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節分とは

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今年は2月3日が節分です。節分というのは立春・立夏・立秋・立冬の前日のことをいうのですが、特に立春が1年の初めと考えられることから春の節分が最も重視されており、一般には単に「節分」といえば春の節分を指すものとなっています。これは立春を新年と考えれば大晦日に相当する訳で、そのため前年の邪気を全て祓ってしまうための追儺(ついな)の行事が行われます。その代表が「豆まき」です

追儺の始まり
文武天皇の世、慶雲3年(706)に疫病がはやり多くの百姓が死んだため、「土牛」を作って疫気を祓ったという記事が続日本書紀に出ています。これが追儺の行事の始まりであるとされています。
この土牛を使う儀式は中国の礼記に「土牛を作りて寒気を送る」とあることを参考にしたものと思われますが、陰陽師(おんみょうじ)たちによってやり方が整えられ、平安時代の頃には次のような形に発達していました。
大寒(12月節)の日に宮中の12の門に12組の土牛童子を立てる。これは童子が牛を引く形の人形であるが、東の陽明門・待賢門には青い土牛童子、南の美福門・朱雀門には赤い土牛童子、西の談天門・藻壁門には白い土牛童子、北の安嘉門・偉鑒門には黒い土牛童子、そして残りの、東の郁芳門・南の皇嘉門・西の殷富門・北の達智門には黄色い土牛童子を立てる。これを立春(1月節)の日の前夜半時に撤去する。 
この5色の配置は五行をご存じの方でしたらお分かりの通り、各方角の色を使用したものです。五行の配色は、木=青=東、火=赤=南、土=黄=中央、金=白=西、水=黒=北となります。牛を使っていますが、十二支の丑も五行では土に当たります。また12月というのも十二支でいうと丑の月です。また土牛だけでなく、そこに童子がいるのですが、童子というのは易でいうと艮(山)という卦になります。これは方角としては東北、つまり丑寅の方位。丑月は12月、寅月は1月ですから、この童子というのは12月から1月への時間の切り替わりを表現しているのです。また丑寅の方位というのは、古来より鬼門と呼ばれ、鬼の出入りする方角でした。ですから、この土牛童子というのは、ここに各種の邪気を集めてしまうためのものともいえます。それを捨ててしまえば邪気は祓えることになります。
また、そもそも「鬼」という字は「おに」と読んでいる訳ですが、「おに」という日本語はもともと「おん」つまり「陰」のことです。目に見えない気、主として邪気のことを「おに」と言ったわけですが、十二支の丑というのも陰陽でいうと陰になります。色々とこの行事には符合があるわけです。ちなみに鬼が牛の角を付け、虎の皮のパンツをはくようになったのは後世のことです。このときも鬼門が丑寅の方角なので、牛と虎に関したものを身につけるようになった次第です。
平安時代の宮中の追儺の儀式では陰陽師が祭文を読み、黄金の4つ目の怖い面をつけた方相氏が矛と盾を持ち、その矛を地面に打ち鳴らしながら「鬼やらい、鬼やらい」と言って宮中を歩き回ります。そしてその後には殿上人たちが桃の弓と葦の矢を持って続くのです。桃や葦にも古来より邪気を祓う力があるとされていました。

豆まき
豆まきでは年男(その年のえとの生まれの人:今年12,24,36,48,60,72,84,96,108,120歳になる男性)あるいは一家の主人が「福は内、鬼は外」といいながら煎った大豆をまき、みんな自分の年の数だけ豆を食べるとこれから1年病気にならないと言われています。また妊婦のいる家庭ではこの豆を安産のお守りにもします。もともと宮中の行事が一般家庭に普及したものとされますが、最近は大きな神社などで芸能人やスポーツ選手などを招いて豆まき大会をやっているケースも多いようです。
さて、この大豆ですが、硬いですね(^^) 硬いものというのは「木火土金水」の五行では「金」に属します。この大豆は最初煎ることによって火気にあてられ「火剋金」の原理で剋された上に、「鬼は外」といって外にまかれて捨てられたり、「福は内」といってまかれてから人々に食べられたりして、要するに豆はみんな「やっつけられてしまいます」。
古来疫病や災厄というのも金気に属するものと考えられていました。ですから豆というのは実は鬼をやっつける道具でありながら実は鬼そのものでもあるわけで、豆まきというのは邪気を祓うとともに、「金」の気を剋することで「金剋木」で金気に剋されるはずの「木」の気、つまり春の気を助ける行事、つまり春を呼ぶ行事でもあるのです。

−豆まきの豆について−
豆まきの豆について、重要なことのひとつは煎り豆を使うということです。万一生豆を使って、拾い忘れたものから芽が出るとよくないことがある、と言われています。
また近年、「下に落ちた豆を食べるなんてきたない」といって、大豆ではなくピーナッツを使う人たちが増えています。この風習は新潟地方から広まったようです。
なお、家庭によっては豆だけでなく、チョコレートやキャンディ、またお金を包んだものをまいたりもするようです。

−鬼は外ではない?−
一般的な豆まきの口上は「鬼は外、福は内」で、少なくとも室町時代にはこの口上ができていたらしいのですが、そう言わないところも数多くあります。これは豆まきの風習が全国に普及していくなかで出来ていったバリエーションではなかろうかと思われます。
例えば起源がはっきりしているものとして、福島県の二本松地方では「鬼は外」とは言わないか、あるいは「鬼外」と「ワ」の音を抜かします。これは二本松藩の殿様は丹羽氏なので、「鬼は外」と言うと「お丹羽様外」になってしまうからだといいます。

・恐れ入谷の鬼子母神 
東京都台東区の鬼子母神(仏立山真源寺)では「福は内、悪魔外」で「鬼は外」とは言わない。 

・川崎市の千蔵寺 
ここも本尊が厄神鬼王(やくじんきおう)という鬼面の神様なので「鬼は内」と鬼を暗くした堂内に呼び込み、住職が鬼たち説教をして、悪い鬼は改心させ社会復帰させるという。 

・愛知の大須観音は「福は内」だけ 
鬼の面が寺宝なので、「鬼は外」は唱えない。 

・埼玉県の武蔵嵐山の鬼鎮神社(きじんじんじゃ) 
平安末期に畠山重忠の館・菅谷館の鬼門を守るために作られた神社で、鬼が御祭神であり、鬼が邪気から人々を守ってくれるということになっており、江戸時代ころから鬼が豆をまいて厄払いをするようになった。口上は「鬼は内、福も内、悪魔外」。 

・奈良市中院町の元興寺 
元興寺には、元興神(がごぜ)という鬼がいて悪者を退治すると言い伝えがあることから「鬼は内、福は内」。 

・奈良県の天河神社 
ここも「鬼は内、福は内」です。鬼を接待します。 

・新宿歌舞伎町の鬼王神社(きおうじんじゃ) 
やはり鬼が御祭神なので。「鬼は内、福は内」。 

・つくば市の鬼ヶ窪地区 
鬼が地名につくことから「鬼は内」というところも家庭によって残っているそうです。 

・群馬県鬼石町 
昔鬼が投げた石でできた町と言われており、鬼は町の守り神になっている。そこで近年では、全国から追い出された鬼の安住の地をうたっており、「福は内、鬼は内」という。 

・佐渡両津の山本家 
昔田植えが暴風雨に遭った時、鬼が助けてくれたという伝説があるため「福は内、鬼も内」という。 

・宮城県村田町では「鬼は内、福も内」 
渡辺綱がこの地で伯母に化けた鬼に腕を取り返され、鬼が逃げてしまったので、鬼が逃げないように「鬼は内」になった。 

・熊野本宮宮司の九鬼(くがみ)家 
九鬼一族の本拠地ですが、「鬼」という字はもともと「神」の意味なので、ここでは「福は内、カミは内」と唱える。 

・綾部の大本教本部 
ここも「鬼は内、福は内」。綾部九鬼家と関わっているからか?あるいは王仁三郎さんのところだからか? 

その他豆まき文句のバリエーション
豆まきの時のセリフのバリエーションについても民俗学で研究がおこなわれているようです。
基本的な話として「鬼は外」と「福は内」のどちらを先に言うか、とか、それぞれを何回言うか、というのが地方によって異なっていたようです。ただし最近ではこの付近の風習はどんどん曖昧になってきているようです。
今そういう習慣が残っているかどうかは分かりませんが、「富は内」というのが加わるところもあったようですし、「大荷(おおに)は内」などというのが入るところもあったようです。また、「鬼の目玉ぶっつぶせ」というのが加わるところ、かけ声?で「ごもっともさま」というのが入るところなども文献上は記録されていますが、今でもこういうのをやっているかどうかは分かりません。


その他の節分の行事 
巻き寿司の丸かぶり 
節分の日、スーパーなどに行くと、「節分用太巻き」というのが売ってあります。節分の夜にその年の恵方を向いて、太い巻き寿司をらっぱでも吹くかのようにくわえ、無言で食うと、1年間よいことがあるのだそうです。もともとは愛知県の方の風習らしいのですが(大阪起源説もあり)、1977年に大阪海苔問屋協同組合が節分のイベントとして道頓堀で実施したのをマスコミが取り上げ、早速全国のお寿司屋さんがそれに便乗して全国に広まったということのようです。この日大阪梅田の阪神百貨店では巻き寿司が4万本売れるとのこと。
なお、恵方(えほう,あきのかた)というのはその年に美しき歳徳神がいる方角で、2006年は北北西です。巻き寿司を使うのは「福を巻き込む」からで、「縁を切らないために包丁を入れない」ということで、まるごと食べることになったようです。

http://www.ffortune.net/calen/setubun/index.htm より

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きの はいわば中山みき(天理教,1798-1887)の先駆者です。

きの(幼名とわ)は宝暦6年2月2日、尾張名古屋の旗屋町で生まれました。家は
古い家柄で先祖には神官もいたといいます。8歳の時に両親と死別して叔父に
引き取られ、13歳の時から漢方医・橋本大進の家で奉公、ついで橋本家の知り
合いの尾張藩士石河家の隠居に仕えました。この隠居が亡くなった後結婚を
しますが夫の身持ちが悪かったため離婚して、再び石河家に身を寄せました。

その後石河家を辞して、少しずつ貯めていたお金で生家を買い戻して再興。
一人で田畑を耕して暮らすようになりました。享和2年(1802)47歳の時突然
神懸かりして、神の言葉を話すようになります。そのきのの祈祷を受ける
ために少しずつ人々が集まるようになり、尾張藩士の中にもかなりの信者
が出ました。

きのの思想はその尾張藩士たちにより書き留められています。それによれば
宇宙を創造した如来様が前世で罪を犯した人たちを救うために金比羅大権現
を使者として、きのの許に遣わしたとし、神仏の存在と愛を認め神仏に帰依
することにより彼岸に到達するとしました。

 ・我らは唯一絶対、慈悲の根源たる如来の存在を信じる
 ・この世を創り給いし如来が、その子供たるこの世の全てを
  良き所へ向かわせようとする、如来の無限の愛と救いを信じる

この教理は浄土宗的でもありますが、見ようによってはキリスト教のように
も見えます。そのため、きの自身文政3年(1820)に尾張藩から呼び出しを受
けて取り調べを受けています。しかし特におとがめはなく、文政9年(1826)
5月2日、71歳で亡くなるまで、多くの信者のために祈祷を続けました。

なお、教団はその後きのの養女の菊、日行、小寺一夢と継承されましたが、
一夢の代に弾圧を受け、布教禁止処分を受けます。しかしその後一夢の子の
小寺大拙が再興し、明治17年、曹洞宗に所属する地蔵堂として政府から布教
の許可を得ました。

戦後は曹洞宗から独立して如来宗(のち如来教)となりましたが、それに先行
して曹洞宗からの独立運動をしたグループは結局一尊教団を形成するに至り
ます。きのが遺した「お経様」は実は如来教では非公開にしていたのですが、
一尊教団が全てを公開したため信者以外にもその内容が明らかになりました。

やっと初冬!? ケータイ投稿記事

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昨日から雪景色になり、ようやく雪国らしくなりました

犬は喜び・・・
私は凍える・・・

ちゃんちゃん!

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