インマヌエル金沢キリスト教会 萩原雄介牧師のブログ

人生の課題を共有し、聖書のことばから神の恵みを分かち合い、より豊かな人生を過ごすために、聖書から豊かな語りかけを頂きましょう。

聖書と讃美集会メッセージ

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特に、教会に初めての方や真実に、神さまの救いを求めている方々のための集会です。毎週日曜日、午後1〜2時までの間に、讃美や、クリスチャンになったときの信仰の体験談、聖歌隊や楽器による音楽のプログラムもあります。最後に、聖書と讃美集会からのショートメッセージがあります。教会に行ったことのない方々も、是非、いらしてください。
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伝道者の書12:1
「若いときにも老いた時にも」(2)
2011-1009聖書と讃美集会
お勧め 萩原雄介

「若いときにも老いた時にも」(1)より続く

「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』と言う年月が近づく前に。」 伝道者の書12:1

 「少年老い易く、学なり難し」という 中国の言葉がありますが、若い方々にも、老年期は、たちまち、やって来ます。

【例話】 一人の青年が、ある夜、夢を見ました。夢の中で流れ星がスーッと落ちると、たちまち青年は、白髪の老人になってしまったのです。あわてて、「青年に戻してくれ!」と叫びました。すると、そのとき、ゴーンと除夜の鐘が鳴り、夢から覚めて、ほっとしたということです。何か、浦島太郎の話にも似たような夢でした。■

 私たちは誰でも、老齢期に向かって生き甲斐を見いだし、お金を貯え、健康にも充分に心を配っていかなければならないと思います。しかし、死を避けて通るわけには参りません。でも、気落ちしないで生きて行きたいと思います。神さまのところに、やって来るならば解決が与えられます。人が最も恐れる死に対して、光があるのです。

 ゼカリヤ書にこんなみことばが記されています。
「これはただ一つの日であって、これは主に知られている。
   昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。」 ゼカリヤ書14:7 

 このみことばは、イエス・キリストが再び地上に来られる再臨にかかわることを指しています。「夕暮れ時に、光がある。」何と、素敵なみことばでしょうか。イエス・キリストは、十字架の死から復活されました。ただ一人、キリストだけが、永遠の扉を開いて下さったのです。ですから、このキリストを信じる者は、永遠のいのちに与ることが出来るのです。それが聖書の約束であり、福音です。

 死の問題を解決してこそ、本当の平安をもって生きることが出来るのではないでしょうか。

◆例話◆
 ある若い牧師が、臨終の近づいた篤信の年老いた女性を訪ねました。何と言って慰めていいか分からずに、牧師がためらっていると、その年老いた女性は仰いました。

「牧師さん、心配しないで下さい。川の向こう側(死の彼方)も、神さまの世界ですから。」と。まさに、「夕暮れ時に、光がある。」のです。やがてあたりは闇に包まれますが、そのときには星が輝き
出すのです。真っ暗闇であればあるほど、星は明るく、強く輝くことが出来るのです。■

 詩篇30:5に、「まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」と書かれています。私たちの人生のほんとうの意味での朝明けは、イエス・キリストを自分自身の個人的な罪からの救い主として信じ受け入れた時に始まるのです。

 現代の多くの人たちは、お金や物や名誉というものに心を奪われているために、光が見えていないのではないかと思います。お金や物、名誉など、この世の物は、やがて闇に消えていきます。そのとき、私たち一人一人に光があるでしょうか。イエス・キリストによって神を信じるとき、まことの光を見いだすことが出来るのです。

 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」ヨハネの福音書8:12

 詩篇71:5で、詩人は、「神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。」と告白しています。

 同じ詩篇の71:9では、「年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください。」と祈っています。

 今日の聖書の御言であります伝道者の書12:1を心に留めて締め括りたいと思います。

 あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。 伝道者の書12:1

                  お祈りをいたしましょう。


「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』と言う年月が近づく前に。」 伝道者の書12:1



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伝道者の書12:1
「若いときにも老いた時にも」(1)
2011-1009聖書と讃美集会
お勧め 萩原雄介

「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』と言う年月が近づく前に。」 伝道者の書12:1

 旧約聖書のレビ記に、次のようなみことばがあります。
「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」 レビ記19:32 

 電車やバスには、シルバーシートが用意されています。お年寄りの方がおられない場合は、若い人も、そのイスを利用してもよいようですが、お年寄りの方が来られましたら、優先的に譲らなければならない座席だと聞いております。

 しかし、そのような座席に若者たちが長い足を広げて投げ出して、ドカーッと座り、その側にお年寄りの人が吊革に掴まって立っているという光景を、時々、見かけないでしょうか。

◆例話◆
 ある物語の一場面の様子なのですが、ある家庭の食事の時のことです。老人は震える手に木のスプーンを持って、スープかシチューかを食べています。見ると、ポタポタこぼしているではありませんか。これを見て、その老人の息子が、咎めるのです。「なんて汚いんだ!」すると、老人にとっては孫にあたる男の子が父親に言いました。「お父さんも、おじいさんのようになるんだよ」と。■

 老人問題は、誰にとっても他人事ではありません。どんなに若くて元気な人でも、いつかは、老人になるのですから、自分のこととして考えておかなければならないと思います。そして、心身共に豊かな老後のために備えたいと思います。

 青年時代にはスポーツや音楽などにエネルギーを燃焼させ、壮年時代には仕事や事業に意欲を燃やします。女性の場合には、ある方は、キャリアウーマンとして仕事に熱中し、ある方は母親として子育てに精力を傾けると思います。

 しかし、仕事も、いつかは辞めなければならないときが来ます。ある人は、若いときから会社のために尽くしてきて、過労がもとで病気になったという人がいます。そして、すぐに回復しないために、病床で、職を辞めなければならないことを知らされて、そのためにその病気がもっと悪くなって亡くなられてしまったという方のことを、聞いたことがあります。ほんとうに、お気の毒だと思います。現代の会社のシステムでは、経済的にも、そのような人を最後まで面倒見てもらうことは、難しいのではないかと思います。

 また、子どもも就職したり結婚したりして、親元を離れて行くでしょう。その時、生き甲斐を失い、孤独のどん底に陥ってしまう、そのような人が実に多いのではないでしょうか。

 老後の楽しみのために日本画を習っていた人がいました。ところが、年をとると手が震えて、細かい部分が、どうしても描けなくなってしまったのです。そのとき、自分の「老い」というものを、しみじみと感じ、趣味も、老後の生き甲斐にはならないということが分かったそうです。

 公園に行きますと、ピクニックでもないのに、弁当を一人で食べているお年寄りを見かけることがあるでしょう。ある人は楽しんで、そうしているのでしょうが、そうでない人もいるようです。家族(嫁と姑)の問題も、いろいろと難しい問題があるのではないかと思います。

 あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。 伝道者の書12:1

 最初にも読みましたが、この聖書の前半のみことばは、後ろから読むと実感がわくのではないかと思います。

 わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に、(つまり、)あなたの若い日に、あなたの創造者である神を覚えよ(信じなさい)。

と、このように順序を変えて読むと、分かりやすいと思います。いわゆる「恍惚の人」になる前に、今のお若い時から、目には見えませんが生きておられる神さまを信じることは、とっても大切ではないでしょうか。

 【例話】スイスのクリスチャンの精神科医に、ポール・トゥルニエ(1898〜1986)という人がいましたが、彼は、次のように述べています。
「老年期とは、人間が現役で活動している間に時間をとることが出来た時よりも、もっとゆっくり時間をかけて、自分の人生を反省し、何が本当に価値あるものであるかということを発見しようと試みるときなのである。」と。老年期にこそ、人生の最高の価値あるものを、ぜひ見いだしたいと思います。■

 さて、お年寄りの方々にも、「社会に適応し易い人」と「社会に適応しにくい人」とがいると言われています。ある人が調べて纏めたものがありますので、紹介させていただきます。それぞれに、いくつかのタイプ(型)がありますので、自分は、将来、どの傾向になりそうかなと考えてみたいと思います。

「社会に適応し易い人」
①成熟型−−これは、円熟したお年寄りです。自分を肯定し、過去を悔やまず、不平を言わずに心から満足している人です。

②悠々自適型−−安楽を楽しみ、他人まかせで、揺り椅子で揺られているようなタイプです。のびのびとした気持で楽しみながら暮らすタイプです。

③装甲型−−軍隊が使っている装甲車のように、鎧甲(よろいかぶと)で自分を防衛し、弱みを隠しながら、いいところを人に見せ続けようとして、老いに対抗している人です。

「社会に適応しにくい人」
①憤慨型−−若いときのように思うようにならないために、気を病み、それを他人のせいにして非難する。そのように老境を素直に受け入れないタイプの人です。

②自己嫌悪型−−いつも悲観的で、自分はだめだ駄目な人間なんだと、くよくよして日を過ごしているタイプの人です。

 聖書を見ますと、99歳の時に、神さまに、
 「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」(創世記17:1)と言われたアブラハムがいます。

 85歳にして、自ら志願して、「山地を下さい」(ヨシュア14:6〜13)と申し出たカレブがいます。このような元気なお年寄りの姿を見ますが、私たちは、どのようなタイプのお年寄りを目指しているでしょうか。

「若いときにも老いた時にも」(2)へ続く


「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』と言う年月が近づく前に。」 伝道者の書12:1



神の光は種のように




詩篇97:1〜12
「神の光は種のように」
2011-1002聖書と讃美集会
説教 萩原雄介
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「光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。」詩篇97:11

 97:1 【主】は、王だ。地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。
 97:2 雲と暗やみが主を取り囲み、義とさばきが御座の基である。
 97:3 火は御前に先立って行き主を取り囲む敵を焼き尽くす。
 97:4 主のいなずまは世界を照らし、地は見て、おののく。
 97:5 山々は【主】の御前に、ろうのように溶けた。全地の主の御前に。
 97:6 天は主の義を告げ、すべての国々の民は主の栄光を見る。
 97:7 偶像に仕える者、むなしいものを誇りとする者は、みな恥を見よう。すべての神々よ。主にひれ伏せ。
 97:8 シオンは聞いて、喜び、ユダの娘たちも、こおどりしました。【主】よ。あなたのさばきのために。
 97:9 まことに【主】よ。あなたは全地の上に、すぐれて高い方。すべての神々をはるかに抜いて、高きにおられます。
 97:10 【主】を愛する者たちよ。悪を憎め。主は聖徒たちのいのちを守り、悪者どもの手から、彼らを救い出される。
 97:11 光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。
 97:12 正しい者たち。【主】にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ。

 詩篇97篇は、「神さまの王権を讃える詩篇」であり、「喜びの神礼拝への招き」について歌われています。7節の後半に「すべての神々よ。主にひれ伏せ。」と書かれていますが、多くの人たちは、自分自身が「神」になってしまっているのですが、そうではなく、主こそ、聖書の神さまこそ、ほんとうの神さまなのだから、王なのだから、「主にひれ伏せ」と、詩篇の作者は述べています。

 97:1 主は、王だ。地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。
 97:8 シオンは聞いて、喜び、ユダの娘たちも、こおどりしました。主よ。あなたのさばきのために。

 喜ぶようにと命じられ、シオン(エルサレムの丘の名前)やユダの人々は、実際に、「こおどりしました。」とありますように、この詩篇は、「喜びの礼拝への招き」について歌われている詩篇であることに、お気づきのことと思います。

 この詩篇の三つの段落は、それぞれ、特定の対象に関心を寄せています。
(1)1〜7節では、イスラエルの外にいる人々に関心を寄せています。
(2)8〜9節は、ユダを中心とする民衆に焦点を合わせています。
(3)10〜12節は、特別に主(神)を愛する、神の前に正しい人、つまり、聖徒(10節)に焦点を合わせています。その誰もが、「喜ぶ」姿が、思い描かれているのです。どの段落にも、「喜び」とか、「喜べ」という言葉が記されています。

 8〜9節では、詩篇の作者は、神さまに対して、「あなた」と呼びかけていることに、お気づきのことと思います。
 97:8 シオンは聞いて、喜び、ユダの娘たちも、こおどりしました。主よ。あなたのさばきのために。
 97:9 まことに主よ。あなたは全地の上に、すぐれて高い方。すべての神々をはるかに抜いて、高きにおられます。

 このように、信仰は、神さまを「彼」としか呼べない状態では不十分なのです。信仰は、神さまの人格に向かって、「あなた」と呼びかけることが出来るものではないでしょうか。それが、ほんとうの信仰の証しではないかと思います。

 さて、11節に目を留めてみたいと思います。
 97:11 光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。

 神さまからの「光」、これは、祝福、救いの恵みと置き換えて良いと思います。この神さまからの「光」と「喜び」は、種蒔く人が、蒔き散らす種のように、信仰者の心と生活の上に及ぶのです。祝福をもたらし、キリストによる救いの恵みを与えて頂けるのです。

 光には、その波の性質から、障害物の後ろへ回り込み、影の部分に侵入する「回折(かいせつ)」という現象があります。私たちの光であられる神さまは、私たちの心と生活の隅々にまで回り込み、入り込んで、喜びと恵みとを届けて下さいます。

◆例話◆
●殺人者から伝道者へ
 1872年(明治15)7月、十八歳の好地由太郎(コウチヨシタロウ)は東京・日本橋の商店に就職した。ある夜、三十歳の女主人に目がくらんだ由太郎は彼女を襲った。気が付いたときには女主人を殺していた。
 逮捕された由太郎には無期懲役がくだされたが、彼は脱獄した。再逮捕された凶悪犯が送られていったのは北海道の空知(そらち)刑務所。荒れすさんだ日々の中で出会ったのが、冤罪(エンザイ)−−無実の罪−−で投獄されていたクリスチャンだった。
 このクリスチャン青年によって由太郎は見事にに回心した。それからは自分で聖書を読むために字を学びはじめた。何の希望もなく、むなしく獄中にいる他の人々に、由太郎はイエス・キリストの救いの恵みを伝えだし、信じ救われる人たちが次々に起こされていった。減刑釈放された彼は、残る生涯を伝道者となって福音を伝えつづけた。■

 イザヤ書58:8には、
「そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。」(イザヤ書58:8)と書かれています。

◆例話◆
●はすの花
 蓮の花は汚れの中にあるにもかかわらず、十六弁の花びらをもって美しく咲き続ける。汚泥と淀んだ水という環境が、これほど悪いにもかかわらず、驚くほど清い美しさをもって咲く花は、見る人々に静かな感動をあたえる。汚れた沼地の中で、どのようにしてこのような清純な花が咲くのだろうか。蓮は、自分自身のうちに生き生きとした力強い命をもっているのだ。その生命が、茎を汚い泥水の中から突き出し、清純な花を咲かせる。

 牧師のポール・S・リースは、神に語る蓮(はす)の花のことばを代弁していう。
「愛する神さま、私はあなたに、悪臭をはなっている不潔な水や、水草のない清い所に生えさせてくださいとは、お願いいたしません。私がお願いすることは、ただこれだけです。死がまわりをおおっていても、なお生き続けることのできる活力。汚れや悪があたりに荒れ狂っていても、なお花開くことのできる活力。それを、私のうちに保たせてくださることです」■

 最後に、10〜12節を、ご一緒に読んで見ましょう。

 97:10 主を愛する者たちよ。悪を憎め。主は聖徒たちのいのちを守り、悪者どもの手から、彼らを救い出される。
 97:11 光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。
 97:12 正しい者たち。主にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ。

 私たちの神さまは、既に、皆さま方の心に、「光」を「種のように蒔かれています」。その種は、柔らかい心の中で芽を出し、実を結ぼうとしています。どうぞ、その信仰の実を、世の中を飛び回っている鳥に横取りされないように、しっかりと実を結ぶように、イエスさまに、より近く歩み続けて行きたいと思います。

 「光」に関しての聖書のみことばを、いくつか比べてみたいと思います。
「光」
マタイの福音書4:16
「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」

ヨハネの福音書1:4〜5
「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」

ヨハネの福音書1:9
「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」

ヨハネの福音書3:21
「しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」

ヨハネの福音書8:12
イエスはまた彼らに語って言われた。『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』」

ヨハネの福音書12:35
イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。

ヨハネの福音書12:36
「あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。

エペソ人への手紙5:8
「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」

                  お祈りを致しましょう。


「光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。」詩篇97:11




誰にでも読める聖書(2)

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詩篇119:105〜112
「誰にでも読める聖書」(2)
2011-0925聖書と讃美集会
お勧め 萩原雄介

「誰にでも読める聖書」(1)より続く

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」詩篇119:105

  聖書は神のことばです。
 Ⅱテモテへの手紙3:16に、
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」と記されています。聖書が生きた書物であるということは、「霊感」ということと関係があります。聖書が霊感された書物であると言うとき、それは、ある宗教でいう「おふでつき」とか、芸術について使われている意味でのインスピレーション(霊感)とは、違います。また、思いつきや、無意識、恍惚状態で書いたというのとは、全く違います。

 聖書で言う「霊感」とは、「息を吹きかける」という意味です。聖書は、「神が息を吹き込まれた書物」であります。神さまによって、書いた人の個性や状況が無視されないで、神さまが息を吹きかけられたものとして、聖書は書かれたのです。そればかりではなく、今も読む人に働きかけ、救いを与える書物なのです。

 では、聖書を読むときは、どうしたらよいでしょうか。
魚をどのようにして食べるかということと共通しているところがあるかもしれません。

 魚を食べるとき、子どもの頃は、どこからどのように食べたらよいか分からず、また、しばしば喉に骨が引っかかったりして、指を口の中に入れたり、うがいをしたり、ご飯を丸ごと飲み込んでみたり、何をやっても骨は取れませんでした。諦めて忘れた頃に、骨が取れています。こんな具合ですから、子どもの頃は、なかなか、魚を好きになれませんでした。しかし、だんだん、年齢と共に、魚を食べるのが大好きになりました。煮ても焼いても生でも、何でも持ってこいというところでしょうか。鰺(あじ)の開きなどは、かなり大きなものでも、唐揚げにしたら、頭から、骨まで、殆ど何もかも食べることが出来ますね。

 その魚も、一人一人、どこから食べたら上手に食べられるか、考えて食べられると思います。食べやすいところから食べると思います。上手な人は、まさに、骨だけ、魚の骸骨だけを残して、きれいに食べてしまいます。ある人は、骨までしゃぶったり、骨だけ焼き直して、お摘みのようにして食べたりもしているのではないかと思います。

 そのように、聖書も、
分かり易いと思われる個所から、読み易いところから読み始めてもいいと思います。しかし、読むときの心は、どこから読むかということ以上に、大切だと思います。
(1)一つは、謙虚な心で、
(2)もう一つは、切に求める心で、
(3)さらに、祈り心で       読むことが大切だと思います。
そうすれば、神さまは、きっと、その人に救いの恵みを豊かに注ぎ、神さまについての理解をさらに深めさせて下さるのではないでしょうか。

◆例話◆
 ある牧師は、まだ神さまを信じなかった青年時代に、一人の宣教師に出会いました。すると、その宣教師が、いきなり聖書の話をするので、「先生、私は聖書を信じませんから、聖書以外のもので、科学的に神さまについての話をして下さい。」と言いますと、その宣教師は、「聖書以外に、どこに神のことばがありますか。聖書は、神のことばです。」と言われました。

 その青年は、「明日、来ます。」というと、「明日来ても、聖書以外の話は、しません。聖書は神のことばです。」と重ねて言われました。この確信に満ちたことばに打たれて、このことが一生、聖書を神のことばだと、自分が確信するようになった土台でしたと、その牧師さんは、言われました。■

 聖書は、生きた書物であり、神のことばです。それは、実に、神さまに起源を持っているからです。キリスト教の信仰は、この聖書に土台を置いているのです。

 最後に、聖書を愛した一人の人を紹介させていただきます。

◆例話◆
 1957年(昭和32年)2月10日の夜、名古屋から神戸に向かって進んでいたデンマークの貨物船マークス号が、日の岬・灯台の先、8キロメートルの海上で火災を起こして沈みかけている船を見つけました。マークス号は、直ちに近づいてロープを海に向かって投げました。その投げられたロープに寄りすがって一人の人が船によじ登ってきましたが、疲れ切っていたのでしょう、ロープから手を離して海に落ちてしまいました。

 そのときのことです。マークス号の機関長として最初の任務に就いていたクヌンセンさんは、激しく冷たい波の中にザンブと飛び込みました。その夜は、風が強く吹き、波は山のように荒れ狂っていました。その中で、彼は溺れる日本人を一人、二人、三人と救い上げましたが、最後の一人を救い上げたとき、クヌンセンさんは、ついに力が尽きて、そのまま激しい波の中に呑み込まれてしまいました。

 翌日、クヌンセンさんの死体は、日の岬の北側の海岸に打ち上げられて発見されました。しかし、岩に叩き付けられながら漂っていたのか、その姿は、見ることが出来ないほど傷だらけでした。

 けれども、彼のポケットの中には、一冊の小型聖書がしっかりと抱かれており、しかも、それは、読み古されてぼろぼろになっていたというのです。クヌンセンさんのお母さんは、熱心なクリスチャンで、彼が子どもの頃から、神を信じて敬うこと、人を愛することの大切さを教え込んでいたと言われています。クヌンセンさんの立派な行ないの陰には、聖書を愛し、聖書の教えに生きた、彼の信仰があったのです。■

主イエスさまは、
『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』(マタイの福音書4:4)と、仰いました。この場合、パンとは、物質と言ってもいいでしょう。人間は物質だけ豊かになっても、決して幸福にはなれません。大邸宅の中で、何不自由なく生活しながら、寂しい孤独な毎日を過ごしているお年寄りもいます。思いがけない大金が入ったために、平和な家庭が乱れ、親子喧嘩をしている人もいます。そのような家庭を見るに付け、しみじみ、「人はパンだけで生きるのではない」ことを知るのです。

 それならば、どうしたらよいのでしょうか。それは、神のことばである聖書を読み、これを心のパンとして食べて生きることです。また、冒頭のみことばにもありますように、聖書は、人生の羅針盤となり、正しい道を行かせてくれるのです。

詩篇119:105
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」
 聖書の学びには、次の三つのものが必要です。
(1)知識・HEAD
(2)経験・HEART
(3)実践・HAND
ここにいる私たちも、聖書を愛読し、知識を得たいと思います。知識にとどまらないで、さらに実践し、聖書の御言に生きる人になりたいと思います。実践するといっても、イエスさまを救い主として信じて、生まれ変わることがなくてはできません。生まれ変わって、イエスさまのいのちを頂くことによって、聖書のことばに生きる者となりたいと思います。

            お祈りを致しましょう。


「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」詩篇119:105


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