インマヌエル金沢キリスト教会 萩原雄介牧師のブログ

人生の課題を共有し、聖書のことばから神の恵みを分かち合い、より豊かな人生を過ごすために、聖書から豊かな語りかけを頂きましょう。

信仰の証し

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そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」ルカの福音書24:32//「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたし(キリスト)について証言しているのです。」ヨハネの福音書5:39

イギリスのピューリタン革命の英雄「クロムウェル」

そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」ルカの福音書24:32

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたし(キリスト)について証言しているのです。」ヨハネの福音書5:39



 イギリスのピューリタン革命の英雄「クロムウェル」という人は、臨終に際し、「本を取っておくれ」と頼み、何の本ですかと尋ねられますと、「本と言えば聖書しかないではないか」と言い、聖書を読んでもらいながら、「ああ、この聖書のキリストは、まさしく、私のキリストだった。」と言って、息を引き取ったそうです。


■クロムウェル
Oliver Cromwell
(1599―1658)イギリス、ピューリタン革命の指導者。
■庶民院議員になるまで■国王ヘンリー8世の側近だったT・クロムウェルの血統を受け継ぐハンティンドンの地方ジェントリの家に4月25日生まれた。ケンブリッジ大学のシドニー・サセックス・カレッジに学び、そこでピューリタニズムの影響を受けたが、1617年、父の死にあたって所領経営に専念すべく、学位をとらずに大学を去った。その後23年間、彼はハンティンドンで積極的に農業経営に取り組むとともに、他方、治安判事として、フェンランドの干拓に反対していた農民を守って、ベッドフォード公の代理人と闘った。その間、20年に結婚、また28年には庶民院(下院)議員に選出されたが、目だった活動はしていない。40年、ケンブリッジから短期議会および長期議会の議員に選出されると、国王反対派の立場にたって論陣を張ったものの、けっしてその中心になることはなかった。

■軍事指導者として■
1642年、国王チャールズ1世と議会との間に武力抗争が始まると、クロムウェルは国王軍に対して州を守るべく立ち上がった。彼は、エッジヒルその他の戦闘で議会軍の訓練不足を痛感し、東部諸州から熱烈なピューリタンを集めて厳格な訓練を施し、自ら騎兵を率いて戦った。その効果はマーストン・ムア(1644)、ネーズビー(1645)の両戦闘で遺憾なく発揮され、「鉄騎隊」Ironsideの名称とともに彼の名声を高めた。その結果、第一次内戦が終了した時点で、クロムウェルはもっとも有力な議会派指導者の1人となり、軍の力を背景として、当時庶民院の実権を握っていた長老派と対立することになった。46年から47年にかけての、議会、国王、軍、スコットランド間の複雑な交渉の過程で彼のとった態度はかならずしもはっきりしないが、最終的には女婿であったアイアトンの提案した「提案要綱」を支持して、長老派、レベラーズ(水平派、平等派)と対決した。その後48年に国王がスコットランドと密約を結び、第二次内戦が起こると、クロムウェルはプレストンで国王軍を打ち破り、軍の発言力をさらに高めた。彼がチャールズ1世の処刑(1649)に対してとった態度については議論が分かれるが、結局は国王に対する軍の不信に同調したように思われる。また、48年12月、プライド大佐の指揮のもとに長老派議員が議会から追放され、残った議員によってランプ議会(残部議会)が成立すると、クロムウェルは軍の力を背景にしながらもこの議会を支持して、共和制を持続させようとした。彼はバーフォードでレベラーズの残党を一掃(1649.5)、アイルランドの反乱を鎮圧(1650)し、スコットランドの侵入軍を食い止めた。しかし53年、ランプ議会の進行に不満を抱いた彼は、軍隊を率いて議員を議場から追い出し、信仰の厚い者を指名して「聖者」による支配を試みるに至った。

■護国卿として■
653年から死に至るまでの護国卿(きょう)政権時代、彼の生涯はほぼイングランドの歴史に重なり合う。彼は対外的にはイングランドの国威を発揚するとともに、国内的には「聖者」による正義に基づく寛容な支配を行いつつ、同時に地方の有力者の支持を取り付けて、同意に基づく支配を行おうとした。対外政策は、イギリス・オランダ戦争の有利な解決、他のプロテスタント諸国との友好関係の確立をはじめとして一定の成果をみたが、国内の支配はいっこうに安定しなかった。「聖者」は結局社会の少数派だったからである。彼は、全国を最初11、のちに12の軍管区に分けて、それぞれに「軍政官」を置くことなどを試みたが、それも在地の有力者との乖離(かいり)を引き起こす結果になった。57年、議会がクロムウェルに対して出した「謙虚な請願と勧告」は、彼が王位につくことを望んでいたが、彼は最終的にこれを拒否し、翌年9月3日、第3子リチャードを後継者に指名して世を去った。

■評価■
死後、クロムウェルに対する評価は時代とともに揺れ動き、彼は国王に対する反逆者にもなれば、ピューリタン革命の英雄にもなった。しかし彼の果たした役割はかなりはっきりしている。その意図が「神の義」の実現にあったにせよ、結果としてみれば、彼は土地所有者の利害を守りながら、教会国家体制を打破して、イギリスにおける地主寡頭制支配に道を開くことになった。彼は、自らの意図を裏切ってイギリス「近代社会」の扉を開くことになったのである。→ピューリタン革命〈小泉 徹〉
(C)小学館

クロムウェル(Oliver Cromwell)−1
http://www.generalmonck.com/images/cromwell-cooper100c1.jpg

クロムウェル(Oliver Cromwell)−2
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0f/Oliver_cromwell.jpg


そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」ルカの福音書24:32

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたし(キリスト)について証言しているのです。」ヨハネの福音書5:39


そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」ルカの福音書24:32//「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたし(キリスト)について証言しているのです。」ヨハネの福音書5:39

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                       ↑↑↑
  まず、この美しい女性の左肩の天然痘予防注射の跡に、ご注目下さい。上の画像のうち、大きな画像は、天然痘予防接種が始まったロシアでのこと。若い女性の左腕を、御覧下さい。写真の出典は、以下です。 
 http://blog.goo.ne.jp/batsman_10/m/200607

天然痘に勝利

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」ヨハネの福音書12:24

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」ヨハネの福音書12:24

「私は牛の疱瘡が手に移ったことがあるから、もう天然痘にはかからんよ」
 英国の青年ジェンナー(1749-1823)は、牛飼いをしている人たちから、たびたびこの言葉を聞いた。

「それが本当なら、牛の疱瘡を人間に移す方法を考え出せば、天然痘からまもられるはずだ」
 郷里のバークレーの近くにいる薬剤師で外科医のルードローから医学の手ほどきを受けていたジェンナーは、このアイディアを話した。

「それが実現するなら、それこそ人類に対するすばらしい貢献となるよ。君はまだ若い、これから天然痘予防を研究していきたまえ」

 励まされた彼は、外科医としての腕を上げるべくロンドンへ出ると、解剖学の権威ジョン・ハンター博士のもとで二年間の学びをした。卒業すると、帰郷して医者として出発した。二四歳の時である。

 キャサリンとの出会いによって遅蒔きながら三九歳で結婚すると、すぐに男子が与えられた。彼は幼子エドワードをみるにつけ、以前から研究してきた天然痘の予防方法を、この子で実験する以外ないと決心した。もし失敗すれば、あえて天然痘で命を奪ってしまう危険が大きい。大いに悩んだすえ、彼は妻のキャサリンに同意を求めた。

 まだ一歳六ヶ月の赤子に、牛の疱瘡を強制的に感染させるという危険に、命の保証は全くなかった。「これは誰かの子どもで実験する以外はないのだ。もし成功するなら、なすすべのない恐怖の天然痘から、全人類が救われるのだよ。私たちの子どもでしか、このことはできない」

 キャサリンも恐れと不安の中でついに決心した。「神さま、エドワードがたとえ死に至るようになったとしても、一粒の麦となることができますように」二人は祈りつつ、我が子の腕に牛からとった種痘をした。

 1791年4月9日、膿んでいた傷口が乾いた。
 エドワードはこの種痘で天然痘を発病しなかった。
 その後も、天然痘が流行しても決してかからなかった。
 1980年、世界保健機関(WHO)は、天然痘の絶滅宣言をした。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」ヨハネの福音書12:24

 上の画像のうち、子どもにワクチン接種している医師の像は、ジェンナーと自分の子どもの姿です。
出典は、以下です。
http://www.biken.or.jp/top/top.html

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1796年5月14日イギリスの医師ジェンナーが天然痘

1796年5月14日イギリスの医師ジェンナーが天然痘の予防のために、牛痘を用いて初めて「種痘」を行いました。これが現代で言う「予防接種」の始まりです。当時、死亡率の高い伝染病として猛威をふるっていた天然痘ですが、これによって多くの人々の命が救われることになりました。そして、1967年より世界保健機構(WHO)を中心として種痘による「天然痘根絶計画」が行われた結果、1979年には患者発生がゼロになり、翌年、ついに「天然痘は地球上から根絶された」ことが宣言されました。これは長い間、人類を苦しめてきた悲惨な疫病に対して、ワクチンを用いて初めて我々人類が成し遂げた偉大な勝利であるといえます。

ところで、ウイルス、細菌あるいは寄生虫などの病原微生物が生体内に侵入し増殖することによって起こる病気を「感染症」と言います。生体には微生物の侵入に対抗するために「免疫」と呼ばれる独自の生体応答システムがあります。すなわち、自分以外の異物(病原微生物や他のアレルギー原など)が生体内に侵入すると、その異物と特異的に反応する「抗体」と呼ばれるタンパク質や「感作リンパ球」が作られ、その異物を排除(あるいは無害化)しようとします。この様な免疫は体内のリンパ球に記憶され、同種の異物が侵入してきた時に即座に対応出来る様に準備されています。

「ワクチン」とは、生体が本来持っているカラダの仕組みを利用して、あらかじめさまざまな感染症に対する「免疫力」あるいは「免疫記憶」を作らせておく“生物製剤”のことです。「ワクチン」には大きく分けて「生ワクチン」(毒力を弱めた生きたウイルスや細菌から作られる製剤等)と「不活化ワクチン」(微生物や微生物が産生する特定のタンパク質を精製してホルマリン等で殺菌または無毒化して作った製剤等)があります。

生ワクチンはほぼ一生効果を持続するものが多いのですが、不活化ワクチンはある程度の期間を過ぎると効果が無くなってしまうので、基本的には追加接種が必要です。また、インフルエンザウイルスなどの様に少しずつ抗原型が変化する微生物に対しては、毎年、流行が予想される抗原型のワクチンが作られます。この様に毎年、流行型のワクチン接種を受けなければ効果が得られないものもあります。

ワクチンの歩み(緑色は(財)阪大微研会の足跡です)

1796 ジェンナーが種痘を初めて行う
   
1858 日本で初めての天然痘の治療所(種痘)が開設される
   
1885 パスツールによる弱毒狂犬病ワクチンの開発
   
1921 カルメット、ゲランによるBCGの開発
   
  グレニイらによるジフテリアトキソイドの開発
   
1930 ラモンによる破傷風トキソイドの開発
   
1943 フランシスらによる不活化インフルエンザワクチンの開発
   
1953 ソークによる不活化ポリオワクチンの開発
   
1954 北岡(予研)らによる不活化日本脳炎ワクチンの開発
   
1957 セービンによる経口弱毒生ポリオワクチンの開発
   
1960 エンダースら、奥野(阪大微研)ら、スモルディンチェフらによる弱毒生麻しん
   
  ワクチンの開発
   
1967 米国で弱毒生おたふくかぜワクチンの実用化
   
1969 米国、ベルギーで弱毒生風しんワクチンの開発
   
1974 高橋(阪大微研)らによる弱毒生水痘ワクチンの開発
   
1980 世界保健機構(WHO)総会で「天然痘根絶宣言」が採択される
   
  フランス、日本(化血研)で組織培養型不活化狂犬病ワクチンの開発
   
1983 米国メルク社、松原(阪大)らによる組換えB型肝炎ワクチンの開発
   

TITLE:ワクチンとは・・・
上の画像のうち、大きな画像は、天然痘予防接種が始まったロシアでのこと。若い女性の左腕を、御覧下さい。写真の出典は、以下です。 
http://blog.goo.ne.jp/batsman_10/m/200607

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「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」ヨハネの福音書12:24

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スタンレーとリビングストンとの会い

 H.M.スタンレーという人が、中央アフリカで、リビングストン博士に会い、しばらく、生活を共にしたことがあったそうです。その時、スタンレーが言ったことは、何でしょうか。

 「もし、これ以上、リビングストン博士と一緒に生活を続ければ、博士は何も言わないけれども、私は、完全に、クリスチャンになっていたかもしれません。」と。このように、日常生活の中で、「キリストを証詞する力」ほど、強いものはないのではないでしょうか。

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 「神のふところに憩う」 ブラザー・ローレンス
            :『敬虔な生涯―普段の生活の中におられる神

 私が常日頃とっている態度とは、単純に神に心を傾け、絶えず神を慕い、神を仰ぎ見ることです。それで私の心は、嬉々として母親の胸にすがる乳飲み子にも勝る幸福と喜びにしばしば溢れんばかりなのです。こういう表現をあえて用いるならば、私が味わい、経験している、ことばに尽くせない幸せについて、この状況を「神のふところ」と描写させてください。

 時に、どうしても必要なときとか、弱さのゆえにか、脇道にそれることがありますが、たちどころに甘く魅力的な内なる声に迫られて呼び戻されます。その麗しさは到底言いようもありません。私の定めている祈りの時間も、やはり同じことの連続です。時々、私はちょうど自分が、彫像を作ろうとして仕事に取り掛かっている彫刻師の前に置かれた石のように感じます。私は神のみ前に自分を置いて、私の魂のうちに神の完全なイメージを刻んでください、そして私を神ご自身と完全に似るものとしてくださいと乞い願うのです。

 他のときにも、心を集中すると、すぐに私の霊も魂も晴れ晴れとし、心遣いや努力もいらずそのまま続きます。さわやかに、動かされること無く神の内に憩い、神が私のうちにいてくださるのを覚えます。

 このような状態を怠惰とか、自己欺瞞とか、自己愛と言う人もいるでしょう。たしかに聖なる怠惰、祝された自己愛とでもいいましょうか、そういうものがあることは認めます。魂がその中にあるときには、今この時、神を交わることだけを考え、過去の行いなどに心を煩わすことはありません。そのようなものは、かえって神との交わりを妨げるだけです。しかし私は断じてそれを欺瞞とは呼びません。神を喜ぶ魂は、ただ神をのみ求めるからです。

 神は私たちの最も必要としているものをよくご存知です。そして神がなさることはすべてにおいて益となるものです。もしも神がどんなにか私たちを愛しておられるかを知ることができたならば、私たちにとって楽しいことも、苦しいことも、等しく神の御手から受ける備えがいつもできているはずです。神の御手から来るものは最も苦痛なこと、最も困難なことでさえ、私たちにとって甘美で喜ばしいことです。最も烈しい苦しみにとうてい耐え切れないように思えるのは、私たちの考えなのです。神が御手によってその試練を与えておられるのだと信じ、また愛に富む天の父が私たちを低くし、悲しみも苦しみも与えておられるだと分かれば、すべての苦しい思いは取り除かれ、ただ喜びとなるのです。

 私たちの務めはただ神を知ることです。神を深く知れば知るほど、ますます神を知りたいという飢え渇きを覚えるものです。そして、愛は知識によって測られるものですから、知識が広くなればなるほど、愛もまた大きくなっていくのです。このようにして神への愛が大きくなれば、苦しみの時にも喜びの時にも等しく神を愛するものとなります。

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 「敬虔の生涯」ブラザー・ローレンス

   御臨在に渇く時に

 修道院に入った初めの頃、黙想の時間に私は決まって死、裁き、地獄、天国、それに自分の罪についていつも考えていました。このようなことを数年の間続けて、心の中を注意深く考察してきたのです。夜、床についている時も、昼、仕事をしている間にも、私と共におられる主の臨在を覚えました。

 そして、ようやく決められた時間の祈りの時に神を恐れることなく、大きな喜びと慰めを受ける時となり、この訓練によって、より高く深く神を尊ぶことを学ばさせてくれたのです。

 さて、このように訓練を始めて10年間は、さまざな思いに自分自身が悩まされました。私は神を礼拝していないのではないかという恐れ、また私が過去に犯した罪をいつも思い出して、神が私のためにして下さった大きな分に過ぎた恵みが、かえって苦しみの原因となるほどでした。また、このような恵みを私が受けているというのは、私の思い過ごしの結果であるように信じられて来たり、他のちょっとした困難な出来事が起こったら、すぐになくなってしまうような信仰であって、故意に錯覚しているのだと思ったり、私のためには何らの救いもないのだと時々考えて悩まされました。

 しかし、私たちは理性ある造られた存在なのだから、私のために与えられているのは、ただ信仰だけなのだと、神は私に考えさせて下さいました。そう考えることによって、苦しみ日々が終わって私は何も思い煩わなくなった時、神に私が持っていた信頼を低下させられるようなことはなくなり、私の信仰をひたすら増し加えていただくために仕えてきました。やがて、私自身がまったく変わってきたことに気づき、その時からこの平安の秘訣を保つ時には、私の魂にたとえ苦しみが加えられても、奥深く内にある平和のあることを感じ取ることができました。

 それからは、信仰により愛と謙遜を持って神の前に生活することができるようになり、神を悲しませることなどは一つとして考えられなくなり、何事をするにも無理な努力をすることもなくなりました。そして自らの力でできることをやるというよりも、神が喜ばれることを、神が私と共にして下さるのを望むようになりました。今は私が何かの仕事を終えたとき、それを自分がなしたのだと思うことはいたしません。

 現在の私には苦しみも困難もありません。なぜなら、悩みや苦しみが来たとしても、神が共に戦ってくださると信じています。また、すべての事柄をしとげなければという努力も、神の命令に従い、ただ神に真実な愛を持って仕えるのみです。私は、どのような種類の黙想も、定められた祈りの時間も、あえて持つ必要を感じませんでした。むしろ、神の潔い臨在の中に居り続けるように励みました。ただ単純に神のみに心を傾け、神のみを熟知しようと努める行為を神の臨在の実際性と呼んでいます。言葉を変えて言えば、習慣によって習得できる方法とも言えます。沈黙の中で神と密かに語り合う魂の状態は、私の内側が喜びに満たされ、あふれ出てきて制しきれないほどです。

 神へ注意を向け、情熱を持って神を注視するという単純な方法で、私はしばしば大きな甘美と喜びに溢れてきました。それはあたかも母の胸にいただかれている甘さと喜びのようでした。あえて言わせていただきますと、神の中にあるこの言葉で言い表せない、味わいを経験していますので、他のいかなる喜びに比してこの経験を選びます。

 私の決められている祈りの時間に、しばしば感じるのですが、ちょうどし彫刻を造ろうとして仕事に取り掛かっている彫刻家の前に置かれている石のように、神のみ前に置かれて,私の魂の中に神の完全な御形を造ろうとして、私に臨んでおられる神を思います。神御自身のように私を完全に似せようとしておられるのです。また祈るように導かれる時、自分で努力することなく、魂の安息に入り、神の中に憩うことができるようになりました。

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