Ellieのブログ

母 さくらだ葉子の活動を振り返ります

産休中

子育て中のため、掲載が滞っていました。

できる限り頑張ろうと思います。

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2015年の選挙(1)

 選挙の後、少しブログの更新がご無沙汰になりました。申し訳ありません。
 今年もよろしくお願いします。

 4年前の活動を振り返っているところですが、今回2015年の県議選について、忘れないうちに少し触れておきたいと思います。

 4期を目指した今回の選挙で、母は初めて福島市選挙区で15,141票をいただき、無事当選をすることができました。多くの方々からご支援をいただいたこと、娘としてこの場を借りてお礼を申し上げます。

 今回の選挙結果は、私の選挙前の予想とは大きく違ったものになりました。福島市の有権者数は、前回に比べて減っています。また、8月に投票があった仙台市議選以降、マスコミはは「自民党に逆風が吹いている」と盛んに報道しました。また、県内では除染等の復興関連の仕事が忙しく、「組織の方もなかなか選挙の応援にかけつけられないのではないか」という声もありました。

 母が初めて出馬した2003年のときは14,544票でした。2期目を目指した2007年は13,395票、そして震災直後の2011年は13,073票でした。

 正直なところ、今回の選挙は苦戦するだろうという雰囲気が陣営内には漂っていました。だから、結果にはびっくりしました。

(続きます)

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GW 原町に行く(2)

 神社を後にし、ずっと海沿いを走って行きました。走っている途中、自衛隊の方々が沿岸部を捜索したりしているところに出会ったりしました。
そうこうしていると、福島県の事務所がぽつんと立っているところに出ました。その事務所は川の向こうにあり、橋を渡らないとたどり着けない位置にありました。ただ、そこに架かっている橋は、仮設の橋のようでした。看板を見ると、その橋は、自衛隊の方々が緊急で架けた橋で、「復興への架け橋」という名前がつけられていました。
 母は、後援会の方々に知ってもらうために、その前で写真を撮りました。

 事務所には、父の知り合いの方が常駐されていました。その方が言うには、「津波警報が鳴ると水門を閉めなくてはいけないのですが、機械が壊れてしまっているので、常駐している」とのことでした。津波警報が鳴ると、水門まで走って行って、手動で閉めるのだそうです。被害をこれ以上ださないよう、みんなが知らないところで命がけでに頑張っている人がいることは薄々聞いてはいましたが、実際に会ってみて、震災が遠い世界の話ではないことを、ここでも感じました。
 その常駐している県職員の姿を見て、母は震災時浜通りで仕事をしていた弟の姿をだぶらせたのか、彼を一生懸命励ましていました。

 沿岸部から、祖母の家がある原町の市内に向かっていきました。車の車窓から外を見ると、ちょっとした高台にも被害があったことに気づきました。高台の公衆電話も壊れていました。高台に逃げれば大丈夫ではなかったんだと、改めて津波の力のすごさを感じました。

 祖母の家でいつも畑でとれた野菜をいただくのが、震災前のいつもの習慣でした。しかし、福島第一原子力発電所の事故の影響で、それは今回、不可能でした。山でとれる山菜も、沿岸でとれる岩のりも食べられなくなってしまったことを残念に思ったことを今でも覚えています。
(続きます)

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福島県議選御礼

11月15日投開票の福島県議会議員選挙福島市選挙区において、母は無事に当選することができました。
応援ありがとうございました。

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GW 原町に行く(1)

 大地震発生から2ヶ月近くのゴールデンウィーク、私は父と母とともに、父方の祖母が住む南相馬の原町に出かけました。原町も沿岸部で津波被害があり、また原発事故もあってどうなっているのか、心配だったからです。
 父と母は、仕事の関係で既に何度か相馬の沿岸部を見て回っていましたが、私が浜通りに足を踏み入れたのは、このときが震災後初でした。

 父の運転で、瀬上から峠を越えて浜通りに抜けて行きました。あちらこちらで道路規制があり、時折、災害支援に出向いたであろう車などともすれ違いました。
 南相馬市内に入り、国道6号線を走ったとき、国道を境に景色が全く違うという場所が何カ所もありました。国道より海側は津波で家などが流され何も残っていないのに、国道から山側は田んぼが残っている、そんな感じでした。田んぼの中に津波で流されてきた船がぽつんと残っている、そんなところもありました。
 震災前、何度も走った道でしたが、震災後に見た風景はそれまでと全く違ったものでした。

 南相馬市の萱浜にある神社の近くに父のご先祖さまが住んでいたこともあり、そこを見に行こうとなりました。行ってみたら、神社があるはずのところには、石碑しかありませんでした。神社は津波で流されてしまったのでした。

 浜辺の方を見ると、家はなく、その土台がところどころに残っていました。そして、鯉のぼりが風を受けてなびいていました。鯉のぼりを立てる竿の下には、たくさんのお花が置かれ、お供えがありました。子どもを津波で亡くした方が、天国の子どもが喜ぶようにと鯉のぼりを飾ったのだと思います。

 県議としての母が浜通りを見ておこうとはじめて浜通りに入ったとき、津波に遭われたご遺体に初めて遭ったの、この萱浜でした。子どものご遺体だったそうです。鯉のぼりを見たとき、その話を思い出し、もの悲しくなりました。
(続きます)

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今日から県議選

今日は福島県議選挙の告示日です。これから選挙戦が始まります。

母は瀬上にある青柳神社で必勝祈願し、街頭演説に出発していきました。

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 私の中学・高校の同級生のうめさんから、連絡がありました。彼女の実家は商店をしていて、下着類や服も取り扱っていました。彼女は、私に「下着や服を寄付したけど・・・」と申し出てくれました。私は、すぐにそのことを母に伝えました。母は「ぜひ、お願いしたいわ」と即答し、そのことを私はうめさんに伝えました。
 ただ、うめさんの実家のお店は同じ福島市内にあるのですが、我が家からはかなりの距離があります。ガソリンもない状況でしたので、どうやって取りに行こうか、と悩みました。そのとき、吉田栄光先生の支援者の高橋さんが我が家に残していった車があることに気づきました。「何かあったら使ってくれ」と言われていましたので、ありがたく借りることにしました。
 父と母がうめさんのお店にうかがい、たくさんの下着やジャージなどの衣類をいただきました。それらを何回かに分けて避難所に運び、避難所にいる皆さんに配りました。着の身着のままで避難されてきた方が多く、非常に喜ばれたことを覚えています。そして、それらを提供してくれたうめさんのお宅の心意気に感動しました。

 福島北高の近くに畑を持っているきいさんという方が、母に「たまごとお米を寄付したいけど、持ってってくれないか」と言われました。きいさんが畑でたき火をしていたら、北高に避難している方々が暖をとりに来て、、「温かいご飯で、卵かけご飯を食べたいんだ」と言ったのだそうです。そこで、きいさんはお米をわが家に持ってきてくれました。お米は家で炊いて、ジャーのまま避難所に持っていきました。卵は石田さんが調達してくれました。石田さんは大量の納豆(パック入り)も買ってきてくれました。温かい卵かけご飯を皆さんに、振る舞うことができました。

 避難所に通ってみて、時間が経つと非難された方も情報がほしくなることに気づきました。非難された方が福島市の避難所に身を寄せた頃、着の身着のままで避難された方が多く、避難所では食べ物や薬など物資を求める声が多かったように思います。しかし、物資が集まりはじめ、原発事故に焦点が移る頃になると、「新聞はないか」「テレビはないか」という声も上がりだしました。家や地元の様子が気になったなんだと思います。
 安心は情報があってのこと、ということを強く感じました。

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閑話休題


母、さくらだ葉子のホームページのデザインがリニューアルされました。


告知です。

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