インマヌエル金沢キリスト教会 萩原雄介牧師のブログ

人生の課題を共有し、聖書のことばから神の恵みを分かち合い、より豊かな人生を過ごすために、聖書から豊かな語りかけを頂きましょう。

イサクの生涯(1)〜(11)

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  イサクの生涯(9) 「イサクの失敗と祝福」   (創世記二十六章一〜十一)

 神さまの祝福を頂く前に、私たちは、しばしば試みに遭い失敗をする事があります。しかし、失敗したことに対して、どのように対応したかによって祝福の大きさも違うように思います。アブラハムは、先ず、飢饉のためにエジプトへ逃れたとき、妻のサライを自分の妹であると偽りました。二回目の時は、ゲラルの王アビメレクに対して、同じ偽りを言って失敗してしまいました。イサクもまた、妻のリベカを妹であると、ゲラルの王アビメレクに対して偽ってしまいました。飢饉のためとは言え、イサクがゲラルに行かなかったなら、イサクは偽らなくて良かったに違いありません。アブラハムもイサクも、そのような土地柄で、同じ問題にぶつかったのです。イサクがリベカを妹であると偽った理由は、「リベカが美しかった」からでした。

 私たち人間は、何かと言うとすぐに小細工をしたくなるものではないかと思います。私たちは神さまがそうしなさいと仰る前に何かをしないと落ちつかないのです。そして何かをしては、失敗をするのです。その失敗も、リベカが美しかったので、土地の人々が、自分を殺しはしないかと思ったからだったのです。しかし、どうでしょうか、イサクの場合、偽りを言ったことによって、彼ら夫婦が救われなかったことは、注目したいと思います。

 むしろ、興味深いことは、彼らが夫婦であったと言う事実が、彼ら夫婦を救ったと言うことであります。いつでも、真実が勝利を得るのではないでしょうか。人間の技巧や人為的な小細工は、決して人を救うものではありません。彼ら夫婦をペリシテ人から救いだしたのは、真実そのものでありましたが、真実を用いて勝利を与えられたお方は、神さまご自身です。さて、このイサクの失敗の直後に、神さまご自身がイサクを祝福して下さいました。イサクは、農作物ばかりでなく、牧畜の面においても、あらゆる面において神さまの祝福を頂きました。なぜ神さまは、このような失敗をしてしまったイサクに百倍もの祝福を与えられたのでしょうか。

(一)一つは、この世の中の代表でもある「エジプトには下るな」(二節)と言われた神さまのお言葉のままに、お従いしたからでした。人間的に見て、どんなに豊かであり、どんなに安全に見えても、神さまの御心でなければ、本当の祝福はないのです。
(二)もう一つは、「わたしがあなたに示す地に住みなさい。」(二節)とのお言葉に従って、主の示される地に留まったと言うことであります。私たちにとりまして、主が示される地、主の御心の地が最善の地なのです。なぜならば、主が示される地とは、主が共におられる地だからです。「わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。」(三節)と言っておられるとおりであります。
(三)更にもう一つ、自分の失敗を素直に、ありのまま認めて神さまのお取扱いに、お従した「その地」(十二節)とあるように、イサクが「彼女のことで殺されはしないかと思ったからです。」(九節後半)と、過去の失敗と、その時の動機を素直に認め、神さまのお取扱いにお従いしたと言うその場所、そのお取扱いの経験そのものを受け入れたからではないでしょうか。

 さて、五節を見ますと、このイサクの祝福の根本が、父アブラハムが神さまの声に聴き従っていたからであるとありますが、何と飛躍した恵みでありましょうか。イサクに何か取り柄があった訳ではないのです。ただ父親のアブラハムの、神さまに対する信仰の姿勢の故にであります。

 ここで一人の人物を思い起こしませんでしょうか。それはヨナタンの子、サウル王の孫のメフィボシェテのことであります。彼は、父のヨナタンと祖父のサウルとの悲報を知らされたとき五才でした。乳母が彼を抱いて逃げようとしましたが、余りに急いだ為に、彼を落としてしまい、そのために一生涯、足が不自由な身になってしまいました(第二サムエル四の四)。後にダビデがイスラエルの王になったとき、メフィボシェテには、サウルからの王位を継ぐ野心はなく、身を隠していたのです。しかし、ダビデは、彼の父ヨナタンの故に、彼を宮廷に呼び寄せて、サウルの財産を返し、いつでも王の食卓で、食事ができるようにしたのです(第二サムエル九章)。
 このダビデの心は、私たちの父なる神さまの心そのものではないでしょうか。ダビデは、少年の時に、羊飼いという経験があったためでしょうか。一族の人々や部下に対して、非常に心配りの行き届いた人物のように思われます(第一サムエル三十の二四「戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。共に同じく分け合わなければならない。」)。

 まさに、ダビデがメフィボシェテをその父親のヨナタンとの友情の故に特別に扱われたように、神さまは、アブラハムの故にイサクを扱われて祝福されたのです。現代の私たちは、神さまご自身の独り子イエス キリストの故に、神さまによって罪を赦して頂けたばかりではなく、神さまは私たちを特別扱いして下さり、霊の祝宴に与らせて下さるのです。

 一方、このような失敗を通して、イサクも、アブラハムと同じように、自分の弱さ、罪深さを自覚させられたのではないでしょうか。ここでも、アブラハムの時と同じように、神さまご自身が、危機的な状況の中にご介入して下さいましたので、ゲラルの王アビメレクは、リベカがイサクの妻であることを知ったのです。飢饉という状況の中、エジプトにまでは行かなかったのですが、世の中の神さまを知らない人々の影響の強いゲラル(今のカザの東およそ二十−三十キロ カナンの南部)に、一時的であれ、移住した所で、妻を妹ですと言う失敗をしてしまったのでした。しかし同時に「その地」は、先ほど祝福された理由の三つ目として申し上げましたように、自分の失敗を素直に、ありのまま認めて、神さまのお取扱いにお従いした「その地」でもあるのです。イサクが種を蒔いた「その地」(十二節)とは、イサクが「彼女のことで殺されはしないかと思ったからです。」(九節後半)と言っているように、過去の失敗と、その時の動機を素直に認め、神さまのお取扱いにお従いしたと言うその場所でした。「そのお取扱いの経験そのもの」を指しているといっても過言ではないのではないでしょうか。

そのような中で、イサクは、やっと手にいれた僅かばかりの種でありましたが、「その地」に蒔いたのです。イサクのように、失敗をしても罪でありますなら悔い改めて、間違いをしてしまったり、失敗をしてしまいましたなら、神さまの前に砕いて頂きまして、充分に扱われて神さまに整えて頂いたとしますならば、その経験そのものが、私たちにとって、「その地」なのではないでしょうか。「その地に種を蒔く」とは、そのような経験を経た後に、そのような苦い経験が、地の下ごしらえとなって、お預かりしたものをもう一度、神さまにお返しし神さまの手にお渡しし委ねることこそ祝福の鍵であることを教えていないでしょうか。神さまから頂いたものであっても自分の手の中に握りしめ続けていたとしたならば、一握りの種のままでしょう。手放して初めて、神さまは祝福して下さいます。自分の失敗を認め、扱われた「その地(経験)」を謙虚に受容する時に初めて「神がすべてのことを働かせて益として下さる」のではないでしょうか(ローマ八の二十八)。

  イサクの生涯(11) 「父イサクによる偏愛」   (創世記二十七章二十六ー四十六)
 
 父のアブラハムは、創世記二十四章に記されてありますように、約束の世継ぎであるイサクの結婚に大きな関心をもっていたのです。しかし、息子のイサクはどうであったでしょうか。イサクはその若い時の態度からは想像できないほど、おいぼれてしまったというのでしょうか。考えられないような失敗をしてしまいました。自分は、長男のエサウを祝福しようと思い、妻のリベカの策略で、双子の兄弟の弟のほうのヤコブを祝福してしまったのです。しかしヤコブを祝福したことこそ、神さまの御心にかなっていたことだったのです。なぜならば、神さまは、二人が生まれる前から、「兄が弟に仕える」(創世記二五の二十三)と言っておられたからです。

 ヤコブは四十才近くになっていましたが、まだ結婚していませんでした。しかし、イサクはヤコブの結婚については、何一つ心を向けることはなかったのです。この事は、神さまはヤコブを後継ぎに選んでおられたにも拘らず、イサクは、エサウを後継ぎであると考えていたからかもしれません。ですから、イサクは、長い間、エサウを偏愛していたようです。イサクは野の鹿の肉が大好物でした。エサウが捕ってきた鹿の肉は、ことのほか好きでした。ここで、イサクの場合を考えてみますと、霊的な事柄が霊的な事柄として考えられているのではなく、霊的な事柄の中に、自分の好みや考えや偏愛の心が入っており、神さまの御心というよりも、どちらかといえば肉的な事柄、世的な事柄に傾いていたのです。しかも、イサクはこの重大な祝福を、妻のリベカと相談もせずに、こっそり行おうとしていることにお気づきでしょう。そのため返ってリベカに察知されてしまって、エサウへの祝福は、ヤコブへの祝福にすり替えられてしまうのです。この事から、イサクとリベカ夫妻の間には信仰の一致がなく、心の交わりすらなかったのかも知れません。これはとても悲しいことでありました。この夫婦の不一致と偏愛が、エサウとヤコブの兄弟喧嘩を引き起こす原因ともなったのでした。イサクは、エサウが異教徒の娘と結婚した段階で、心を痛め、エサウを祝福の相続者にしてはいけないことに気がつくべきでした。しかし、イサクが間違った判断に陥ったことは、彼の偏愛が原因でした。既に神さまがヤコブを祝福の相続者として選んでおられたにも拘らず、それに抵抗して、エサウを祝福しようと決心したからであります。恐らくこの時のイサクの信仰は、以前と比べて弱くなっていたのかも知れません。

現代の私たちも、生身を持っていますから、試みが長く続けば続くほど、精神的にも体力的にも弱くなっているときがあります。そんなとき同じように間違った判断と決定をしてしまうことがないとは言えません。その判断や決定が、神さまの御心から全くはずれていることがあり得ることを私たちは忘れてはならないと思います。

 さて、一方妻のリベカに関してはいかがでしたでしょうか。リベカはリベカで、弟のヤコブを偏愛していたのでした。イサクがエサウを祝福しようとしていることを盗み聞きしたリベカは、自分の手で事態を収拾しないとヤコブに対する神さまのご計画(創世記二十五の二十三)が行われなくなってしまうと焦ったのでしょうか。思い切った策略を考えだしたのでした。リベカが夫イサクを欺こうとしたのです。「あなたの呪いは私が受けます。」(十三節)という母リベカの母性本能に、母性愛に、ヤコブはまいってしまったのです。母の悪知恵と自信に充ちた計画によって、ヤコブは変装してエサウになりすましたのです。

 リベカは、三つの方法によって、イサクを欺こうとしました。
第一には、触覚です。リベカは、子山羊の毛皮をヤコブの手と首の柔らかいところにかぶせて毛深いエサウに似せようとしました(二十一節)。
第二は、味覚であります。リベカは、イサクが好むおいしい料理をこしらえました(二十五節)。
第三は、嗅覚です。臭覚です。リベカは、手元にあったエサウの臭いのついた晴れ着をヤコブに着せて、ごまかしたのです。二十七節にイサクは着物の香りをかいだことが記されています。恐らくエサウの好みの香りが、それにしみこませてあったのかも知れません。

 リベカの策略は、まんまと成功したのです。イサクは既に目が不自由になっていて視覚を失っていました。触覚と味覚と嗅覚さえ欺かれてしまったほど、老いぼれてしまいました。残る一つは聴覚です。耳です。イサクは、「声はヤコブの声だ。」と聞き分けることが出来ました。聴覚だけは欺かれませんでした。しかし風邪でも引いたために声変わりをしたとでも思いこんだのでしょうか。

 二十三節によりますと、ヤコブの手がエサウの手のように、毛深かったためにイサクには見分けがつかなかったと記されてあります。イサクは、せっかく耳の聴覚は良かったのですが、目がかすんで見えなかったために、ヤコブが変装していたことを見分けられずに、残されていた触覚によって、ヤコブをエサウであると判断してしまったのです。イサクは、どうもおかしいなと感じながらも、ヤコブを祝福してしまったのです(二十四節「ほんとうにおまえは、わが子エサウだね。」「私です。」)。

 このようにして、ヤコブは父のイサクから祝福を奪ってしまいました。私たちから見れば、エサウは黙っていないで、直ちに奪い返せば言いじゃないかと考えてしまいますが、当時の祝福の重みや、しかもお父さんがだいぶ弱っている状況からしても、それは出来なかったのでしょうか。三十三節にも記されていますように、この祝福は有効なのです。後にヨシュアの時代に、イスラエルがカナンに進入したとき、ギブオンの民は、イスラエルの人々のすぐ近くに住んでいるのに、ぼろぼろの服を着たりして、自分達が遠くに住んでいて、遠くから旅をしてきたかのように装って偽り、イスラエルと不可侵の契約を結んだことがありました。ほどなくして彼らの偽りが明らかになったときも、神さまの前の誓い、神さまの前の契約は、有効であると考えられたのです(ヨシュア九の三−二十)。

ヤコブは卑劣な手段を用いて、長子の特権と祝福を奪ってしまいました。とにかくリベカやヤコブは、神さまが約束(二十五の二十三)を実行されるのを静かに待つという、あのアブラハムの忍耐と神への信頼を持ってはいませんでした。ヤコブが神さまの祝福に与れると言うのは、神さまの御心なのですから、「その時」がくるまで待てば良かったのです。待てずに小細工をしたために、エサウとの間が、嫌悪な状態になって、遠回りをしてしまったのです。欺きによって祝福を手にいれた結果、ヤコブには欺きに伴う諸々の罪の報いが、彼の旅路につきまとうようになってしまったのでしょう。その時のヤコブも母のリベカも、神さまの祝福は、純粋に信仰だけ、神への信頼だけで、手に入れるべきであるということが分かっていなかったのだと思います。

 結果的にヤコブが祝福されたことは、神さまの御心であったことは間違いがありませんでした(二十五の二十三)。そうならば、神さまの方法で、神さまの御心の時に、神さまの御心そのものがなされることを、神さまを信頼して待つということが、どうして出来なかったのでしょうか。四十一節に「あの祝福」とエサウが叫んでいますように、神さまの「祝福」の重みを教えられないでしょうか。神さまから頂く祝福といいますものは、「あの祝福」と言わざるを得ないほど、つまり他の何物ともすり替えられてはならないほどの、そのような性質を帯びていると思います。

 ある意味では、神さまの祝福は、一人一人に対して、平等に豊かなのですが、しかし、世的で肉的で、自己中心的な心で、神さまを退けてばかりいる人たちに対しては、それだけ祝福も減少してしまうのではないでしょうか。私たちが真実に聖前に歩み続けておりますならば、確かに神さまは、「あの祝福」で満たすことをためらわないお方であります。

      イサクの生涯(10) 「イサクの柔和」   (創世記二十六の十二−三十五)

 先にも申し上げましたが、イサクが百倍の祝福を頂いたのを知ったペリシテ人が、妬んで、お父さんのアブラハムが掘った井戸を土で塞いで、使えなくしてしまったのでした。それだけでは気がすまなくて、「あなたは、われわれよりはるかに強くなったから、われわれのところから出て行ってくれ。」といって、追い出しにかかりました。その土地の人々は、当時の王(創世記二十一の二十二−三十)がアブラハムとの間に立てた契約を無視したのでした。イサクは一つも言い訳をせず、そこを去って、ゲラルはゲラルでも、谷間の方に移動して、天幕を張って住んだのです。イサクは主張すべきものを持っていましたが、彼は争いを好まない人でした。井戸を掘ることが決して容易ではなかった時代です。このようなときに、こんなにも易々と譲歩できたイサクは、まさしく「信仰の人」であるといってよいでしょう。あの人は信仰の人であるということばを聞くとき、強引と思われるほど積極的に何かを押し進めていく人であると思いがちです。勿論そうしなければならないときがあります。しかし、そればかりではありません。そ
れと信仰とを混同してはならないと思います。神さまが行けと仰らないのに行くことが、どうして信仰的であると言えますでしょうか。神さまが、そのようにしなさいと仰らないのに、自分がそのようにしたいからといって、強引に何かを押し進めようとしますならば、その人は信仰的な人なのでしょうか。信仰とは、一つのことが御心であると分かったときに初めて、御心に従い、御心を行うために主を全く信頼して、全力を注いで、努力し、結果を神さまにお委ねする事であります。そうすることが御心であるかどうかを祈り深く確かめないで、強引に何かを進めて行ったからといって、どうして信仰的なのでしょう。寧ろ、神さまが、とどまりなさいと仰られるとき、出て行かないで、とどまり続けること、これこそ、神さまへの信頼の意志表示であり、信仰ではないでしょうか。神さまが、あなたが願っていることは、わたしの願っていることとは違いますから、してはいけませんと言われますならば、自分の願いを引き下げて、しないことが、神さまの御心であり、御心に従ってなにもしないことが、神さまを信頼していることの意志表示ですから、信仰的であるといえますでしょう。行きたいときに行かないということには、勇気がいります。したいと思うときに、神さまの御心とは違うからといって、しないことは、やはり、勇気が必要です。いずれにしても、神さまの御心に従うことを楽しむものでありたいものですね(詩篇四十の八)。

 平和を願うイサクは、譲歩することによって祝福を頂きました。神さまは、神さまにお従いする人を通して豊かに力強く働かれます。何度も井戸を奪われ苦渋をなめながら、イサクはひたすらに、主に信頼して、祝福を頂いたのです。そのような苦い経験をアビメレクから受けていたのですが、イサクと契約を結ぶ方が今後得策であると考えたアビメレクとの契約に応じたのです。迫害しても迫害しても、イサクは譲歩に譲歩を重ね、その度ごとに神さまがイサクを祝福されるのを見て、アビメレクは、イサクとイサクが信じている神さまを畏れたのです。アビメレクは、イサクを憎んで追い出したのに、今度は、「私たちがあなた方に手出しをせず、良いことだけをして、」(二十九節)と言っています。これが今になって言う迫害者のことばなのです。アビメレクが王であり、軍隊をもっていたことを考えますと、どんなに豊かになったとは言え、一人の寄留者(定着せず、放牧のために、折々、あちこちに牧畜のための草を求めて移動する生活をしている人々)にすぎないイサクと、このような平和条約を結ぶことは、考えられないことではないでしょうか。

さて、今日の聖書の個所から、三つ四つの大切な語り掛けを頂きたいと思います。
(一)先ず一つには、イサクは自分自身で苦労して祝福の泉を掘り直す必要があったということです。お父さんと父なる神さまとの間の、子々孫々に至るまでの祝福を与えようとの契約は、神さまとイサクとの間においても、有効でしたが、ただ機械的に自動的に引き継がれるものではなく、「ふさわしさ」が必要であることを意味していないでしょうか。

(二)二つ目に教えられますことは、井戸に父がつけたのと同じ名前をつけたという点です。イサクは、そのように労苦して掘り直した井戸であったにも拘らず、イサクはその井戸に、父がつけたのと同じ名前をつけました。ここにイサクの信仰と謙遜を見ることが出来るように思います(十七−十九節)。

 そもそも掘った井戸に名前をつけるということから考えますと、一つの井戸を掘るということは、大事業だったことを意味しています。その井戸には、自分が考え出した新しい名前をつけたいと思う人たちが少なくないのではないかと思います。思い上がってしまって自分の力を過信してしまう人たちがいるかもしれません。しかし、イサクは違いました。お父さんがつけた名前と同じ名前をそれらの井戸につけたのです。私たち人間は、時として、先輩のしたことを否定して何か新しいことをしようとする傾向があるかもしれません。そのことによって自分達の独自性を主張しようと焦るのです。ここには謙遜さが欠けている場合があるかもしれないのです。

 私たちがなすべきことは、信仰の先達者たちが見いだしたものを継承して、それを先ず自分自身のものにすることです。「同じ名をそれらにつけた。」とは、そういうことを意味していないでしょうか。そして、その土台の上に立って、更に「新しい主の恵み」を求めたいものではないでしょうか。後継者としてのあるべき姿を、見せて頂いた思いです。

(三)三つ目には、イサクが礼拝者としての立場をとったと言う点です。その時から、イサクの魂は元気が出て、他の人々に影響を与えるために神さまによって用いられました。神を礼拝する生活から遠ざかれば遠ざかるほど、私たちは、自分自身から祝福を捨て去っていることになるのではないでしょうか。私たちの証しと奉仕は失敗しているのです。私たちが困難な立場に立たされたり、間違ったところにいるのではないかと思うとき、とにかく私たちは、神さまを礼拝するという立場をとりはじめることが、大切ではないでしょうか。この霊的な営みを後回しにして、何かを計画しては、祝福して下さいと祈り求めても、虫が良すぎるよと神さまから言われそうです。

(四)最後に、迫害を続けていたアビメレクのほうから和解を求めてきたとき、受け入れたと言う点です。それだけではなく、丁重すぎると思われるほど親切にもてなし、翌朝、契約を結んだのです。ここで大切なことは、三十二節の、しもべたちの報告です。「ちょうどその日・・・」イサクのしもべたちは井戸を掘り当てて、しかも豊かに水が湧く井戸であることを発見したのです。その井戸を「豊かな」「多くの」と言う意味の「シブア」と名付けました。

 ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元通りにして下さり、持ち物は二倍になったと記されていますように(ヨブ記四十二の十)、イサクが迫害する者を受け入れ、もてなし、平和条約を結んだ「ちょうどその日」に、水の豊かな井戸を掘り当てたと言う報告が、しもべたちによってもたらされたことは、偶然でしょうか。

 私たちもこのイサクのように、信仰者として当たり前の心の営みを、それこそ柔和と言うイエス・キリストの品徳を、日々の生活の中で自らのものとするため、心と生活の中に井戸を自らの手で掘り続けられるように神さまの恵みに与りたいものではないでしょうか。

  イサクの生涯(8) 「祝福の享受」    (創世記二十五章全体)

 世代の交代ということが、あらゆる分野で言われたり、実際になされたりしています。
この聖書の個所には世代の交代と申しましょうか、アブラハムと神さまとの契約が更新されて、イサクにも有効となった出来事が記されています。アブラハムも、百七十五才になっていました。アブラハムは死の近いことを悟ったのか、自分が死んだ後、争いが起きないようにという配慮をしたのです(五−六節)。それは、この事に先立って、アブラハムは、サラの死後(創世記二十三の二)、もう一人の妻ケトラをめとり、子どもが幾人か与えられていたからです。更にハガルの子イシュマエルにも、幾人かの子どもがありました。イサクに子どもが与えられる前に、アブラハムには、既に幾人かの孫までいたのです。

 先ず、アブラハムは、「自分の財産をイサクに与えた。」のです(五節)。アブラハムが、イサクに「全財産」を与えましたのは、アブラハムの個人的な都合によるのではありませんでした。アブラハムが所有していた財産は、主の契約の故に、主から与えられたものであります。ですから、アブラハムは、契約の継承者であるイサクに、その全財産を与えたと言うわけであります。

もう一つアブラハムがしたことは、先ほど申し上げましたそばめ達の子ども達に対して、贈り物を与えることによって、彼らを東の方に行かせ「自分の子イサクから遠ざけた。」ということです。イサクこそ「自分の子」なのです。それ意外は、聖書のこの個所に「ケトラの子孫」(四節)であり、「イシュマエルの子孫」(十六節)であるという表現で記されてありますことは、神さまの意識の中にあったことなのではないでしょうか。アブラハムは、そばめの子ども達が、それなりに、生きて行くことが出来るように配慮をしてやりながら、契約の子イサクとの間に、混乱がないようにと、彼らを遠ざけたのであります。

 しかし、どうでしょうか。イザヤ六十の六を見ますと、やがてケトラの子孫であるミデヤンやシェバがイスラエルに帰ってきて「主の奇しいみわざを宣べ伝える」と記されています。イスラエルに対する主の契約から引き離されていた民が、やがて再び、主の救いに与るようになるというのですから、素晴らしいではありませんか。神さまの愛と憐れみは尽きることがありません。これは預言であり、キリストの福音によって成就したのです。

 このように、一人の神さまを魂の共通の父として仰ぐことが出来るという不思議さに心踊る思いになることはないでしょうか。礼拝に来て、隣に座っておられる方々とは、血のつながりもないのに、一人の神さまを魂の救い主として信じて礼拝していることに、ふと不思議さと喜びを感じることがあります。同じ信仰の故に、知り合いになっていたり、ある方々は、結婚しておられたり、今では当たり前になっている一つ一つのことが、なにか不思議でたまらないような思いにかられるということはなかったでしょうか。

 さて、この後、「アブラハムの死後、神は彼の子イサクを祝福された。」(創世記二十五の十一)とは、意味深いものを感じます。両親の死後、その子どもが、一社会人として、さらに信仰という側面からどのようになっていくかということは、神さまにとっては、一大関心事なのではないでしょうか。私たちが、子々孫々に信仰をどのように伝えているかという課題ではないかと思います。

 「アブラハムの死後、神は、彼の子イサクを祝福された。」(十一節)とは、何を意味しているでしょうか。
(1)アブラハムは死んで葬られたけれども、アブラハムの神さまは、死なず、今も生きておられ、その契約は生き続けているという事であります。アブラハムが生きているときも、神さまはイサクを祝福されたでしょう。しかし、アブラハムが死ぬと、神さまは、イサクを契約の当事者として、イサクの上に以前にも増して、祝福を注がれたのであります。

(2)イサクにとって、父親の「アブラハムの死後、神は彼の子イサクを祝福された。」とは、人間の主観が入らずに、イサクを神さまが直接に評価して下さった事を意味してはいないでしょうか。単なる親の七光だけでは、このような祝福を受ける事は出来ないと思います。私たちも、信仰の遺産を正しく継承したいと思います。信仰のよき先輩や素晴らしい信仰の持ち主の両親が元気な間も、何年かして亡くなられた後も、霊的な輝きを失わず、人格的な魅力を増していくとしますならば、それこそ、信仰の継承が、正しくなされた事の現れでもあるように思います。単なる親の七光でも何でもないでしょう。その輝きは、その人自身の輝きであります。

 イサクの生涯に問題や課題がなかった訳ではありませんでした。失敗がなかった訳でもありませんでした。勿論、試練がなかった訳でもありません。しかし、イサクは、神さまと父アブラハムとの契約に基づく恵みと祝福とを充分に享受しているのです。

 この個所からのメッセージの中心は、新約の私たちクリスチャンが、イエスさまを通して、父なる神さまによって備えられた救いの恵みを初めとして、あらゆる恵みと祝福を享受する事が許されているという事実、それと共に私たちは勿論の事ですが、一人でも多くの人々に今も用意されている救いの恵みをそのまま受け入れてほしいという事であります。

アブラハムの死後も、引き続き、神さまの祝福を頂いているイサクも、事、日常生活ともなりますと、そんなに簡単ではありませんでした。四十才(二十節)で結婚してから、双子の子どもが生まれるまで(二十六節・六十才)、二十年間待ったのです。
 この二十年間、二人は、きっと心が沈みがちになった事も何度かあったと思います。あきらめかけた事も、何回かあったでしょう。しかも、イサクは不妊の妻リベカの為に、しばしば神さまに祈ったことでしょうね(二十一節)。勿論、リベカも、主の御心を求めて神さまの聖前に出たことでしょう(二十二節)。

 約束の子イサクも、父のアブラハムと同じ試練、同じ信仰の試みを経験しなければなりませんでした。このように、親の信仰が練られた信仰にまで、高められていたとしても、子どもは、高められた父親の、そのままの信仰のレベルからスタートできる訳には行かないのです。信仰の継承、祝福の継承とは言え、自動的に親から子に継承されるのではないのです。形や程度の違いこそあれ、実に親が経験した信仰の試練を経験し、ある時には、親と同じ失敗をしてしまったり、さまざまな困難を経験してやっと、親に与えられた祝福を受け継ぐのに「ふさわしく」整えられて行くのではないでしょうか。たとい親子であったとしても、神さまの前には、一人一人が、試練を通して扱われなければならないのではないかと思います。
 
結婚してから双子が生まれるまで、二十年間は、イサクとリベカにとって、神さまが沈黙しておられた長い長い期間だったでしょう。イサクも妻のリベカのために祈りました。そしてその祈りは応えられて、リベカは身ごもったのです(二十一節)。リベカも祈って主の御心を求めました。そこで、リベカは神さまの応えを聞いたのです。それが実際に肉の耳で聞き取れる声であったのか、心の中に語られた声であったのか、あるいは夢によってなのか、幻によってなのか、それは分かりませんが神の声を確かにリベカは聞いたのです。主の応えがありました。「二つの国があなたの胎内にある」と(二十三節)。こうしてエサウとヤコブの双子が誕生するのです。祝福の享受、その条件は一言で、私たち一人一人の「聖前のふさわしさ」ではないでしょうか。

  イサクの生涯(7) 「イサクの結婚 」 (創世記二十四章全体)
 
 イサクと父アブラハムとは、モリヤの山での試みに、見事パスしました。イサクは、信仰の父の背中を見て、育ったからではないでしょうか。父のアブラハムも年が進んで、かなりの年令に達しましたので、息子イサクの結婚のことを考えなければならなくなりました。このとき、イサクは何才ぐらいだったでしょうか。イサクが生まれたのは、父が百才の時、母が九十才のときでした(創世記十七の十七)。今は、百二十七才の母をなくして傷心のイサクです(創世記二十三の一)。その時、彼は、少なくても三十七才には達していました。父アブラハムに残されていた大切な仕事は、約束の世継ぎイサクのためにふさわしい伴侶者を見つけるということでした。

イサクの妻となる女性がその子孫に与える影響は、重大なものでした。そこで、父のアブラハムは、嫁探しという大任を「家の最年長のしもべ」に委ねたのです。このしもべは、もしかしたら、「ダマスコのエリエゼル」(十五の二)ではないかと思われます。では何故このしもべが選ばれたのでしょうか。
 一つには、彼が信頼できる忠実なしもべだったからです。そのことは、アブラハムが彼に全財産を管理させていたことからも分かります。もう一つは、彼が人生経験の豊かなしもべだったからです。彼は、しもべの中で「最年長者」であり、女性についても結婚についても、良く知っていたからです。

 祝福される結婚の原則は何でしょうか。
 一つは、主がかかわって下さる結婚であるということです。それは、アブラハムが、しもべに、「主にかけて誓わせ」ていることから分かります(三節)。アブラハムは、イサクの結婚のことをしもべに任せていますが、彼は結局、この結婚にかかわって下さる主ご自身に委ねているのです。
 二つ目は、主を信じる者との結婚であるということであります。アブラハムは、イサクの妻となるべき女性は、カナン人の娘であってはなららない、と言っています。それは、たといどんなに美しく能力があったとしても、カナン人の娘は真の主である神さまを信じていないので、アブラハムの約束を受け継ぐ子孫を産むのにはふさわしくないのです。彼は「私の生まれ故郷に行き」(四節)真の神さまを信じている娘の中から、イサクの妻を迎えるように指示しているのです。結婚は、自分の都合で自分のためにするのではなく、神さまは結婚を通してご自身のご計画を進めようとしておられるのではないでしょうか。ですから信仰者にとっては主を信じる者との結婚が主のみこころにかなうことなのです。
 もう一つの原則は、約束の地を受け継ぐ結婚であることです。「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。」と指示を与えているのです(六節)。イサクの結婚は約束の地を受け継ぐという使命をもった結婚であったのです。信仰の遺産だけは、正しく継承したいものですね。
 しかも神さまの祝福を受ける結婚は主ご自身が導いて下さる結婚です。アブラハムは、生まれ故郷を出て以来、主の導きを体験し続けてきたのです。主の導きの中に生きてきたのです。神さまの御声に聴き、主の聖言を握って従い続けてきたのです。そうするとき、主は結婚の原則を示されるだけでなく、具体的に一歩一歩導いて下さいます。しばしば、信仰者本人の未信者の両親や知人から、お見合いの話をもってこられることがあり、試みを受けることがあるでしょう。こんな時、私たちは早まった結論を出さずに、祈りをもって、紹介して下さった方に対して愛と感謝の気持ちを込めて礼儀正しく丁重にお断りしなければならいなことがあります。このようなことは、何も結婚問題だけではなく、私たち信仰者が、具体的な日常の問題に関して神さまの導きを仰ぐときにも同じことが言えるのではないでしょうか。

 このしもべは、アブラハムの故郷の町の一つナホルの町に着いたとき、その町の外にある井戸の傍らで、神さまの導きを仰いで祈ったのです(十二−十四節)。神さまがイサクのために定めておられた婦人に今日、会わせて下さいと祈り、その婦人であることのしるしとして、未知の旅人である自分に水を飲ませてくれる人、そればかりでなく、駱駝にまでも飲ませてくれる人を導いて下さいと祈っているのです。イサクの伴侶者として神さまが定めておられる人であることのしるしとして掲げたこの老家令の標準は、ある意味でイエスさまの標準と同じではないでしょうか。

「あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。」(マタイ五の四十一)とイエスさまは言っておられます(一ミリオンは、約一五〇〇メートル)。実に信仰には、旧約も新約もないように思われます。この点に関しては旧約時代の聖徒も新約時代の聖徒も同じ標準で歩んでいるように思われます。

 この年老いたしもべが祈り終える前に、神さまはイサクの伴侶者としてみこころの婦人をこの井戸の近くに導かれたのでした。この婦人は「非常に美しかった」(十六節)と記されています。容姿も確かに美しかったことでしょう。しかし、長年アブラハムに仕えてきていた信仰の篤い老人の目に映る美しさは、決して外貌ではありませんでした。隠れた内にあるものの美しさでした。外の美しさは、この内の美しさが外に現れたものにすぎません。「髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものをもつ、心の中の隠れた人がらを飾りにし」(第一ペテロ三の三−四)、「良い行いを自分の飾りとし」(第一テモテ二の十)ていたに違いありません。

この井戸の傍らでの娘リベカとしもべとのやり取りを見ますと、彼女は、良く仕事をし親切な娘さんであり、駱駝(らくだ)にも気配りが出来る良く気がつく娘さんです。相手の必要を敏感に察知し、夫を幸せに出来る人でありますでしょうし、十頭の駱駝(らくだ)のために何十回も井戸に水を汲みに行った忍耐強い娘さんです。彼女はくすしくもアブラハムの親戚だったのです。
しもべの祈り深い言動に、リベカの兄のラバンと父のベトエルとは、「このことは主から出たことですから、私たちはあなたによしあしを言うことはできません。」と言って承諾したのです。しかし、やはり別れは誰にとっても辛いことですね。兄と父とは、あと十日間とどめておきたかったのです。しかし、しもべは、主がこの旅を成功させて下さったのだから、早く主人のアブラハムにこの良い知らせを報告したいと頼んだのです。彼ら兄と父とは、リベカに「この人といっしょに行くか。」と確認したところ、即座に「はい、まいります。」との答が返ってきました。まだ見たことも会ったこともない人との結婚を決意するには、主が導いて下さったとの信仰によるうなずきが必要だったでしょうね。まさに「見ずして信じる信仰」をここに見るような気がします。当然、気持ちからすれば、彼女をとどめておきたかったでしょう兄と父とは、リベカを祝福して送りだしたのですから、彼らの信仰も見上げたものです(六十−六十一節)。人間ですから、情的には、いつまでもとどめておきたかったでしょう。しかも、リベカは家畜を世話するための労働力としても必要だったでしょうが、彼らは、彼女を私物化しなかったのです。神さまからお預かりし、神さまにお返ししたのです。

 当時ネゲブの地方に住んでいたイサクとリベカとの出会いは、ある夕暮れ時、野原でのことでした(六十二−六十七節)。イサクは初対面のリベカを拒んで送り返すことなど考えてもいませんでした。父の信頼するしもべの判断は、イサクにとって父の信じる神さまご自身の判断だったのです。だからこそ、母の亡きあと、妻のリベカによって大きな慰めを得ることが出来たのではなかったでしょうか。この時、イサクはすでに、丁度四十才になっていたのです(創世記二十五の二十)。私たちも課題は何であれ神さまのご判断と導きと決定に委ねる者でありましょう。

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