその行動について、二つの側面について述べています。
7:16 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
7:17 ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
18〜20節では、その人について、17節で述べたことの説明が語られています。
7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
7:19 私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。
7:20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
21節では、また、別のことを述べています。これは、14節で述べていることを、もう一度取り上げていますが、更に深い調子で述べています。
7:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
22〜23節では、21節で述べたことを説明しています。
7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
24節では、今まで、パウロが述べてきた恐るべき状態の現実からの絶望の叫びと同時に、そこからの救いを求める叫びを記しています。
7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
25節では、救いの叫びと、今まで述べてきたことの結びとを記しています。
7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
「罪に悩む惨めな人間」(2)へ続く
「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」ローマ人への手紙7:24
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