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天保11年(1840)3月2日、『遠山の金さん』こと遠山左衛門尉景元(通称・
金四郎)が江戸北町奉行に任命されました。

江戸町奉行は、現在の警視庁長官と都知事と東京地裁長官をあわせたような
ひじょうに重い職務です。江戸幕府は基本的に権力の集中を避けるため同じ
職務を複数の人に割り当てており、月交代で担当になることになっています。
江戸町奉行の場合も、南町奉行と北町奉行があって、1ヶ月ごとに仕事をし
ていました。遠山金四郎ははじめ北町奉行でしたが、のち南町奉行になりま
す。この件については後で触れます。

遠山金四郎は吉宗の時代の大岡忠相(越前)と並び称される名奉行で、大岡
忠相が享保の改革を行った将軍・徳川吉宗の腹心として活躍したのに対し、
遠山は天保の改革を行った老中・水野忠邦に近い人物として重用されました。

ただし吉宗と忠相が非常に信頼深い関係であったのに対して、景元と忠邦の
間は常に緊張感のある関係であったようです。

遠山家は源頼朝の家臣、加藤景廉が美濃国恵那郡遠山荘の地を与えられ、そ
の長男の景朝が遠山荘にちなんで遠山左衛門尉を称したのが祖です。その後
多くの分家に分かれましたが、その中の明智遠山氏が徳川家康に仕え、旗本
となりました。景元の家はこの明智遠山氏の一族です。

景元は若い頃放蕩していたことで知られていますが、これには彼の家の複雑
な事情があります。

講談などではこれを次のように説明しています。

  景元の祖父景好にはなかなか子供が生まれなかったため、親戚から養子
  景晋を迎えた。ところがその直後実子の景善が生まれてしまった。

  1 2 4
  景好―+==景晋――景元[金さん]
     | 3
     +――景善――(男子・夭折)

  それを悪く思っていた相続者である景晋は、義弟にあたる景善の子供を
  自分の養子にして後をつがせようと考えた。これだけだと水戸黄門の所
  と似た話。
  
  ところが景善の子供が生まれる前に景晋自身に子供(金さん)が生まれ
  てしまった。そこで景晋は金さんの出生届を出さずに止めておいて、後
  でうまれた景善の子供の出生届を先に出させ、その時点で自分には子供
  ができないので、そちらを養子にしてあとを継がせたいと願い出た。
  そしてそのあとで改めて、金さんが生まれたと届け出た。
  
  このため金さんの生れは本来は寛政5年8月23日であるが公式記録では
  寛政6年9月23日となっている。
  
  ところが後日、この金さんの義兄(本当は義弟)がこのことを知り、実際
  は金さんが先に生まれたのだから、金さんが後をつぐべきだと主張した。
  そこで、金さんは彼に相続させるために、家を飛び出して放蕩したので
  ある。しかしこの義弟が後に早死にしてしまったため、金さんは家に
  戻ってあとをついだ。

家系図

1 2 3 5
  景信==景好―+==景晋――景元[金さん]
         | 4
         +――景善+――(男子・夭折)
              |
              +――景寿

遠山家というのはほんとに実子に恵まれない家のようで、景好自身も養子で
あったようです。その景好になかなかこどもが生まれなかったため、景晋を
養子に迎えたというのも事実。ところがそのあとで景好に実子・景善が生ま
れると、景好は実子の景善にあとをつがせたいと考えるようになり、自分が
死ぬまで、景晋に出仕を許さなかったのです。

やがて景好が亡くなりますと、幕府への届け出通り、景晋があとを継ぎます。
しかし彼は景善のほうが実子なのだから、彼の血統に家を戻すべきだと考え
ました。そこで、景元が生まれた時、彼の出生届を1年遅らせて、義弟の
景善を先に自分の養子にしました。(景善の子供を養子にしたのではない)

景善には男の子がいましたが、この子は早死にしてしまいました。そこで、
景善は、義兄の子供である景元を自分の養子にしました。

そして更にこの後、景善にはもうひとり男の子・景寿が生まれます。

ここで景善は、この子の存在で更にわけのわからないことになるのを避ける
ため(すでにわけがわからなくなっているが...)、この景寿を他家に養子
に出してしまいました。

さて、景晋は表面的にはお家の中をまとめるために、景善を自分の養子にし
て景善をたてていたのですが、気持ちとしては、景好がそうであったように
景元にあとをつがせたいと考えていました。そこで景善の出仕をなかなか許
しませんでした。

そこで景元はその微妙な家の事情を考え、自分はだめだから義父である景善
に早く家督を譲るよう促すため、家出したのではないか?というのが大川内
氏の説です。

そして景元は景善の死後、はじめて出仕しています。通説では景善が亡くな
ったのでやむをえず家に戻ったのではないかとしますが、上記大川内氏の説
では、景善が出仕した時点で家出の目的は達されたのですぐに家に戻ったの
ではないかとします。

つまり、景元の家出は「弟に家をつがせるため」ではなく「叔父に家をつが
せるため」だったというのが事実のようです。


さて、景元は放蕩していた頃に入れ墨を入れていたとされます。その模様は
一般に時代劇では桜吹雪とされていますが、一説には女の生首であったとも
いいます。また実は入れ墨はしていないという説もあります。しかしいづれ
にせよ彼はどんなに暑い日でも人前では決して肌を見せなかったそうです。

遠山景元が北町奉行として活躍した時代、南町奉行は鳥居甲斐守忠耀でした。

鳥居が天保の改革を厳密に実行しようとしたのに対し、遠山景元はそれを緩
和して庶民の暮らしを守ろうとし、両者は常に緊張関係にありました。

例えば鳥居がある時、風紀上よくないとして江戸中の舞台小屋を全て廃止し
ようとした時、遠山は全て廃止するのはひどいとして、数個を残せるように
交渉し、江戸の人々に喝采されました。当時江戸の人々は、鳥居のことを
名前に引っかけてキツネと呼び、対して遠山のことをその更に上手のタヌキ
と呼んでいました。

何かと対立していた二人ですが天保14年(1843)2月24日、鳥居は非常に巧妙
な策略で遠山を陥れ、遠山は閑職の大目付に左遷(形式上は昇進)されてし
まいました。

しかし、そこからの遠山は大したものでした。鳥居を遙かに越える謀略で、
ほとんど綱渡り的な反撃を行い、鳥居は失職します。鳥居忠耀のいろいろな
違法行為が暴かれて、鳥居は四国丸亀藩お預けとなりました。そして、その
後任の南町奉行には遠山自身が任命されました。このあたりの経緯は時代劇
でも何度も取り上げられています。

実際には遠山の大目付時代は2年間あるのですが、時代劇では2年もやってら
れないので、数ヶ月で復帰したかのようなストーリー構成になっています。

こうして遠山は弘化2年(1845)3月15日から嘉永5年(1852)3月20日まで、今度
は南町奉行として、再び江戸庶民の権利を守るために活躍しました。

大目付から南町奉行へという公式には降格になるこの人事は異例中の異例と
もいえるものでした。

遠山の南町奉行時代に北町奉行をつとめた人は3人いますが、その中の最後の
井戸対馬守覚弘はのちペリー来航の際に、水野の後任の阿部老中の元で幕府
代表の一人としてアメリカとの交渉に臨んでいます。

さて、遠山景元は嘉永5年町奉行を辞任すると、晩年は帰雲という号で俳句
を書いたりして悠々自適の余生を送り、3年後の安政2年2月29日に亡くなり
ました。景元のお墓は西巣鴨の本妙寺にあります。

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「ピアノの詩人」と呼ばれるショパン(Frederic Francois Chopin)は1810年
3月1日、ポーランドのワルシャワ近郊ジェラゾヴァ・ヴォーラで生まれまし
た。(2月22日説もあるもよう。占星術家ジョーンズの著書では2.22 18:00 と
なっている。しかし各種資料から3月1日説は動かないと思う)

父はフランス人、母はポーランド人です。父はその年の10月にワルシャワの
中学校のフランス語教師に採用され、一家はワルシャワ市内に転居しました。

4歳の時に姉からピアノの手ほどきを受け、6歳の時から正式に習い始めます。
素晴らしい才能を見せ、多数の作品を生み出しますが、まだ楽譜が書けませ
ん。そこで初期の段階ではピアノの先生が書き取って残しています。7歳の時
に出版された「ポロネーズ・ト短調」もその中のひとつです。

1826年ワルシャワ音楽院に入学、ユゼフ・エルスネルなどの指導を受けます。
コンスタンツィアに出会ったのはこの時期です。卒業後ウィーンでデビュー
コンサートを開いて成功。彼の楽譜がウィーンでも出版されると、それを
見たシューマンは「諸君、天才だ。帽子を取り給え」という言葉を残します。

1831年パリに出ますが、その旅の途中でワルシャワがロシア軍に占領された
知らせを聞きショックを受けます。その衝撃と、いつかロシアを撃退したい
という思いで書かれたのが練習曲12番ハ短調「革命」(*1)と伝えられます。

パリでのデビューコンサートは好評ではありましたが、彼の演奏にはひとつ
の問題がありました。「ピアノの詩人」と呼ばれるにふさわしく、ひじょうに
繊細な演奏をする人ですので、大ホールでの演奏になじみません。少人数の
サロンでの演奏が中心になってしまうため、彼はあまり多くの収入を得られず
生活に困窮することになります。そこで彼はパリを諦め、アメリカに渡ろう
と考えました。

ところがそのパリを出ようとしていた時、彼の演奏をよく聞きに来ていた
ラジヴュ侯爵という人に偶然逢います。別れの挨拶をするショパンに驚いた
侯爵はショパンをロスチャイルド家に紹介。その縁から多くの貴族の子弟の
音楽教師の職を得ることができました。これにより彼は月に2000〜3000フラン
(現代の感覚では多分70〜100万円くらい)もの収入を得ることができるように
なり、彼はフランスに留まることになりました。

これから1835年までが彼の活動のピークで、この時期リストと親しくなって
しばしば一緒にステージを務めています。また、故郷の元恋人コンスタンツ
ィアのことを想い出しながら書いたという練習曲3番ホ長調(通称別れの曲,*2)
が出来たのも、この時期といわれています。

1835年彼はボヘミアに赴いて両親や妹と再会しました。(これが最後の出会い
になりました)しかしその旅の途中、初めて喀血。彼の体を結核がむしばんで
いました。このためそれ以降彼はコンサート活動などは控えるようになります。

1836年秋彼は自分の人生に大きな影響を与える人物と出会います。「愛の妖精」
で有名な作家のジョルジュ・サンドです。ショパンは彼女に最初に出会った頃
「あれは女なのか?」という言葉を残していますが、これはサンドが女らしく
ないという意味ではなく、彼女がしばしば男装していたため「男かと思ってい
た」という意味なのかも知れません。

彼は1836年の夏に別の女性と婚約していましたが、結局その女性とは別れて、
サンドと一緒に暮らすことになります。彼女との恋は12年間続きました。
小学生でも知っている小品「小犬のワルツ」はこの時期の作品です。これは
サンドの家の中で彼女の愛犬が走り回っている様子を描いたものといわれて
います。

サンドと完全に別れたのが1848年の2月とされますが、彼はこの年の4月、弟子
の招きでイギリスに渡り、ビクトリア女王の前で演奏をしました。しかしこの
時期、結核はかなりきつい状況になっていました。弟子たちの指導をする際に
も薬で症状を抑えておかなければ、どうにもならなかったといいます。

1849年の夏には病状が重いことを聞き、姉が見舞いに来てくれますが、状態は
悪くなる一方でした。そして10月17日午前2時、その姉たちに看取られて死去。
享年39歳。

(*1)薬師丸ひろ子が主演した1981年の角川映画「ねらわれた学園」のクライ
  マックスで金星人役の峰岸徹がこの曲を弾いていた。

(*2)富田靖子が熱演した1985の大林宣彦監督映画「さびしんぼう」で作品の
  重要なモチーフとして使用されていた。元々はショパンの生涯を描いた
  1934年のドイツ映画「別れの曲(Abschiedswalzer,英題=Farewell Waltz)」
  のテーマ曲で「別れの曲」の通称もこの映画から生まれました。

2月28日はビスケットの日です。1980年に全国ビスケット協会が定めました。

この由来は、安政2年(1855)のこの日長崎に来ていた水戸藩の蘭医柴田方庵
がオランダ人から習った「ビスコイト」の製法を藩に書き送ったこと、それ
から、ビスケットという言葉の語源がラテン語で「2度焼く」ということな
ので語呂合わせで28日を取り、この日をビスケットの日と定めたものです。

ところでビスケットの親戚にクッキーがある訳ですが、あまり区別は付かな
い感じですね。

どちらかというと半生のものがクッキーで乾燥しているものがビスケットか
な?とも思うのですが、アメリカではその感覚は逆だそうで、ケンタッキー
フライドチキンのビスケットはご存じのようにパンのように柔らかいですね。

これがヨーロッパに行けば全く区別なく、どちらもビスケットと呼ぶそうです。

673年2月27日天武天皇が飛鳥浄御原宮で即位の儀を執り行いました。

天武天皇は名を大海人皇子(おおあまのみこ)といい、舒明天皇と斉明(皇極)
天皇の間の子です。兄が中大兄皇子(なかのおおえのおうじ,天智天皇)で、
大海人皇子は大化改新後の中大兄皇子の政権(孝徳・斉明・天智朝)の中で
中臣(藤原)鎌足とともに重要な位置を占めていました。そして天智天皇が
即位した後は皇太子となり、誰もが天皇が亡くなった後もこの弟であれば
立派にその事業を継いで国を豊にしてくれるだろうと期待していました。

ところがここに面倒な問題が起きました。大友皇子の問題です。

大友皇子は天智天皇と伊賀釆女宅子娘の間の皇子です。天智天皇は皇后の
他に四人の嬪がいましたが、これらの妻が産んだ子がことごとく女の子で
唯一建皇子という人がいましたが、言葉が不自由でした。その他の後宮の
女官の中に天皇の子供を産んだ人が4人いて、その産まれた子供の中に
大友皇子・川島皇子・施基皇子(光仁天皇の父)という3人の男の子がいま
した。しかし、この3人は母親の身分が低いので本来天皇になるのは困難
でした。

ところがその中でもこの大友皇子は優秀な子で、天智天皇は次第にこの子に
情を感じるようになります。そしていつしか政権内で重要な地位を与える
ようになり、ついに天智天皇10年(671)彼を太政大臣に任命しました。大海
人皇子という皇太子がいるにも関わらず、No.2をもう一人作ってしまった
わけで人々は「天皇は大友皇子に位を譲るつもりだ」と噂します。

そして天皇はこの年9月病気になりますが「自分はもうダメだ。お前に天皇
の位を譲りたいので来て欲しい」と大海人皇子を病床に呼びました。

瞬間、大海人皇子は「殺される」と悟ります。今まで兄の手法をたくさん
見てきています。蘇我入鹿に始まって古人皇子、倉山田麻呂、有馬皇子。
彼は自分の邪魔になる人はどんなに身近な人物でも冷酷に殺害する男です。
大海人皇子は「いいえ。天皇の位は大友皇子にお譲り下さい。私は天皇の
病気平癒を願って出家します」と言い、その場で髪を剃ってしまいました。
そして少数の供だけを連れて吉野に逃れます。少しでも行動が遅れたら
天皇の放った刺客に狙われる、危険な逃避行でした。

そして天皇崩御。このあと大友皇子が践祚して天皇になったという説と、
践祚はしていないという説がありますが、現代では決め手がありません。

しかし決戦は避けられないとみた大友皇子側が武器を集め始めますと、672年
6月24日、大海人皇子は吉野を脱出、宇陀・室生・柘植・鈴鹿と山越えをして
ほんの数日で支援者が期待できる東国の桑名にまで至りました。そして7月、
両者は激突します。場所は関ヶ原。天下分け目の戦い。壬申の乱でした。
そしてこの戦いに大海人皇子が勝って、大友皇子は自殺。

そしてその戦争の混乱が収まったのを見計らって673年(天武天皇2年と数える)
2月27日、正式に即位して天皇となったものです。

天武天皇の治世はいわば聖徳太子が始めた日本の法的な政治体制の確立の
最後の仕上げの時期になっています。

律令と歴史書の編纂を命じ、八色の姓と新しい位階を定め、身分に応じた
服装の様式を規定し、また今まで曖昧であった各国の境の策定のための
調査を行っています。また占星台を設けて天体観測をさせたり、また仏教・
神道の双方を重視・奨励して両派勢力の融合を図ったりしています。

日本では聖徳太子の時代以降仏教勢力がどんどん力を付けていっているの
ですが、その中で天武天皇は伊勢神宮に祈願して壬申の乱に勝ったことも
あり神道もかなり重視しています。実際伊勢神宮の色々な祭祀や制度は、
この時代に始まったのではないかともいわれています。この天皇が出てい
なかったら、ひょっとすると日本は完全に仏教国になっていたかも知れま
せん。また天皇は道教などの中国文化にも詳しく「天皇」や「日本」と
いった漢語がそれまでの「おおきみ」や「やまと」に代わって使われる
ようになったのも、この時代ではないかと言われています。

律令は文武天皇の時代・大宝元年(701)に完成して「大宝律令」と呼ばれて
います。歴史書も元正天皇の時代・養老4年(720)に完成して「日本書紀」と
呼ばれています。天武天皇は約15年間政務を執られたあと686年9月9日に
崩御しますが、その遺志は持統天皇や藤原不比等らに受け継がれ日本の
政治体制は確立していきます。

なお天武天皇の子供を下記に母親ごとにまとめておきます。

 皇后・鵜野讃良皇女(うのの・さららの・ひめみこ)持統天皇
    (天智天皇と、倉山田麻呂の女・遠智娘の間の子)
  草壁皇子(文武天皇・元正天皇の父)

 妃・大田皇女 天智天皇の女 持統天皇の同母姉
  大来皇女
  大津皇子(天武天皇が亡くなった直後処刑される)

 妃・大江皇女 天智天皇の女(母は忍海造小竜の女・色夫古娘)
  長皇子・弓削皇子

 妃・新田部皇女 天智天皇の女(母は阿倍倉梯麻呂の女・橘娘)
    (阿倍倉梯麻呂は安倍晴明の先祖で、最初に阿倍姓を名乗った人)
  舎人皇子(日本書紀の最終編纂者)

 夫人・氷上娘 藤原鎌足の女
  但馬皇女

 夫人・五百重娘 藤原鎌足の女 氷上娘の妹
  新田部皇子

 夫人・大ぬ(蕤)娘 蘇我赤兄の女
  穂積皇子・紀皇女・田形皇女

 額田王(ぬかたのおおきみ) 鏡王の女
  十市皇女(大友皇子妃)

 尼子娘 胸形君徳善の女
  (この人は北部九州に伝説が多い)
  高市皇子(持統天皇の時代の太政大臣)

 穀媛娘 宍人臣大麻呂の女
  忍壁皇子・磯城皇子・泊瀬部皇女・託基皇女

さて、わざわざこれを羅列したのには2点に注目して頂きたかったからです。

ひとつはこの中に天智天皇の娘が4人もいるということです。天智天皇と
天武天皇は同母同父の兄弟であり、その濃い血のつながりのある弟に天智
天皇が自分の娘を4人も嫁がせているというのは、かなり異常と思えます。
そのことをもって、本当は天武天皇は天智天皇の弟ではないのではないかと
いう説を唱える人もいるくらいです。

もうひとつは額田王です。万葉集に12首を残す歌人ですが彼女は十市皇女を
産んだあと、兄の天智天皇に乗り換えてしまいました。そして天智天皇の妻
となった後、宴の席(蒲生野への遊猟)でこんなとんでもない歌を詠んでいます。

 あかねさす紫野行き標野行き、野守は見ずや、君が袖振る

恐らくは元夫である大海人皇子とチラっと目があったりして、大海人皇子も
前の妻ですから、ちょっと片手をあげて軽く挨拶するくらいの動作をしたの
でしょう。ところが天真爛漫な彼女は、それをネタに「あら、そんなこと
して、誰かに見られたら私たちの関係を疑われるではないですか?」などと
詠んでしまったわけです。

これに対して肝がすわっている大海人皇子はこう返歌します。

 紫の匂へる妹を憎くあらば、人妻故に吾恋ひめやも

堂々と「他人の奥さんになった今でも愛してるよ」と言っています。
(万葉集1巻20,21)

恐らく群臣は、どう反応していいか困ってしまったでしょうが、中臣鎌足
あたりが何か気の利いたことをいって、うまく取り繕ったのでしょう。案外
天智天皇はニヤニヤ笑っていたかも知れません。女を勝ち取った側の余裕
です。そして多分そうされるほどに大海人皇子にとっては屈辱であったかも
知れません。自分も一所懸命この国のために尽くしているのに権力は全て
兄の元にある。自分の妻も奪われ、更には皇太子の座まで奪われかけている。

この額田王をめぐる愛憎関係が壬申の乱の原因のひとつではないか、と主張
する人もいるくらいです。

なお、天武天皇と額田王の間に産まれた十市皇女は、よりによって大友皇子
に嫁ぎました。彼女にとっては大友皇子は従兄でもありますが母の再婚相手
の子ですから義理の兄でもあり、壬申の乱は、その兄であり夫である人と
実の父との戦争でした。彼女はその心労のため若死にしています。

なお、その母の額田王のほうは長生きしています。額田王は修羅の道を選択
した持統天皇とは別の意味で神経が太かったのでしょう。

2月26日 226事件(1936)

昭和11年2月26日、陸軍の一部皇道派将校に率いられた1400名の兵が首相・
陸相官邸、内大臣私邸、警視庁、朝日新聞などを襲撃、陸軍省・参謀本部・
警視庁などを占拠しました。

この事件で斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎陸軍教育総監らが殺害
され、首相官邸でも岡田啓介首相は難を逃れたものの義弟の松尾伝蔵陸軍大
佐が身代わりになって殺されました。

政府はあまりのできごとに動揺、どう対処していいか分からずに右往左往し
ていたところ、めったに政治的な問題で意見を言わない昭和天皇が「彼らは
賊軍である」と断定、「反乱軍をただちに鎮圧せよ。お前達にできないなら
自分が近衛部隊を率いて鎮定に当たる」と激怒の言葉を発します。

翌27日になってやっと東京市に戒厳令が施行、28日になると戒厳司令部の
香椎長官は次のような「兵に告ぐ」というビラを撒きます。

  今からでも遅くないから原隊へ帰れ。
  抵抗する者は全部逆賊であるから射殺する。
  お前達の父母兄弟は国賊となるので皆泣いておるぞ。

兵や下士官たちに動揺が起き、やがて大勢は帰順、一部の幹部は自決し、残
るものは全員逮捕されました。軍法会議により香田清貞ほか17名が死刑に
処せられ事件は終わりました。

しかしこの後更に彼らの路線を引き継ぐものたちが軍部内で台頭し、やがて
その代表として東条英機が登場。日本は深い戦争の泥沼の中に引きずり込ま
れていきます。

   昭和 6年 9月18日 満州事変
   昭和 7年 1月 8日 桜田門天皇狙撃未遂事件
        1月28日 上海事件
        3月 1日 満州国建国宣言
        5月15日 五一五事件(犬養首相殺害さる)
   昭和 8年 3月27日 国際連盟を脱退
   昭和 9年 3月 1日 溥儀が満州国皇帝となる。
       11月20日 青年将校によるクーデター未遂(11月事件)
   昭和11年 2月26日 二二六事件
   昭和12年 7月 7日 蘆溝橋事件
       12月13日 南京大虐殺
   昭和13年 4月 1日 国家総動員法公布
   昭和16年12月 8日 日本軍真珠湾を奇襲
   昭和17年 5月 7日 珊瑚海海戦で大敗
        6月 5日 ミッドウェー海戦で大敗
   昭和18年 4月18日 連合艦隊司令官山本五十六戦死
   昭和19年 7月 7日 サイパン島の日本軍玉砕
   昭和20年 3月17日 硫黄島の日本軍玉砕
        4月 1日 アメリカ軍沖縄に上陸
        7月26日 ポツダム宣言
        8月 6日 広島原爆投下
        8月 9日 長崎原爆投下
        8月10日 ポツダム宣言受諾を通告
        8月15日 玉音放送。終戦。
        8月30日 マッカーサー、日本に到着。
   昭和23年12月23日 A級戦犯東条英機ら処刑される。


ところで余談です。この二二六事件が起きたときに鎮圧部隊は帝国ホテルの
裏の空き地に陣営を張り、帝国ホテルにその部隊のための炊き出しの依頼が
ありました。

大雪が降って底冷えのしている時期。ホテルのシェフは、すぐ食べられて体
が暖まるものということでカレーライスを作ることを思いつきました。雪の
中、明日は仲間と戦わなければならないかと緊張している鎮圧部隊の兵たち
にこの熱いカレーライスは忘れられない味となります。そして彼らによって
東京の洋食屋さんで発達したカレーライスの味が全国に広まったと言われます。


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