|
イサクの生涯(9) 「イサクの失敗と祝福」 (創世記二十六章一〜十一)
神さまの祝福を頂く前に、私たちは、しばしば試みに遭い失敗をする事があります。しかし、失敗したことに対して、どのように対応したかによって祝福の大きさも違うように思います。アブラハムは、先ず、飢饉のためにエジプトへ逃れたとき、妻のサライを自分の妹であると偽りました。二回目の時は、ゲラルの王アビメレクに対して、同じ偽りを言って失敗してしまいました。イサクもまた、妻のリベカを妹であると、ゲラルの王アビメレクに対して偽ってしまいました。飢饉のためとは言え、イサクがゲラルに行かなかったなら、イサクは偽らなくて良かったに違いありません。アブラハムもイサクも、そのような土地柄で、同じ問題にぶつかったのです。イサクがリベカを妹であると偽った理由は、「リベカが美しかった」からでした。
私たち人間は、何かと言うとすぐに小細工をしたくなるものではないかと思います。私たちは神さまがそうしなさいと仰る前に何かをしないと落ちつかないのです。そして何かをしては、失敗をするのです。その失敗も、リベカが美しかったので、土地の人々が、自分を殺しはしないかと思ったからだったのです。しかし、どうでしょうか、イサクの場合、偽りを言ったことによって、彼ら夫婦が救われなかったことは、注目したいと思います。
むしろ、興味深いことは、彼らが夫婦であったと言う事実が、彼ら夫婦を救ったと言うことであります。いつでも、真実が勝利を得るのではないでしょうか。人間の技巧や人為的な小細工は、決して人を救うものではありません。彼ら夫婦をペリシテ人から救いだしたのは、真実そのものでありましたが、真実を用いて勝利を与えられたお方は、神さまご自身です。さて、このイサクの失敗の直後に、神さまご自身がイサクを祝福して下さいました。イサクは、農作物ばかりでなく、牧畜の面においても、あらゆる面において神さまの祝福を頂きました。なぜ神さまは、このような失敗をしてしまったイサクに百倍もの祝福を与えられたのでしょうか。
(一)一つは、この世の中の代表でもある「エジプトには下るな」(二節)と言われた神さまのお言葉のままに、お従いしたからでした。人間的に見て、どんなに豊かであり、どんなに安全に見えても、神さまの御心でなければ、本当の祝福はないのです。
(二)もう一つは、「わたしがあなたに示す地に住みなさい。」(二節)とのお言葉に従って、主の示される地に留まったと言うことであります。私たちにとりまして、主が示される地、主の御心の地が最善の地なのです。なぜならば、主が示される地とは、主が共におられる地だからです。「わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。」(三節)と言っておられるとおりであります。
(三)更にもう一つ、自分の失敗を素直に、ありのまま認めて神さまのお取扱いに、お従した「その地」(十二節)とあるように、イサクが「彼女のことで殺されはしないかと思ったからです。」(九節後半)と、過去の失敗と、その時の動機を素直に認め、神さまのお取扱いにお従いしたと言うその場所、そのお取扱いの経験そのものを受け入れたからではないでしょうか。
さて、五節を見ますと、このイサクの祝福の根本が、父アブラハムが神さまの声に聴き従っていたからであるとありますが、何と飛躍した恵みでありましょうか。イサクに何か取り柄があった訳ではないのです。ただ父親のアブラハムの、神さまに対する信仰の姿勢の故にであります。
ここで一人の人物を思い起こしませんでしょうか。それはヨナタンの子、サウル王の孫のメフィボシェテのことであります。彼は、父のヨナタンと祖父のサウルとの悲報を知らされたとき五才でした。乳母が彼を抱いて逃げようとしましたが、余りに急いだ為に、彼を落としてしまい、そのために一生涯、足が不自由な身になってしまいました(第二サムエル四の四)。後にダビデがイスラエルの王になったとき、メフィボシェテには、サウルからの王位を継ぐ野心はなく、身を隠していたのです。しかし、ダビデは、彼の父ヨナタンの故に、彼を宮廷に呼び寄せて、サウルの財産を返し、いつでも王の食卓で、食事ができるようにしたのです(第二サムエル九章)。
このダビデの心は、私たちの父なる神さまの心そのものではないでしょうか。ダビデは、少年の時に、羊飼いという経験があったためでしょうか。一族の人々や部下に対して、非常に心配りの行き届いた人物のように思われます(第一サムエル三十の二四「戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。共に同じく分け合わなければならない。」)。
まさに、ダビデがメフィボシェテをその父親のヨナタンとの友情の故に特別に扱われたように、神さまは、アブラハムの故にイサクを扱われて祝福されたのです。現代の私たちは、神さまご自身の独り子イエス キリストの故に、神さまによって罪を赦して頂けたばかりではなく、神さまは私たちを特別扱いして下さり、霊の祝宴に与らせて下さるのです。
一方、このような失敗を通して、イサクも、アブラハムと同じように、自分の弱さ、罪深さを自覚させられたのではないでしょうか。ここでも、アブラハムの時と同じように、神さまご自身が、危機的な状況の中にご介入して下さいましたので、ゲラルの王アビメレクは、リベカがイサクの妻であることを知ったのです。飢饉という状況の中、エジプトにまでは行かなかったのですが、世の中の神さまを知らない人々の影響の強いゲラル(今のカザの東およそ二十−三十キロ カナンの南部)に、一時的であれ、移住した所で、妻を妹ですと言う失敗をしてしまったのでした。しかし同時に「その地」は、先ほど祝福された理由の三つ目として申し上げましたように、自分の失敗を素直に、ありのまま認めて、神さまのお取扱いにお従いした「その地」でもあるのです。イサクが種を蒔いた「その地」(十二節)とは、イサクが「彼女のことで殺されはしないかと思ったからです。」(九節後半)と言っているように、過去の失敗と、その時の動機を素直に認め、神さまのお取扱いにお従いしたと言うその場所でした。「そのお取扱いの経験そのもの」を指しているといっても過言ではないのではないでしょうか。
そのような中で、イサクは、やっと手にいれた僅かばかりの種でありましたが、「その地」に蒔いたのです。イサクのように、失敗をしても罪でありますなら悔い改めて、間違いをしてしまったり、失敗をしてしまいましたなら、神さまの前に砕いて頂きまして、充分に扱われて神さまに整えて頂いたとしますならば、その経験そのものが、私たちにとって、「その地」なのではないでしょうか。「その地に種を蒔く」とは、そのような経験を経た後に、そのような苦い経験が、地の下ごしらえとなって、お預かりしたものをもう一度、神さまにお返しし神さまの手にお渡しし委ねることこそ祝福の鍵であることを教えていないでしょうか。神さまから頂いたものであっても自分の手の中に握りしめ続けていたとしたならば、一握りの種のままでしょう。手放して初めて、神さまは祝福して下さいます。自分の失敗を認め、扱われた「その地(経験)」を謙虚に受容する時に初めて「神がすべてのことを働かせて益として下さる」のではないでしょうか(ローマ八の二十八)。
|