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3月27日 仏檀の日

3月27日は仏檀の日です。

これは天武天皇14年(685)3月27日に詔があり「諸国の家ごとに仏舎を作り、
仏像と経典を置いて礼拝供養せよ」とあったのにちなんだもので、全日本
宗教用具協同組合が制定しました。

この天武天皇14年は天皇が亡くなる前年にあたります。この年はこの詔のほ
か、山田寺の丈六の十一面観音像の開眼もあり、初めて宮中に僧侶を入れて
安居をし、また更に伊勢神宮の式念遷宮を定めるなど宗教的な政策の多い年
のようです。今につながる天台宗総本山三井寺が出来たのもこの翌年です。

さて、「ぶつだん」に仏壇と仏檀があることをご存じでしょうか?

基本的にはお寺の大きな仏像が乗った壇のことを仏壇といい、檀家が家の中に
祭るものを仏檀といいます。こちらは「京仏檀」などといった形で使用されて
います。ところが音が同じであるためにこれが近年混同されてしまい、中には
「仏壇仏具店」と書くお店なども増えてきています。電話帳でみると仏壇店・
仏檀店の両方が入り乱れているようです。

しかし家の中に仏壇が存在したら、本当はそれは余程大きな家ということにな
ります。また宗派によっては「仏壇に位牌を置いてはいけない」と言うのです
が、これは仏壇というのは仏像を置くためのものなのですから、位牌を置いて
いいはずがありません。位牌を置くのは本来、仏檀のほうなのです。

ドイツ3大Bの一人であり、交響曲という音楽形式の完成者であり、耳が不自
由というハンディキャップを乗り越えて音楽活動をし、楽聖とうたわれた人、
ルードウィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1827年の3月26日に亡くなりました。

ベートーヴェンが生れたのは1770年12月16日、ボンでした。音楽家の父にスパ
ルタ教育を施され、彼もそれに答えて14歳で宮廷オルガン奏者助手に任命され
るなど早熟な所を見せます。

少年時代のベートーヴェンは一度ウィーンのモーツァルトの前で演奏していま
す。その時モーツァルトはいつになく真面目な顔で「諸君この少年を記憶して
おきたまえ」と言ったと言われています。

ベートーヴェンが本格的にウィーンに進出したのはそのモーツァルトの亡くな
った翌年でした。ハイドンやサリエリらについて高度な勉強を続け、多数の貴
族の子女の音楽家庭教師となって安定した音楽活動を行うことができました。

しかしその彼が25歳の時から耳の病気に悩まされはじめます。苦しみながらも
「悲愴」「月光」などのピアノソナタを書き続けますが、耳はどんどん聞こえ
なくなっていき、とうとう1802年10月6日ウィーン郊外のハイリゲンシュタット
で、二人の弟に宛てた遺書を書きました。(ハイリゲンシュタットの遺書)

しかし彼はここで自殺しませんでした。美しい自然にあふれるハイリゲンシュ
タットの空気が彼の心を癒やしたのでしょうか。ピアノソナタ「熱情」を皮切
りに、「交響曲5番運命」「交響曲6番田園」などの名曲を書き上げます。耳が
聞こえなくても彼の心の中にはいつも美しいメロディーが流れていたに違いあ
りません。その心の中のメロディーの極致が「交響曲9番合唱付き」でしょう。

この第九交響曲の初演はベートーヴェンが一人で指揮をしましたが、その素晴
らしさに観客が興奮、途中から激しい拍手をしたといいます。しかしベートー
ヴェンはそのことに気が付かず、見かねたアルト歌手のウンガーが手を添えて
振り向かせてやったとのことです。

【第九の呪い?】

交響曲という音楽形式を考案したハイドンは77年の生涯に108個の交響曲を書き、
次の世代のモーツァルトはその半分の35年の生涯に41個の交響曲を書いています。

ところがその次の、交響曲を完成させたといわれるベートーヴェンは56年の生
涯にわずか9個しか交響曲しか書いていません。ベートーヴェンは一応第10交響
曲の構想もあり、それも合唱付きになるはずだったそうですが実現しないまま
逝ってしまいました。

さてベートーヴェンの次に出てくるのはシューベルトですが、彼は8個の交響
曲を書いた後、最高傑作の「未完成交響曲」をまだ第三楽章までしか書いてい
ない内に尊敬するベートーヴェンの死の知らせを聞いたショックでわずか31歳
で死んでしまいます。

この辺りから『交響曲9番を書くと死ぬ』という噂が立ち始めました。そして
その「噂通り」に「交響曲9番新世界より」を書き上げたドボルザークもその
まま次の交響曲を書かないまま亡くなります。

この噂にビビったのがマーラーでした。彼は9番目の交響曲を書き上げた時、
これで死んでたまるかと考え、その交響曲に番号を付けず「大地の歌」という
タイトルにしました。

しかし9曲目を書いても死ぬ気配がないので、安心して第9交響曲を書き上げ
ますが、第10交響曲を書いている途中で亡くなってしまいます。(現在マーラ
ーの10番は彼の遺稿を再編して演奏されています。)

このジンクスを打ち破ったのは現代の天才ショスタコビッチでした。彼は68年
の生涯に15個の交響曲を完成させています。

明応8年(1499)3月25日、現在の日本最大の宗教団体・浄土真宗の教団を確立し
た大宗教家、蓮如が亡くなりました。のちに慧燈大師の諡号をおくられます。

浄土真宗の中核寺院である本願寺はこれほど大きな宗教団体にしては珍しく、
開祖親鸞(1173-1262)の子孫が代々法灯を守ってきています。蓮如も親鸞の10
世の孫ですが、彼はすんなりと親のあとを次いで本願寺の法主の座についた訳
ではありませんでした。彼の父である本願寺7世存如には正妻の子もおり侍女
に産ませた子である蓮如にとっては不利でしたが、親類一同を巻き込む壮絶な
勢力争いを制して、本願寺第8世の座を手にしました。43歳の時です。

当時の本願寺というのは参拝する人も少ない寂れた寺でした。そのまた部屋住
みの身であった蓮如は若い日々を教義の研究に没頭していました。その一方で
は彼は27歳での最初の結婚以来、生涯で5人の妻に27人の子供を産せています。
そして本願寺の法主となると同時にその多数の子供を、男の子は各地の重要拠
点に派遣し、女の子は有力寺院などに嫁がせて、一気に全国的に浄土真宗の勢
力の拡大を図ります。これは当時の戦国の世において大名達が行っていた手法
を踏襲したものと言われます。

こういう強引な勢力拡大政策には当然他派の反発もあり、浄土真宗は多くの派
から攻撃されることになりました。しかし、しっかりした教義に裏打ちされ、
しかも熱っぽく分かりやすい蓮如の議論には他派の論客もかなわず、比叡山の
襲撃によっていったん京都を退いたものの、北陸を本拠地として庶民の支持を
えて農民たちの精神的支柱となり、大きく教団を成長させます。そして晩年に
は再び京都に戻って山科に本願寺を再建。85歳で大往生を遂げるまで精力的な
活動を続けました。

蓮如はこのように政治的に優れた宗教指導者であったのと同時に思想的にも高
いものを持った宗教家でした。彼は高い宗教的境地に到達したゆえに腐敗した
寺を嫌い野に寝起きした一休禅師とも深い交友がありました。俗を捨てて聖に
なろうとする心自体に民衆を切り捨ててしまう矛盾のあることを知る二人であ
ったが故に、どちらも大衆に人気のある宗教家でした。

蓮如の思想上の最大の功績は親鸞聖人の教えを分かり易く噛み下したことです。
現在真宗のお寺や在家信者が朝夕のお勤めに使用している「帰命無量寿如来、
南無不可思議光」で始まる正信念仏偈も蓮如がまとめたものです。

元暦2年(1185)の壇ノ浦の合戦が行われ、平家は滅亡しました。

治承4年(1180)に源頼朝・頼政らが平家打倒の兵をあげて以来5年、平家・源氏
の最終決戦で、この時の船の数が平家500艘、源氏700艘といいますので、死者
の数は5000人を優に越すのではないかと思われます。

戦闘は朝6時頃から始まります。

当初は海戦に慣れた平家がもう後が無い必死さも手伝って押しておりましたが、
昼頃潮が速くなりだすと平家と源氏の船がいたるところで接触。接近戦になって
源氏は次第に挽回し始めます。

また、当初平家方はわざと、いかにも貴人が乗っていそうに見える目立つ船を
おとりにし、実際の要人は小さな船に乗せるという目くらまし戦法をとってい
ましたが、これも時間が立つにつれバレてしまい、源氏はターゲットを間違え
ないようになってきました。

源氏が少しずつ挽回していくと平家方から源氏方へ裏切る者も相次ぎました。
そうして戦局はわずか1時間ほどで逆転してしまいます。

午後になると平家の者たちは敗戦を認識し、源氏の手にとらえられる前に死を
選ぼうとします。経盛と教盛、資盛と有盛、なども手をつないで一緒に水の中
へ消えて行きました。

御座船では二位尼(平清盛の妻で安徳天皇の祖母時子)がまだ8歳の天皇を抱
き三種の神器を身につけて入水しました。つづいて建礼門院(安徳天皇の母で
清盛と時子の娘、徳子)も飛び込んだのですが、彼女は衣服に飛んできた矢が
刺さって沈めずにいた所を源氏の武将に引き上げられてしまいました。

源氏は安徳天皇がいるにも関わらず後白河法王との合議により京都で既に擁立
していた新天皇(後鳥羽天皇)の地位を正統のものと天下に主張する為、三種の
神器の捜索を必死に行いました。しかし、勾玉と鏡は見つかったものの草薙剣
は発見できませんでした。そのため以後草薙剣は清涼殿昼御座の剣で代用する
ことになります。

日本のオカルティストたちの中には、ここで剣が皇室の手から失われたことが、
以後、剣の象徴である武士たちに政権を取られてしまったことを表していると
指摘する人が多くあります。

(一説では鏡は別の女官が持って飛び込もうとしていたところを源氏の兵に抱
き留められたとも。勾玉は波間に浮かんでいたのですぐに引き上げられたらし
い。なお草薙剣の本体はそもそも熱田神宮にあり、安徳天皇が帯同していたの
はその分霊です。同様に鏡の本体は伊勢神宮です。皇居に本体があるのは勾玉
だけで、京都が首都であった時にはこの3つの神器の所在地がほぼ正三角形を
構成していました)

あと少しの所で死にそこねた建礼門院はまだ29歳の若さでしたが尼となり、そ
れから30年間の余生を京都大原寂光院で送りることになりました。そこには
後白河法王も気遣って訪問して、彼女を励ましました。

激戦の地壇ノ浦ではその後、漁師は正座して釣りをするようになったといいま
す。その下に安徳天皇が眠っているからです。

放送記念日というのは幾つかありまして、2月1日のテレビ放送記念日、6月1
日の国際放送記念日、9月10日のカラーテレビ放送記念日、などがあります。

この3月22日のNHK放送記念日は、大正14年(1925)3月22日にNHK(当時東京
放送局)がラジオの仮放送を始めたのを記念し昭和13年に制定されたものです。

東京放送局は電機メーカーや新聞社などが共同で設立した社団法人で、初代の
総裁は東京市長や逓信大臣・満州鉄道総裁などとしても知られる後藤新平。
当時同様の動きが東京・大阪・名古屋で独立にあり、JOAK=東京放送局、JOBK=
大阪放送局、JOCK=名古屋放送局、とコールサインは決められていました。

この時期に放送局が相次いで産声をあげたのは大正12年(1923)の関東大震災
の反省があります。この時、多くの根もない噂(これは外国の攻撃らしいなど
といったもの)が飛び交い、そのために朝鮮系の人たちが襲撃されて命を落と
したりという事件が多数起きました。そこで、どういう時にでも瞬時に国民
に正しい情報を伝えるメディアが望まれたのでした。関東大震災の復興に東京
市長として尽力した後藤新平は、特にこの事業に乗り気であったでしょう。

東京放送局は最初3月1日に放送を始める予定でした。ところが購入するつもり
であった、当時国内に1台しか存在しなかった放送用の送信機が大阪放送局に
先に買い取られてしまいます。そこで東京電気研究所の送信機を借りて急遽
放送用に改造して使用することにしました。しかし逓信省の2月26日の調査で
「放送設備が未完成であるから3月1日からの放送は許可できない」と言われて
しまいます。開始予定日はもう3日後でした。

既に3月1日から放送を開始するということで新聞などにも流しています。そこ
で3月1日からの放送は「試験放送」ということにして、追って必要と言われた
設備を整備。改めて放送開始の許可を取って、3月22日「仮放送」にこぎつけ
ました。(試験放送ならそれ以前にも色々なところがしているらしい)

この日朝9時30分、京田武男アナウンサーの「JOAK。こちらは東京放送であります。
こんにちただいまより、放送を開始致します」という第一声に続き海軍軍楽隊の
演奏がありました。周波数は594KHz。10時には放送開始式が行われ、後藤総裁は
ラジオ放送の意義として次の4点を挙げました。

 (1)文化の機会均等。放送は地域・年齢性別に関係なく聞くことができる。
 (2)ラジオを取り囲んでの家庭内での団欒。外に行かなくても家で寄席などが聞ける。
 (3)社会人でも放送を通して教育を受けることができる。
 (4)経済機能の敏活化に寄与する。

当時の東京放送局は芝浦の東京高等工芸学校内の図書室に設けられていました
が、5月には愛宕山の現在放送博物館になっている地に正式の放送局が建築され、
7月12日に「本放送」が始まります。この7月12日は現在「ラジオ本放送の日」
になっています。なお6月1日には大阪放送局も上本町のスタジオから仮放送を
開始、7月には名古屋放送局もスタートしました。

3月の放送開始時点のラジオの受信契約者は5455人で、ラジオの置かれた商店
などの前には、毎日のように人が群がっていたそうですが、その年のうちに
聴取者は東京で13万人、大阪で5万人、名古屋で1.5万人にまで増えています。

当時はラジオを買うのにもいちいち役所の許可が必要でしたが、放送に対する
国民の期待度が推して計れます。このブームに乗ったのが大阪のシャープで
同社はこの年4月に鉱石ラジオを発売。飛ぶように売れて、シャープペンシルで
一時代を作った会社が新たなイメージを獲得しました。

なお、この年放送開始した3つの放送局は翌年8月20日、合併して日本放送協会
となります。その後の同協会のあよみは以下の通りです。

 1931.04.06 NHK第二放送開始
 1950.06.01 社団法人から特殊法人に改組(放送の自由化に伴う)
       この時GHQの指導でアルファベット3文字の略称を決めるよう
       いわれ NHK の名前が生まれる。
 1953.02.01 テレビ放送(総合)開始
 1959.01.10 教育テレビ開始
 1960.09.10 カラー放送開始
 1969.03.01 FM放送開始
 1984.05.12 衛星放送試験放送開始
 1985.11.29 文字放送開始
 1989.06.01 衛星放送本放送開始
 1994.11.25 ハイビジョン試験放送開始
 2000.12.01 BSデジタル放送開始


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