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日本で非常に人気の高い印象派の画家ピエール・オーギュスト・ルノワール
は1841年2月25日、フランスのリモージュで生まれました。

音楽の才能も高く、少年時代は聖歌隊で歌っていたようです。

初め陶磁器の絵付けの仕事をしていましたが、機械化されて興味を失ったた
めそこを辞め、扇子に絵を描く仕事に転職しました。

やがてルーブル美術館に出入りし、模写を多くおこないます。そして美術学
校に入って、グレイルのアトリエにも通い、モネやシスレーなどと出会いま
した。

20代の頃はサロンに出展したりして活動していましたが、28歳頃から印象派
に傾斜、第一回から第三回の印象派展に出展しています。そして40歳頃から
は印象派からも離れ、独自の世界を切り開いていきました。

晩年はリューマチから来る手の麻痺にもめげず多くの水浴図など、亡くなる
直前まで精力的な創作活動を続けました。

絵の話をする時、文字だけではかなり苦しいのが普通なのですが、ルノワー
ルは、あまりにも有名な絵が多いため、文字だけでもかなりのことを語るこ
とができます。

恐らく代表作といっていい「ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット」はダンスを
する多数の男女を描いています。踊る男女を描いたものとしては「ブージヴ
ァルのダンス」も有名。こちらは一組だけで縦長の作品。このブージヴァル
のダンスは以前ルノワール展で来日したこともありますので実際に観た人も
多いでしょう。モデルの女性がシュザンヌ・ヴァラドン、つまりユトリロの
母であることも広く知られています。

「ピアノに寄り添う娘たち」とか「イレーヌ・カーン・ダンヴェールの肖像」
も有名な作品。印象派傾向の強い作品としては舟遊びをする女性2人を描いた
「アニエールのセーヌ川」も有名です。

もうひとつの代表作「大水浴図」は1884〜1887年にかけて制作されました。
古典主義と印象派が共存したような、妙に落ち着きのある作品。色彩は象徴
派を思わせるほどきれいです。

晩年、ルノワールは三男クロードの肖像を多数描いています。クロードは
「ココ」という愛称で、金髪の、りんごのほっぺたを持つ可愛い子供でし
た。ルノワール60歳の時の子供です。ココの愛らしさは画家の創作意欲を
大いに刺激したようで、多数の子供の肖像画が生まれました。当時の西洋
の貴族の風習で少女の衣装を付けたココも多く見られるようです。

なお、次男のジャンは後に映画監督になり「どん底」「フレンチカンカン」
などの作品を残します。

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天文18年2月24日、美濃の斎藤道三の娘、濃姫が尾張の織田信長に嫁ぎまし
た。濃姫15歳、信長16歳でした。

斎藤道三は明応3年(1494)の生まれ。山城国の油売りの商人でしたが行商先
の美濃で、守護・土岐頼芸に仕えることになり、頼芸に認められて重用され、
どんどん出世していきます。そして天文7年(1538)守護代・斎藤氏をつぎ、
天文11年には頼芸を追放して、美濃国の主となりました。

この時、追放された土岐頼芸が尾張の織田信秀(信長の父)を頼ったため、
両者の間に戦いが起きていました。濃姫の輿入れは、信秀と道三の和議に
付随するものとみられます。

濃姫は通称を帰蝶といい、生母は生母は明智光継の娘、小見の方です。天文
4年(1535)の生まれ。光継は明智光秀とも近い親戚にあたるそうです。

この天文18年の時点で、織田信秀は尾張国内でかなり大きな勢力として急成長
してきつつあったものの、まだ尾張統一にはほど遠い状態で、その息子の信長
というと、現代の通説ではかなり問題児であったともいわれ、平手政秀が
「信長の愚行を諫めて」切腹したのもこの4年後です。

にも関わらず、道三が大事な娘をそこに嫁にやったというのは隣国同士の
政略結婚というレベルを超えて、信長に何か期すものがあったのかも知れま
せん。あるいは当時、信長という人は父をも超えるかも知れない逸材として
注目されていた可能性もあるでしょう。この年は信長は熱田神宮に参拝して
「藤原信長」と署名した年でもあります。道三と信長は天文22年に直接会談
しています。時代劇でよく取り上げられるシーンです。

また時代劇によく出てくるシーンとしては濃姫が信長に嫁いでいく時に道三
が懐剣を渡し「信長はうつけ者とも聞く。もしそうだったらその刀で信長を
刺して来い」というと、濃姫は「分かりました。しかしこの刀は(将来信長
と道三が戦うことになって)父上を刺す刀になるかも知れませんよ」と答えた
というものです。濃姫の気性の強さを象徴することとして取り上げられます
が、戦国の武家の女性というのはそのくらいの強さが求められたでしょうし、
また割り切っていたのでしょう。

道三はこの婚姻後、信長の尾張統一に協力して支援の兵を派遣したりもして
います。そして永禄2(1559)年、信長は尾張の統一に成功しますが、それまで
道三のほうは持ちこたえられませんでした。

道三は若い頃、土岐頼芸と矢の勝負をして勝ち、そのほうびとして頼芸の妻
の三芳野を与えられていました。三芳野は妊娠中でしたが、こういう場合、
生まれた子は道三の子ということになります。その子、斎藤義龍が道三を
遺伝子上の父である土岐頼芸の仇として弘治2年(1556)戦いを挑んで来たの
です。

信長は直ちに支援の兵を送るべく、濃姫に付き従ってきた美濃出身の家臣を
道三のところに派遣します。しかし道三は「そんなことをしたら父と婿が
共倒れするだけだ」として支援を拒否。静かに義龍の軍の前に散っていきま
した。信長はその道三の配慮に涙します。

そして尾張統一が完了し、直後の今川義元の侵攻を桶狭間の戦いの奇襲で
倒してから、最初に信長が兵を向けたのが美濃でした。それは父親の道三を
倒して国を奪った斎藤義龍を倒し、美濃の正統な後継者である濃姫のもとに
美濃国を取り戻すという大義名分が立ったのです。しかしそれは信長にとっ
て、本音でもあったでしょう。

この美濃攻めで信長は苦労しますが、2年後、天才戦略家・羽柴秀吉の奇策
により墨俣に城を作ることに成功すると、そこを拠点に美濃領内を少しずつ
侵略、永禄10年(1567)に完全に美濃の攻略を終了しました。10年がかりの
事業でした。ここから信長の天下統一への戦いが本格化していきます。

そして10年後、天正10年(1582)6月2日、明智光秀の謀叛により織田信長は
京都本能寺で49歳の生涯を閉じます。

この時濃姫は一説では安土城の留守を預かっていたものの明智秀満に攻めら
れた時に日野へと逃れたとも、また一説では本能寺に信長とともに滞在して
いたものの、信長の命令により寺を出たともいいます。どちらも明智勢に
つかまり、その保護下に入る可能性が高いですが、後者の場合その確率は
ほぼ100%でしょう。むろん光秀は彼女を人質にして秀吉と交渉をするなど
といったズルイことはできない性質ですから大丈夫でしょうが、やはり、
前者の可能性のほうが高いかも知れません。

濃姫が亡くなったのはその光秀が倒れ、秀吉の天下が来て、その豊臣も敗れ
て徳川の世になった慶長17年(1612)7月9日です。本能寺の変の後、濃姫が
どこで何をしていたのかはよく分かりませんが、他の戦国の武家の女性同様
どこかの寺に身を寄せていたのでしょうか。享年78歳。

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天明4年(1784)2月23日、福岡の志賀島(しかのしま)の畑の中から、全くの
偶然によって金印が発掘されました。

発見したのは当地の農民・甚兵衛で、値打ちのありそうなものに見えたので
博多の町の米屋才蔵に託され、奉行の津田源次郎を通して学者の亀井南冥に
鑑定が依頼されました。

南冥は後漢書の中元2年(AD57)1月の記事として光武帝が倭国から来た使者に
金印を授けたという記事があることからその印であろうと鑑定。そんなに貴
重なものであれば、ということで金印は福岡藩が預かることにしました。

(発見者の甚兵衛には若干のお礼しかされなかったようで、恐らく高く売れ
るだろうと思っていたアテは外れてしまいました。まぁどうせ拾い物ですが)

現在はこの金印は福岡市博物館に展示されています。また、金印の発見場所
は現在「金印公園」(^^;として整備されています。また、福岡市博物館の売
店にはこの金印のレプリカ(^^)も販売していますので、そういうコレクショ
ンの趣味のある方はどうぞ。


さてこの印鑑は一辺2.3cmの四角形で重さ108.7gの純金製。印面は

     国委漢  (漢の字は縦に長い)
     王奴

の5文字が彫られていて通常「漢の委(わ)の奴(な)の国の王」と読まれます。

当時福岡藩では「奴」とはけしからんからその文字は削ってしまえ、などと
いうとんでもない主張もあったようですが、亀井南冥は「いやいや奴の字は
『の』と読むのでこれは『かんのわのくにのおう』と読むのです」と詭弁を
使い、金印を守ったという逸話が残っています。

この時代朝鮮でさえ銀印しかもらっていなかったのに、なぜ日本が金印を貰
うことができたのかについては、謎のようです。これについて「マンガ日本
の歴史」で金印に関する物語を大胆に想像で補って記述した石ノ森章太郎さ
んは、もしかしたら、国の混乱をまとめて漢の国を再興した光武帝の目に、
同様に日本列島の統一を進めようとしていた奴国(なのくに)の使者が、若い
頃の自分と重なって見えるものがあり、高く評価されたのではないかという
仮説を立てておられます。

なぜこの地から金印が出たかについてですが、まず金印を受けた那国という
のは博多付近にあったと思われる国で、那珂川・那の津などとしてその名前
を残しています。中国まで使者を出すくらいですから、相当大きな勢力を持
っていたのでしょう。最低でも北部九州諸国の盟主的な地位くらいは持って
いたと思われます。

志賀島という場所は博多湾の出口の所にあり、交通の要所にはなっても、国
の中心を置くのに適した場所ではありません。こういう所を本拠地にするの
は海の民または水軍のようなグループです。

ということは考えられることとしては次のようなものがあります。

(1)那国は海上交通の支配者で、玄界灘から瀬戸内海西部程度の範囲の交通
  を管理していた。そして志賀島に王の館か迎賓館的なものがあった。

(2)那国が海上を仕切るグループに侵略されるか併合され、国の宝である
  金印もそのグループの手に渡って、志賀島の拠点に移された。

(3)那国は最初は北部九州のかなり大きな領域を管理していたが後に、他の
  国の隆盛に伴い、国土を縮小し、最後は本土での勢力をほとんど失って
  志賀島付近に追いやられてしまった。その国が過去の栄光として金印を
  大事に持っていたが、いよいよ志賀島も失う時に、それを埋めた。

那国(奴国)は魏志倭人伝では邪馬壹国に行く途中の国として出てきます。

松浦(末盧)国から500里で伊都国、伊都国から100里で那(奴)国とされており、
その先は100里で不弥国、水行20日で投馬国、水行10日陸行1月で邪馬壹国です。
松浦半島から糸島半島までが50km、糸島半島から那ノ津までが10kmあります
ので、倭人伝の1里を0.1kmとすればちょうどピッタリになります。

伊都国から10km、不弥国まで10kmということは、那国の範囲はその距離より
小さいということであり、那国の範囲というのはせいぜい現在の福岡市の
範囲程度の小国ということになってしまいます。やはり金印の時代から倭人伝
の時代までの間にこの国は衰えてしまったのか、或いはそもそも国土よりも
海上で生きていた国であったのか。これ以上は想像の範囲に入ってしまいます。

−訂正・補足−

天明4年(1784)2月23日、福岡市の志賀島で「漢倭奴国王」と彫られた金印が
発見され、黒田藩の学者・亀井南冥により、後漢書に見える、日本の奴国
(なのくに)が光武帝から受けた金印と鑑定されました。

この金印は黒田藩で大事に管理され、現在は福岡市博物館に保管されています。

奴国が金印を受けたのは中元2年(AD57)1月と記録されています。恐らくは奴国
は当時北部九州を中心にかなり大きな勢力を持っていたのでしょう。

さて、この金印の発見者を昨年のこの欄では農民の甚兵衛と書いたのですが、
これは実は地主さんの名前であることが分かりました。実際にこれを掘りだし
たのは秀治と喜平というふたりの小作人であるとのこと。そして掘り出して、
貴重なもののようなので地主さんに相談し、その甚兵衛さんのお兄さんが米屋
で働いていて「米屋の旦那は学があるから何か分かるかも」とそこに持ち込み
その米屋の旦那が、亀井南冥と親交があったため亀井が鑑定することとなり、
その鑑定で古代超一級の史料であることがわかったのです。

発見された時の様子ですが、金印の回りを石で囲ってあり、更にその上に大き
な石を置いて、蓋をした形になっていたとのこと。この埋め方は、まるで何か
ひじょうに大事な建物(大規模な祈祷所か大王クラスの人の公邸)の結界を
作るために、超貴重な宝物をそこに埋めた、というもののようにみえます。

少なくとも以前私がひょっとしたらと書いた「誰かに襲われて緊急に埋めた」
というのはあり得ません。明らかに意図してきちんと埋めたものです。

志賀島というと全国綿津見神社の総本社である志賀海神社があるのですが、こ
の神社は金印発見の場所からかなり離れています。しかし志賀海神社を作った
安曇一族が入る前にここにいた勢力(つまり奴国なのでしょう)の礼拝所は
ここにあったのかも知れません。

推古天皇30年(622)2月22日、聖徳太子が斑鳩宮で薨去しました。(上宮聖徳
法王帝説の日付。日本書紀では推古天皇29年2月5日の薨去とされる)

聖徳太子は上宮聖徳法王帝説では敏達天皇3年、聖徳太子伝略では同元年の
生まれとされています。日本書紀によれば母の穴穂部間人皇女が厩(うまや)
の前で産気づいて皇子を産み落としたため、厩戸(うまやど)皇子と呼ばれた
とのこと。父は敏達帝の弟の豊日皇子(後の用明天皇)です。以下一応帝説の
ほうの誕生年を採用して解説します。

なお下記は昨年の9月4日版にも掲載した系図ですが再掲しておきます。
(当幅のフォントで見て下さい)

     蘇我稲目                 継体天皇
      |                    |
   +−−+−−+               +−+−−+
   |     |               |    |
   |   小姉君===============欽    |
   |        |   蘇我稲目     明   宣化天皇
  蘇我馬子      |    |       天    |
   |        |   堅塩姫======皇====石姫
   |        |        |     |
 +−+−+   +−−+−−+  +−−+−−+  |
 | | |   |  |  |  |  |  |  |
 | |河上  崇峻 穴穂部 間人 用明 桜井 推古 敏達
 | | 娘==天皇 皇子  皇女=天皇 皇子 天皇=天皇====広姫
 | |             |   |    |    |
 |刀自古==========聖徳太子  |   貝鮹姫  彦人皇子
 |        |          |(聖徳太子妃)  |
 蘇我毛人    山背皇子        |      +−−+−+
 |                 吉備姫王===茅渟王    |
 蘇我入鹿                  |         |
                 +−−−−−+−+       |
                 |       |       |
                孝徳天皇   斉明天皇=====舒明天皇
                            |
                        天智天皇・天武天皇

厩戸皇子は14歳の時に蘇我と物部の戦争に参戦。劣勢になっていたところを
急ぎ白木で四天王の像を彫り、それを掲げて先頭に立って戦いました。それ
により蘇我軍は士気を回復、物部を倒すことができました。聖徳太子はこれ
に感謝して、後に大阪に四天王寺を建立します。これは現存する最も古い
お寺です。

この蘇我・物部戦争の結果を受けて即位した崇峻天皇は5年で倒れますが、
その後は当然、厩戸皇子が天皇の位に就く番でした。しかし皇子は即位せず
代わりに伯母の額田部皇女(豊御食炊屋姫)を天皇に立てて、自らは摂政と
なって政治を執りました。

聖徳太子の治世に日本という国の政治体制の基盤が築かれたといっても過言
ではありません。十七条憲法を定めて天皇が日本全体の支配者であることを
http://www.ffortune.net/social/history/nihon-nara/17kenpo.htm
宣言すると共に、冠位十二階を定めて身分の上下を制度として明確にし、又
その地位は天皇の意志に基づくことも明確にしました。ここにおいて、日本
は「天皇を中心に豪族たちが集結してなんとなく統治されている地域」から
「天皇が統治する独立国」に変身したといっても良いでしょう。

蘇我物部戦争で物部が滅び、崇峻天皇の失脚でそれを支えていた大伴も弱り、
中臣はまだ充分な力を付けていなかったこの時期、蘇我の卓越した軍事力が
この大改革を抵抗なく各方面に受け入れさせたのでしょう。ただし、本当に
各豪族が天皇に服従するようになるのは壬申の乱以降の天武持統朝の時代で
あるともいいます。しかし種を蒔いたのは聖徳太子です。

また聖徳太子はそれまでの朝鮮中心の外交方針を改め、中国と直接交渉する
ため、腹心の小野妹子を隋に派遣し、煬帝に面会して返書をもらってくるこ
とに成功します。これで中国の進んだ文化が直接日本に入ってくるようにな
りました。小野妹子は2度にわたって隋に赴いています。(中国側の記録で
は、この最初の遣隋使とされる607年の前にも1度使節が来ている。準備使節
の類か?)

また聖徳太子は仏教を重視した蘇我の流れを更に押し進め、自ら仏典の講釈
をするなど仏教に深い理解を示し、義父でもある蘇我馬子とともに四天王寺
や法興寺、また法隆寺の元となる寺などを造りました。

昨日法隆寺の五重塔の支柱が現在歴史上の定説として法隆寺が建立されたと
されている年代より100年も古い594年(推古2年)であったことが明らかになっ
たとの報道がありました。実際その頃から塔の建立の準備も進めていたので
しょう。この聖徳太子に認められて、玉虫厨子などを制作した天才仏師が
司馬鞍作止利(とり)です。司馬一族は秦河勝らの秦一族と並ぶ、聖徳太子の
ブレーンのようです。日本最初の出家者もこの止利の叔母です。

聖徳太子の主な活動期間は610年頃までで、その後は政治は蘇我馬子に任せて
自らは仏教の世界にのめりこみ、瞑想にふけることが多かったともいいます。
そして推古天皇が亡くなる前に死去し、結局自ら皇位にあがることはありま
せんでした。

聖徳太子の妃は多数いたようですが、その中の主な人が4人います。まずは
この人が一応正妃ということになるかと思いますが推古天皇の娘の貝蛸皇女。
ただし、この人は早くに亡くなったと思われ、推古天皇は後に孫の橘女王を
太子と結婚させています。

貝蛸皇女と並んで重要なのが蘇我馬子の娘で蘇我毛人の同母妹である刀自古
郎女(とじこのいらつめ)です。太子は貝蛸と刀自古という二人の妃による
姻戚関係で推古天皇・蘇我馬子の両方と密接な関係を維持し、強力な政権を
確立していたものと思われます。刀自古は推古天皇没後に次期天皇候補に
あがった山背(やましろ)皇子の母です。

そして4人目の妃で、聖徳太子が最も愛したと伝えられるのが膳部菩岐岐美
郎女(ほききみのいらつめ)です。聖徳太子の崇敬者である膳部傾人の養女と
いうことになっているのですが、これは彼女が身分の低い家の娘であった為
皇子とそのまま結婚するわけには行かず、膳部傾人に頼んで養女にして貰い
結婚したといわれます。

そしてこの菩岐岐美姫は聖徳太子とほぼ同時に亡くなっています。帝説では
21日に姫が亡くなり、22日に太子が亡くなっています。最愛の姫がなくなっ
たことで精神的な緊張の糸が切れてしまい、太子も力つきてしまったのでは
ないかとも言われています。(逆に太子が亡くなった翌日に姫が亡くなった
という説もあるようです)

1972年2月21日、アメリカのニクソン大統領が中国を訪問し、両者の間には
急速に雪解けのムードが漂い始めました。

第二次世界大戦を契機に諸外国に支配される状態から脱出した中国は戦後、
国民党勢力と共産党勢力の闘争が表面化。結局毛沢東らに率いられた共産党
が事実上勝って国民党は台湾に逃れ「中華民国」を存続させる一方、共産党
は中華人民共和国を設立して、大陸部を支配しました。

しかしアメリカや西洋諸国は共産主義の拡散を恐れ、この中華人民共和国を
公認せず、国連の議席も中華民国(台湾)にのみ与えられていました。

これに対して1960年代の文化大革命が一段落した中華人民共和国は各方面か
ら国連への加入を画策、やがて1971年10月国連総会で「アルバニア型決議案」
が承認されて、中華人民共和国が国連に「復帰」すると共に安全保障理事会
の常任理事国の地位も、中華民国から中華人民共和国に移動させられました。
これに対して中華民国は国連を脱退、完全に入れ替わった形になりました。

ニクソン訪中はこの流れの中にあるものですが、それまで反共思想から中華
民国一辺倒だったアメリカの軟化を促したのが有名な「ピンポン外交」です。

1971年4月、日本で行われた世界卓球選手権大会に、アジア卓球連盟会長であ
った後藤コウニ氏の努力で、潜在的には世界一の実力を持つと言われていた
中華人民共和国の選手団を招待することが実現します(後藤氏は中華民国の
反撃により、決定直後辞任)。その大会の期間中に一人のアメリカ人選手が
寝坊して、会場に行く自分の国の選手団用のバスに乗り遅れてしまいました。

焦って、宿舎前で立ちつくして困っていた彼の前に偶然止まったのが中華人
民共和国の選手団を乗せたバスでした。会場へ行くなら乗せてってくれ、と
いう彼に中国選手団は快諾。そして彼は会場に着くまでの間に中国選手たち
と、同じ卓球選手同士ということで、すっかり打ち解けてしまいました。

そしてこのことがきっかけになり、両国選手団の間に交流が発生。この大会
の最終日の4月7日、中国選手団はアメリカ選手団をぜひ中国に招待したいと
いう声明を発表して、世界中を驚かせました。

この中国選手団の積極的な動きを影で支えていたのが当時事実上中国を切り
盛りしていた周恩来首相であるといいます。彼は対アメリカの動きに消極的
な毛沢東主席を説得し、選手団を後押ししてこの招待を実現させました。

アメリカ選手団は日本での大会が終わると、そのまま4月10日、中国に渡り、
北京で親善試合を行いました。「ピンポンの玉は軽いが、友情の重みは図り
知れない」という両国のコメント。そしてその秋の中国国連復帰を経て1972
年2月、ニクソン訪中となるわけです。ニクソンは周恩来・毛沢東の両首脳
と会談、米中平和五原則を27日発表しました。

これに対して「頭越し外交」をされて焦った日本は9月に田中角栄首相が訪中
し、日中共同声明を発表して国交回復を実現しました。しかし中国にとって
はこの日本の「焦りからの暴走」は非常に力になりました。なにしろ肝心の
アメリカとの国交回復が実現したのはこのニクソン訪中から6年もたった1978
年でしたので。結果的に日本は中国の隣人としての役割をきちんと果たした
ことになります。

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