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1220年の3月17日、モンゴル帝国の太祖チンギス・ハン(ジンギス・カン)は
シルクロードの要所サマルカンドを陥れました。

チンギス・ハン(1167?1155?-1227)は現在のヘンティケン付近で生まれ、幼名を
テムジンといいました。1206年頃にモンゴルを統一、当初中国を侵略しますが、
1219年から西方へ戦線を転換、西遼及びコラズム、そして西夏を滅ぼしてシル
クロードを手中に収めます。

チンギス・ハンは1227年西江で死去しますが、彼の子孫たちは更に領土を拡大、
孫の世祖フビライ・ハーン、パトゥ・ハーン、フラグ・ハーンはそれぞれ中国、
ロシア、ペルシャに元、キプチャク汗国、イル汗国を建てました。こうして、
ユーラシア大陸の3分の2ほどのモンゴル大帝国が築かれます。

彼の生涯を元にして書かれた小説が井上靖氏の「蒼き狼」です。

【チンギス・ハン=源義経説】

チンギス・ハーンは源義経と同一人物であるという説があります。この説は
荒唐無稽であると切り捨てる人も多いのですが、結構面白い説でもあります。

源義経は1159年生まれですので、ちょうどテムジンと年齢が一致しています。
彼が奥州で藤原一族に殺されたのが1189年となっていますので、この時密かに
逃れてモンゴルで兵を上げ、1206年モンゴルを手中に収めたとすれば年代的に
もつじつまの合わないことはありません。また源義経という文字を中国読みし
ますと、yuan-yi-jing となり、これが「テムジン」という名前と似てないこと
もない、という人もあります。

源義経がチンギス・ハーンになったという伝説では、義経は藤原兄弟と図って
義経襲撃のお芝居をし、身代わりの首を残して主従は頼朝の追求のないもっと
北方へと旅立ちます。八戸付近で彼を追ってきた妻の一人浄瑠璃姫と合流し、
津軽半島から蝦夷地に渡り、さらに樺太を通ってシベリヤへ渡り、やがてモン
ゴルに落ち着いたとします。八戸周辺および津軽の各地には現在も義経の足跡
が残っているようです。

古河財閥の祖・古河市兵衛は天保3年(1832年)3月16日、京都で生まれました。
幼名は木村巳之助といいました。木村家は代々の造り酒屋で庄屋も務めていま
したがこの時期は経営不振に陥っており、また市兵衛の生母は市兵衛が幼い頃
に亡くなったのですが、育ての母との仲はあまりうまく行かず早い時期に家を
出ることを望み、9歳の頃からあちこちに丁稚奉公に出ます。

18歳の時に名前を幸助と改め、叔父のいる盛岡に赴いて南部藩の御用商人・
鴻池伊助店に勤めますがまもなく倒産。しかしたまたま盛岡を訪れていた京都
の組糸店の番頭・古河太郎左衛門が彼の才能に目を付け養子にして京都に連れ
帰ります。ここで彼は名を市兵衛に改め、この店・小野組糸店で働き始めます
が彼の働きで店はどんどん大きくなります。しかし明治7年、明治政府が経済
政策の変更を行ったあおりを受けて倒産してしまいます。

すると市兵衛はこの小野組糸店が所有していた新潟県の草倉銅山を翌年自分で
買い取り、鉱山経営に乗り出しました。その収益が上がってきたところで
志賀直道(小説家・志賀直哉の父)と共同出資で足尾銅山を買い取ります。

当時足尾銅山はもう掘り尽くされたとみなされていたのですが、陸奥宗光(後に
外務大臣)らの資金援助も受けて探掘を続けたところ優良鉱脈を2本も発見。
更には近代技術を積極的に導入して、この銅山を完全復活させました。彼は他に
も多数の銅山を開発し、明治20年頃には彼の経営する銅山からの銅産出量が、
日本全体の銅生産の4割を占めるほどに至ります。

彼はその掘り出した銅を精錬するため東京に1884年本所鎔銅所を設立。そこか
ら生まれる銅加工品を輸出することで海外市場を開拓していきました。そして
この銅を使った電線は明治後半、日本全体に電力配給のネットを広げていくの
に大きく貢献することとなります。更には彼は1890年には足尾銅山に水力発電所
を併設して、銅山の発掘作業の電化を進めました。

彼が作った銅山の経営会社は後に古河鉱業となり、現在は古河機械金属と改名
されています。本所鎔銅所はここと同年1884年に横浜の発明家・山田与七が設立
した山田電線製造所と合併して古河電工になっています。

さて市兵衛の晩年には思わぬ事態が待ち受けていました。

足尾銅山から出る排水が渡良瀬川流域に深刻な公害をもたらしていることが、
衆議院議員・田中正造らにより指摘され、政府は緊急に銅山側に対策を命じます。

細々とした工事の仕様が指定され、少しでも対策工事が遅れたら鉱山は営業停止
という厳しい指令を、渋沢栄一らの資金援助の元、彼は二代目となる古河潤吉
(陸奥宗光の次男で古河家の養子となった)とともにやり遂げました。結局は
この事件への対処で消耗して、市兵衛は1903年4月、71歳で亡くなっています。
また潤吉も同様にかなりの心労があったようで1905年12月、後を追うようにして
亡くなりました。なお、鉱山の経営母体を会社組織化して古河鉱業を設立したの
はこの潤吉です(副社長は後に首相になる原敬)。

その後、古河家は市兵衛の晩年の子である虎之助(母は市兵衛の愛人せい,また
この人の妻は西郷隆盛の弟・西郷従道の娘である不二子)が後を継ぎ、その後
4代目従純、5代目潤之助と受け継がれ発展してきています。またこのグループ
ではしばしば子会社が親会社より発展するという面白い現象が起きています。

1917年には古河銀行を設立。この銀行は後に第一銀行に合流しており現在はその
流れを汲むみずほコーポレート銀行が古河グループのメインバンクとなっていま
す。1923年にはジーメンスと共同で富士電機(フルカワ+ジーメンスでフジ)を
設立して電気機械の製作を始め、1935年にはその中から電話機や交換機を製造販売
する部門を「富士通」として分離しました。1939年には東京電灯(現東京電力)
と共同で日本軽金属を設立。銅の次世代の主力金属と思われたアルミニウムの
精錬事業に取り組みます。

このほかの古河グループの企業としては、古河産業、古河林業、横浜ゴム、
日本ゼオン、朝日生命保険、旭電化工業、ニフティなどもあります。サッカーの
JリーグでもJEF市原千葉が元々古河電工のサッカー部から発展したもので、また
川崎フロンターレも富士通のサッカー部から発展したものです。

なお4代目潤之助には男の子が5人おり、長男で古河家の継承者となった潤之助
が古河電工、次男久純が古河林業、三男正純が古河産業、四男建純がニフティ、
五男直純が日本ゼオンの、各々社長に就任しています。

古河市兵衛については以前は足尾銅山の鉱害を引き起こした人物として悪く書か
れることも多かったのですが、最近では本来の業績の方も評価され、全体的な
評価は以前より良くなってきているようです。確かに当時は公害などという概念
もなかったでしょうし、自然の浄化能力を過信しすぎていた面もあったでしょう。

むろんそれでこの鉱害により失われた多数の命に対する免罪をすることはできま
せんが。むしろ明治時代にこれだけ大騒ぎになった公害事件があったのに昭和に
なって再び水俣湾や阿賀野川などでの大規模な公害が発生するのを防げなかった
政府の体制にも問題がありそうな気もします。

明治28年(1895)3月15日、京都で平安遷都1100年の記念事業の一環として創建
されることになった平安神宮の御鎮座式がおこなわれました。これを記念して
平安神宮では毎年この日を中祭・桓武天皇御鎮座記念祭としています。

平安遷都が行われたのは「鳴くよ鴬」で794年(延暦13年10月22日)ですので、
1100年目は明治27年になるのですが、京都では明治25年に近衛篤麿公爵を会長
とする「平安遷都記念協賛会」を設立、様々な記念事業を始めました。そして
中でも中心になったのが、この平安神宮と内国勧業博覧会でした。

ここで問題なのは、平安遷都1100年といっても明治初年に首都は東京に移動し
てしまったのではないか?という問題なのですが、実はこれが実に曖昧なので
す。明治維新の時に尊皇派の人々は今まで江戸から将軍が全国に指令を出して
いた状況の中で混乱を最小限に抑えて天皇中心の世にするには、天皇自身が
江戸に行くのがベストであると考え、江戸を東京と改名、そちらに天皇と行政
機構も置こうとするわけですが、それには京都の人々の反発がありました。
そこで「東国は未開の地であるから、天皇が自らこれを指導することにする。
天皇が東京を訪問している間は行政機能も東京に置く」などという、移動政府
宣言を出しただけで、結局「遷都の詔」のようなものは出していません。

ですから法的には、明治維新から136年も経過した現在でも、日本の首都は
正式には京都であるというのが妥当な所で、東京はあくまで臨時の天皇の滞在
地であるにすぎないのです。

しかし法的にそうだといっても京都の人たちには天皇が東国に行ってしまった
という喪失感がありましたし、政府にも京都市民に対する負い目がありました。
そこで、この平安遷都1100年記念事業は、特に大きく支援された盛大なものと
なったのです。

当初の計画では平安遷都した時に実際に内裏があった場所に朝堂院をまるごと
復元しようということだったのですが、用地買収に時間がかかりそうであった
こととさすがに予算が足りなかったことで、大極殿と応天門だけを岡崎の地に
ミニサイズで復元することになりました。そして明治26年に着工し、同28年の
2月に完成。3月15日、無事御鎮座祭にこぎつけることとなりました。

そしてこの年4月1日からはこの岡崎の地で第4回内国勧業博覧会が開催され、
京都に久しぶりに活気が蘇りました。また同年10月25日には桓武天皇の時代か
ら今(当時)までの風物を一覧にする時代行列が行われ、結局これが今日の
「時代祭」の発端となっています。

3月14日はホワイトデーです。

2月14日のバレンタインデーにチョコレートをもらった男の子はこの日お
返しにホワイトチョコレートやマシュマロなど白いものを送ります。が実際
にはバレンタインデーが必ずしもチョコレートに限らないように贈り物は何
でもいいようです。

ホワイトデーを仕掛けたのは博多の老舗のお菓子屋さん、石村萬盛堂です。

昭和52年に何気なく女性雑誌を見ていたら「バレンタインデーにお返しが
無いのはおかしい」という投稿があり、そばにマシュマロの絵が添えてあり
ました。マシュマロならうちの商品ではないか!ということで、お返しはち
ょうど1ヶ月後が良いだろうと、その年の3月14日に福岡の岩田屋デパートで
マシュマロデーのキャンペーンを行いました。

これにチョコレート業界がホワイトチョコレートで乗っかって全国的に普及
したようです。

石村萬盛堂は最初博多名物の「鶏卵素麺」を作っていましたが、鶏卵素麺と
いうのは卵の黄身だけを使います。白身が余ってしまうので何か使い道が無
いかということでマシュマロを思いつき「鶴の子」を作るようになりました。

この鶴の子は昭和初期には同じく博多銘菓の「ひよこ」と並べられ博多の鳥
戦争と言われたこともあります。創業者の石村善太郎氏は福岡藩代々の宮大
工の家に生まれたのですが、大工になるのが嫌で自分はむしろ同じ神様に奉
仕するにしても神様にお供えするお菓子を作りたい、とお菓子屋さんを始め
たのだそうです。

将棋の第15世名人、大山康晴は大正12年(1923)3月13日、岡山県倉敷市で
生まれました。

5歳の頃から将棋を覚え、めきめき強くなって昭和10年(1935)に木見金治郎
八段に入門。この時同門に後に生涯のライバルとなる升田幸三がいました。
升田は1918年生まれで5つ年上。当時既に二段。二人は升田の角落ちで対局
しますが結果は大山の3連敗であったといいます。

しかし彼はその後天性の実力をどんどん開花させ、昭和15年には四段に昇進
してプロになります(将棋のプロは四段から。三段まではいわば見習扱い。
うーん、英語で言えばsemi-proか?)

昭和18年に六段になったあと昭和19年招集されてしまいますが、国内の部隊
に配属されそのまま終戦。昭和21年には将棋界も復興されて順位戦が再開さ
れて、大山も棋界に復帰します。

昭和22年にはB級で2位になってA級に昇級するとともに七段に昇進しました。

将棋の順位戦というのは要するに名人への挑戦者を決めるためのリーグ戦
です。A,B,Cと3つのランクがあり、B,Cは更に現在はB1,B2,C1,C2と細分され
ています。各クラスの上位2名が上のクラスに上がり、下位2名が下のクラス
に落ちます。そしてA級の成績優秀者が名人に挑戦するという仕組みです。
そして大山は翌23年、あの兄弟子・升田を「高野山の決戦」でやぶってA級
1年目にして、塚田正夫名人への挑戦権を得ました。

しかし大山はこの時は七番勝負を名人に4対2で敗れ、いきなりの名人位獲得
はなりませんでした。結局彼が名人位を取得するのは4年後、昭和27年になり
ます。相手は第14世名人である木村義雄。木村はこの若き天才に「いい後継
者ができた」と言い遺します。そして彼はこのあと5年間名人位をキープして
第15世名人の資格を得ました。

ここで「名人」について少し説明をしておきましょう。

以前は「名人」というのは江戸初期の大橋宗桂以来、将棋界の最高位とされ
いったん就任すると死ぬまでそれを名乗ることができました。13世名人関根
金次郎は大正10年(1921)名人位に就きましたが、その時53歳でした。彼は
どう考えても自分はピークを過ぎている。ほんとうならもっと若い時期に
名人になりたかったと考え「本来はもっとも油が乗っている人が名人を名乗
るべきではないか」と思います。

そしてついに昭和12年(1937)名人戦(順位戦)を創設。実際のリーグ戦を制し
た棋士が「名人」を名乗るシステムが導入されました。その最初のリーグ戦
を制したのが木村義雄。彼はその後5期連続で名人位をキープして、名人戦
の権威を高めました。名人位を(通算で)5年間キープすれば「永世名人」の
資格を得られることになったのですが、木村の次にこの資格を得たのが、
大山だったのです。

つまり大山は実力制名人に移行してから2人目の永世名人取得者です。(その
後、この資格を得たのは、現在のところ中原と谷川のみ。羽生はまだ3期)

さて大山が昭和28年,29年に名人戦七番勝負を戦った相手もまた升田でした。
その升田は大山が木村から名人位を奪った昭和27年に、その木村から王将位
を奪取していますが、この時有名な「陣屋事件」を起こしています。

当時のタイトル戦では、三番負けた側は次の対局から相手の香車落ちで対戦
しなければならないシステムになっていました。この時、升田は木村に3勝
しており、昭和27年2月18日神奈川県鶴巻温泉の旅館・陣屋で行われるはず
だった次の対局では、升田が名人に対して「香を引いて」勝負するという、
名人にとっては屈辱の一局になるはずでした。

ところがこの日升田はこの対局をすっぽかしてしまったのです。升田の言う
には、旅館の玄関に入って何度も声を掛けたが、誰も出てこないので、頭に
来て帰った、ということでした。この時はそれ以前から周囲に色々な怨念が
渦巻いていたため、これをきっかけとして、あわや将棋連盟が分裂するかと
いう大騒動にまで発展しますが、棋界の長老の仲裁などもあってなんとか
収まります。

(升田と木村の勝負ではタバコ好きの升田が健康のため禁煙している木村に
わざと煙を吹きかけるなどの盤外の鞘当てがあった)

その升田が昭和32年(1957)三たび名人位の大山に挑戦して来ました。この年
の升田はひじょうに充実しており、3勝2敗にまで持ち込みます。これで大山
は次の対局を升田の香車落ちで対局しなければならなくなりました。升田は
少年時代に「自分はいつか名人に香を引いて勝つような強い将棋指しになり
たい」と語っていたといいますが、この勝負がまさにそうなりました。升田
が第六局を香落ちで勝って大山から名人位を奪取しました。

なお、現在ではこの「香落ちシステム」は廃止されています。

この時のことを大山は「心が緩んで魔に取り付かれてしまったので負けた」
と後に語っています。そして真の大山時代というのは、このあと到来するの
です。

大山は次の期のA級リーグ戦でも1位になって升田と七番勝負を戦いますが、
この年はまた升田の勝ち。そしてその次の年昭和34年にもまた挑戦権を得て
3年連続となる名人戦の「大山・升田」戦七番勝負が始まります。この時期
の二人の闘いは本当に凄まじいです。

昭和31年 王将戦 大山王将 0−3 升田 失冠 (指し込み)
昭和32年 王将戦 升田王将 4−2 大山 敗退
     名人戦 大山名人 2−4 升田 失冠 ※これで升田初の三冠に
     九段戦 升田九段 4−2 大山 敗退
昭和33年 王将戦 升田王将 3−4 大山 奪取
     名人戦 升田名人 4−2 大山 敗退
     九段戦 升田九段 2−4 大山 奪取
昭和34年 名人戦 升田名人     大山

見ている側としては、今でいえば羽生と佐藤の勝負のような、見ているだけ
で緊張感が伝わってきて「すさまじさ」を感じるような勝負だったのではない
かと思います。そして、この名人戦、大山は升田を4−1で制して、名人位
に復位を果たしました。同時に升田に続く二人目の三冠となりました。

升田はその後昭和38年,41年,43年,46年にも大山名人に挑戦してきましたが、
いづれも大山が勝っています。その間ずっと大山は名人位をキープし続けま
した。そして大山は35年に王位戦、38年に棋聖戦が始まるとこれにも勝って、
一時的には五冠になっています。

その大山が名人位を降りることになったのは昭和47年(1972)でした。相手は
中原誠。翌年中原は大山から9期連続してキープしていた王将位も奪取して
大山は無冠になってしまいます。

しかしこれでそのまま消えていくような大山ではありませんでした。翌昭和
49年(1974)、大山ももう51歳になっています。この年大山は中原から十段位
(以前の九段戦。現在の竜王戦)を奪取、更には内藤國雄から棋聖を奪還して
再び二冠になるのです。

更に昭和54年に再び無冠となるも、翌年には加藤一二三から王将位を奪還。
これを昭和58年60歳で失いますが、昭和61年には63歳で(奪取はならなかっ
たものの)名人戦の挑戦権を得るなど、年を取っても衰えを見せない実力は
すごいものでした。

ライバルの升田は昭和54年に引退してしまい、平成3年に亡くなりましたが、
その翌年・平成4年(1992)に大山はA級順位戦で居並ぶ若い棋士たちを連覇して、
名人への挑戦者決定戦にまで進出(挑戦権獲得はならず)します。

しかし、その3ヶ月後の7月7日の夕方、前年に手術した肝臓の調子が思わし
くなく、休養と治療のため入院。しかし7月26日22時45分、肝不全のため、
千葉県柏市・国立がんセンター東病院で亡くなりました。享年69歳。

結局彼は死ぬまでA級現役棋士でした。

将棋界には10年に一度の割合で天才が生まれるといわれるのですが、彼は
「50年に一度の天才」であったかも知れません。

タイトル獲得:名人18期, 王将20期, 十段(九段戦を含む.現竜王戦)14期,
       王位12期, 棋聖16期   合計80期。
タイトル戦総登場数 112回。

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