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4月7日は法然上人の誕生会が行われます。

法然上人(1133-1212)は浄土宗の開祖とされている人です。これは浄土宗の
諸派が全て法然上人の弟子・孫弟子等々から始まっているためです。

浄土仏教の元祖は空也上人(903-972)まで遡りますが、浄土系の仏教が大き
く飛躍するのは鎌倉時代の始め頃からになります。

平安時代の末期、既成の仏教ではしばしば仏教を広めるために、仏教に帰依
すれば極楽浄土へ行けるが、帰依しなければ血の池や針の山などのある地獄
へ落ちるといった論法が行われていました。それはそれなりに効果があり、
京都の公家たちが多数信者になり、お寺への寄進も多数ありました。

しかし、お寺への寄進などする余裕のない一般大衆はこの救済システムから
疎外されていました。ここで出てきた法然・証空・親鸞らの浄土系仏教の伝
道者たちは阿弥陀(あみだ)が全ての人々を救済するまでは自分は仏になら
ないといったという阿弥陀の本願を頼りとし、その阿弥陀様に帰依する心を
持って「南無阿弥陀仏」と一心に念仏を唱えれば必ず救われるということを
庶民に広めたのです。

この分かりやすい教えのため、浄土系仏教は大きく発展していくことになり
ます。

法然は美作国(岡山県)の生まれで、13歳の時比叡山に登り、源光の許でオ
ーソドックスな修行を積み、18歳の頃には多くの経典を読破して優秀な学僧
として将来を嘱望されます。

しかしそのころから法然はほんとうにこのような教えで人々を救済すること
ができるのであろうか?と疑問を持ち、やがて源光の許を辞して黒谷の叡空
の所に移ります。ここには当時多くの無冠の聖たちが集まり、厳しい求道の
思索にあけくれます。法然は黒谷で20年以上過ごすことになりますが、この
間今までにも増して色々な仏典を読み、また一般大衆の集まる祈祷所などに
赴いて人々と触れ合い、段々彼の思想は形としてまとまっていきました。

彼は特に中国の善導の思想を重視しました。それは、極楽浄土への往生を一
心に願い、常に念仏をしていれば、必ず阿弥陀仏がその者を救ってくれると
いう思想でした。

1175年、法然43歳。時は満ちました。法然はこの思想を元に一派を立て、教
化を始めます。その拠点にしたのは京都東山の吉水に立てた小さな庵でした。
彼の教えはそのわかりやすさから多くの人々の帰依を受けることになります
が、それは既成の仏教教団にとっては非常に危険な思想でもありました。そ
のため彼は弟子たちともども激しい弾圧を受けることになり、とうとう1207
年に「建永の法難」が起きます。

二人の弟子が死罪になり、法然及び数人の弟子が各地に流罪になりました。
しかしこれは結果的には浄土系仏教を全国に広めることになります。

法然は死の直前になってやっと許されて京都に戻り、数人の弟子に看取られ
て大往生をとげます。そして彼の弟子の証空がその遺志をついで更に念仏を
広め浄土宗西山派の基礎を作ります。この証空の教えは京都の公家たちにも
広く支持を得ました。

また法然と同時に流罪になっていた親鸞は京都に戻らず関東に赴いて浄土真
宗の基礎を作ります。なお法然の入滅の地に源智が廟を建てて供養したのが
現在の知恩院の始まりです。

4月2日 図書館記念日

さて、実は図書館記念日というのが2説に分かれています。それはひとつがこの
4月2日で、もうひとつが4月30日です。

いづれも明治5年4月に湯島の昌平こう講堂跡に「書籍館(しょじゃくかん)」
という日本初の近代図書館が設立されたのを記念するものです。この書籍館は
その後明治18年に上野に移転し、のち帝国図書館と改称、更に戦後は旧憲法下
の貴族院・衆議院の図書館と合併して「国立国会図書館」という名前に変わり
ました。現在の書籍収録点数は700万冊弱という、日本最大の図書館です。

現在国立国会図書館の本館は永田町の国会議事堂の隣ですが、上野の方は国会
図書館支部上野図書館という名称になっています。現在の建物は明治39年に建
てられた優雅なもので、2000年5月5日に国立国際子ども図書館として生まれ変
わりました。

さて、この書籍館の設立の日ですが、幾つかの文献を見た限りでは全て4月2日
と書いてあります。新暦換算したのかな?とも思ったのですが、明治5年4月2日
は新暦に直すと5月8日になってしまいました。4月30日説の方はよく分かりま
せん。ひょっとして2日に設立されて30日から一般開放されたのかな?とも思っ
たのですが、「現代こよみ読み解き事典」でも4月30日を図書館記念日にする
のはやはり「東京書籍館」がこの日に設立されたからである、と書いてありま
すので、やはりこの事情は分かりません。

なお近代図書館に限らず図書館の歴史を紐解くと、公共図書館の最初は770年
頃に石上宅嗣が設立した芸亭(うんてい)、文献上残っている最初の図書館は
702年に大宝律令によって設立された「図書寮」であるとされます。

「炎の画家」フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh)は
1853年3月30日ベルギーとオランダの国境付近ブラバント地方のフロート・
ズンデルト(Groot-Zundert)村に生まれました。父は牧師でした。

16歳の時に画商を営む叔父の会社に入り、最初ハーグ、それからロンドンで
勤務します。ロンドン時代に下宿先の娘に恋をしますが失恋。その後パリに
異動しますが、この頃から仕事をさぼるようになり長期の無断欠勤をして解雇。
一時は牧師を目指しますが古典の勉強に根を上げて挫折。正式の資格が取れ
ないまま伝道生活を続けますが27歳(1880)頃には画家になりたいという気持ち
が強くなってきたといいます。その頃から1886年頃までが彼の第一期です。
代表作は1885年の「馬鈴薯を食べる人々」。

29歳の時ハーグで絵のモデルを務めていたシーン(クラシナ・ホールニック)
と同棲しやがて子供ができますが、翌年には関係が悪化して離別。31歳の時
にはヌエネンで8歳年上の女性マルホット・ベヘマンと愛し合い結婚するつも
りでしたが周囲の反対で破局。相手は自殺未遂を起こす騒ぎがありました。
そして1885年には「馬鈴薯を食べる人々」のモデルの一人ホルディナ・デ・
フロートが妊娠し、その父親がゴッホであるという噂が立ち、ヌエネン村の
司祭は女性たちにゴッホのモデルとなることを禁止する通達を出しました。
そこでゴッホは村を離れアントワープ、そしてパリに移りました。ここから
彼の第二期が始まります。

パリで彼はベルナールやゴーギャン、トゥールーズロートレックなどと親しく
付き合い、一時は美術学校にも行くのですが授業になじめずすぐにやめてい
ます。パリでは弟のテオの家に同居。彼の生活費は実は以前からこのテオ
から出ていたのでした。この頃から彼のキャンバスは明るくなってきます。
この時代の代表作は1887年の「モンマルトルの畑」です。

しかし彼は次第に弟に多大な負担を掛けるのが申し訳なく思うようになり、
またもっと暖かいところに行きたい気持ちも出てきて、1888年アルル地方に
移動します。しばらくホテルに滞在したあと同年5月「黄色い家」に定住。
ここでゴーギャンと共同生活を送りながら制作活動を行いました。ゴッホ
にとってもっとも精神的に充実した日々であったかも知れません。これが
第三期。黄色い家にいた15ヶ月の間に「アルルの跳ね橋」「向日葵」など
をはじめ200点もの作品を制作しています。

1888年12月。ゴッホとゴーギャンは互いの肖像画を描き合おうということに
なり、ゴーギャンは「向日葵を描くゴッホ」を制作。しかしその絵を見た
ゴッホは自分の中に何か異常なものを見いだし、思わずゴーギャンにグラス
を投げつけました。そして12月23日。彼は発作的に自分の耳を切り落としま
す。ゴーギャンは二人の生活が破綻したことを知り、黄色い家を去りました。

翌1889年1月、耳の怪我の治療を終えて黄色い家に戻りますが、病的な発作が
度々彼を襲いました。3月、市長が市民からの要請にもとづきゴッホを監禁
することを決定。5月、サンレミの精神病院に入院します。そしてその後、
制作を続けながらも何度も精神錯乱に陥ったりしました。このサンレミ時代
以降が第四期になります。「糸杉」などの名作があります。

翌1890年7月27日オヴェールでピストル自殺をはかりますが急所をはずれて
即死には至りませんでした。いったん宿に戻りますが結局29日午前1時30分
弟のテオなどに看取られて死去。享年37歳。

翌年にはテオが兄の後を追うように死去し、ゴーギャンはタヒチに旅出ち
ました。

第101代天皇・称光天皇となる躬仁(みひと)親王は後小松天皇の皇子として
応永8年(1401)3月29日に生まれました。

親王は応永18年に立太子し翌19年践祚して天皇となりました。この立太子・
践祚はひじょうに重要な意味を持っていました。

親王の父の後小松天皇ははじめ北朝の第6代天皇として即位しましたが、明
徳3年(1392)南朝の後亀山天皇(99代)が三種神器を後小松天皇に譲り、ここ
に南北朝の統一がなり、後小松天皇は第100代天皇となるわけですが、この
時、天皇は北朝側・南朝側から交互に出すという約束がなされました。その
約束を守るのなら、本当は後小松天皇の後継者は後亀山天皇の皇子でなけれ
ばならなかったはずです。

しかし、そもそもこの時後亀山天皇が三種神器を譲ることを決意した背景に
は、南朝側の支援者が少なくなって、もうこれ以上の足利政権への抵抗が
不可能になってきたことによるものでした。そのため、約束はしたものの、
本当に守ってくれるかは「期待」でしかなかったのですが、その期待は称光
天皇の即位により完全に打ち砕かれたことになります。ですからこの時点で
南朝の夢は完全についえたことになります。

さて、本来はここで称光天皇の子孫が天皇家を継いでいければ言うことなか
ったのですが、この天皇は仏教に深く帰依し、身を潔斎して決して女性を
まわりに近付けようとしませんでした。そのため天皇には跡継ができず、
更に28歳で若死にしてしまいます。

そこでまだその時点で在命していた後小松上皇は北朝第3代天皇・崇光天皇
の曾孫の彦仁親王を後継者に定め、第102代天皇としました(後花園天皇)。
ここでもまた南朝は無視されてしまい、以後は後花園天皇の家系が天皇を
継いでいき現代にまで至っています。

なお、禅僧として名高い一休宗純は称光天皇の兄に当たります。

慶応4年(1868)の3月28日、維新政府は神仏混淆を禁止し、寺院と神社を分離
するように命じる神仏判然令を出しました。

神仏混淆は元々、神道を信仰する一般大衆に仏教を広めるために仏教の末端
の伝道師たちが「神様も仏様も実は同じもの」などと言って進めたのが始ま
りであるともいわれます。

元々八百万の神様を信仰していた日本人はそこに少々別系統の神様達が加わ
っても霊験さえあれば比較的容易に受け入れたことは想像に難くありません。
例えば病気になった人のところに薬草の知識が豊富な山伏が訪れ、薬を調合
した上で不動護摩などをおこなったりして顕著な回復が見られれば、それは
「お不動さまのお陰だ」ということになって仏様への信仰が生まれたでしょ
うが、だからといって以前から信仰している地域の神様への礼拝を怠ること
はなかったと思います。

また雷や台風で折れてしまった御神木をそういった山伏たちが観音や地蔵と
して刻み、神霊の宿った仏像として信仰されるようになるといったケースも
あったであろうといわれています。

日本人にとって「宗教」とは西洋の「religion」とはかなり異なった性格を
持っています。

このような雰囲気を更に進めるきっかけになったのが八幡や稲荷などの信仰
でした。奈良東大寺の大仏を建造する際、八幡神を信仰する帰化人の一派が
技術協力をし、このため、八幡神は仏教側から「八幡大菩薩」の号を受け、
代わりに八幡神も東大寺の鎮守に入りました。現在でも東大寺の境内には
ちゃんといくつかの神社が祭られています。また弘法大師の時代に東寺の
ために稲荷山の山の木を切ったところ祟りがあったため、東寺側が稲荷の神
にお詫びをし、その後真言宗と稲荷信仰とは一緒に全国に広まったともいわ
れています。

平安時代の末期頃には仏教界と神道界も共存のための妥協を行うようになっ
ていました。お正月を神道中心にお祭りする代わりにお盆は仏教中心にお祭
りするようになり、子供が生まれた時は神社にお参りして、人が亡くなった
時は坊さんが来てお経をあげる、などといった形で両者は宗教的行事を折半
していきます。春分・秋分もお寺でお彼岸の行事をして神社では社日の行事
をします。

鎌倉時代頃は禅宗・浄土系諸宗の積極的な活動もあり仏教側がかなり優位に
立ち、神は仏が仮にあらわれたものとする「本地垂迹説」なども唱えられま
したが南北朝時代に吉田兼倶が登場して吉田神道を興し、神道側も理論武装
して仏の本体は神であるという「逆垂迹説」を唱える人も出ました。その後
江戸時代になると林羅山や吉川惟足などにより儒教の要素も加えた思想など
も加わって複雑な様相を呈してきます。

しかしキリスト教対策から江戸幕府は全ての人が必ずどこかのお寺の檀家に
ならなければならないという制度を推進し、これが宗教界を沈滞させてしま
いました。元々はキリスト教も「たくさんある神様のひとつ」として受け入
れていた日本人でしたが桃山時代その勢力がかなり強くなってくると本願寺
や比叡山などと同様弾圧を受けるに至ります。そしてキリスト教徒が厳しす
ぎる年貢の取立てに反発した農民たちと一緒に起こした島原の乱にショック
を受けた幕府は、その後キリスト教に対して厳しい禁令を敷きます。そして
キリスト教徒を締め出すために国民を全員仏教徒にしてしまおうという政策
を取ったわけですが、色々な問題を引き起こします。

お寺側では国家的に優位性が認められたことで安住してしまい、布教活動が
停滞して活力を失うことになります。神社側でもお寺に従属するような立場
になって苦渋を味わいます。元々はお寺にはその境内を鎮護する神社があり
神社にはその神を護る神護寺があったわけですが、江戸時代も中期をすぎる
と、僧と神官が兼任になり、神事は下級の僧が行う、となどといったことが
普通になっていきました。そして人々が強制的にお寺に所属しなければなら
ないということから、お寺の僧の中には権勢を笠に着てかなり横暴なことを
する者も出てきました。

しかし、明治維新になって幕府の治世が終わると、維新政府は新しい国には
新しい宗教が必要であると考え、新しく国教を定めようとしました。この時
西洋の国にならって、日本でもキリスト教を国教にしようという意見も出た
らしいのですが、多数派を占めるにはいたらず「国家神道」が構築されてい
くことになります。そして手始めに、まずお寺と神社を明確に分離しようと
いう意図で出たのが、この神仏判然令なのですが、これは政府の意図を越え
て破壊的広がりを見せ、全国的な廃仏毀釈運動を起こしてしまいます。

それまで大きな顔をしていた僧たちに反感を覚えていた民衆が神仏判然令を
「寺を廃し仏像は破壊せよ」と拡大解釈して寺を襲撃するという事態が全国
各地で生まれました。最近タミールで起きたようなことが日本全国で起きた
わけです。この時期にずいぶん多くの貴重な仏像が或いは破壊されあるいは
海外に流出してしまいました

明治政府も民衆の過熱に驚き、寺を廃せよなどとは言ってない、という布告
を出したりして対応しますが、沈静化にはかなりの時間を要しました。

現在寺と神社が隣り合ってその間に何とも変な形の境界線の塀が築かれてあ
ったりするところがあるのはこの神仏判然令の後遺症です。またお寺のよう
な山門があって中に神社があるところ、神社で梵鐘を持っているところなど
も残っていますが、これは神社とお寺が一体になっていたものの、お寺側が
廃された結果です。

「国家神道」は仏教側にも深刻な打撃を与えましたが、神道側にもかなりの
打撃を与えています。政府が欲しかったのは政府の政策に忠実になってくれ
る臣民ですから、別に神社を保護したわけではなく、それをベースにひとつ
の新たな宗教を創ろうとしたようなものですから多様な信仰はむしろ邪魔で
した。

政府はひとつの村に神社は一つだけにせよ、という布告を出し、更に神社が
持っている土地で、直接祭祀に関わりのないものは全て手放すように命じた
りして、このため多くの神社が廃止統合され、神社の鳥居が境内からずいぶ
ん離れた場所に建っているという事態が数多く引き起こします。更には全国
の神社に調査官が派遣されて多数の神社で御祭神の書き換えが行われました。
このため現在では本来の御祭神が何であったのか分からなくなってしまった
神社も多くあります。また国に忠実でないとみなされた宗派は大本教などの
ように厳しい弾圧を受けたりもしています。

仏教・神道が本来の宗教としての姿に復帰できるのは戦後の宗教の自由化を
待たなければなりませんでした。


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