Bless the Lord, O my soul

わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように。By Teenager Virgin Mary

証し

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どうしてクリスチャンになったのか、私の人生をそのまま書きました。お時間がありましたら、第1章から読んでみて下さい。
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第3章 A Lost Sheep

高校を卒業して、ある一流銀行のソフトウエア部門に入社した私は、すぐに親友が出来ました。
彼女(サラ)は自分に似ていると言われていた先輩で、黒人と付き合っていました。
初めはかなり驚いたが、気づくとサラの通っていたクラブに毎週行くようになっていました。
そして、そんな場所で本当の恋愛を探し求めて、色んな人と付き合い、そのたびに、傷つく自分。
傷ついた心を隠すためか、化粧も服装も派手になっていくばかりでした。

でも、ある人と知り合い、彼はアメリカに2週間後に帰ってしまう人だったのですが、
なんと私も後を追いかけてアメリカに。
家族には、ちょっとアメリカに行って来るとだけ言い残し、彼のところで1年間過ごしました。
絵が得意だった私は、当時映画でブームになったマルコムXの絵を描いて壁に貼っていたところ、
それを見た近所の知り合いから、ネイルサロンでのネイルアート手伝いを頼まれ、
数ヶ月の間だけだったが、そこで働き、技術を習得しました。
しかし彼とは生活の苦しさから結婚はせず、帰国しました。

当時(1993)ネイルは芸能人でもしている人はごく少なく、なんとか仕事にしたいと、
サラと一緒に原宿や渋谷のヘアーサロンに雇ってくれないかと、交渉し歩いたこともあります。
どこも反応は『すごい、いいね。』なのに、結局どこも雇ってはくれませんでした。
銀座や六本木のホステスの友達が多かったため、彼女らにまずネイルを施して、それを見た友達などを対象にしていきました。

そして、また恋に落ちてしまったんです。
その相手とは、あっという間に結婚して彼の転勤先のハワイに移り住みました。
婚約してすぐに妊娠していたので、すぐに子供が産まれました。
お互い23歳だったのもあったのか、似たもの同士で、仲が良い時はすごく良いのですが、
喧嘩となると、近所の人が警察を呼ぶほどでした。

沖縄出身の友達が日曜日に教会(ノン・ドミネイション)に行ってみないかと誘って来たのです。
日曜日はどうせ彼も遊びに行ってしまって暇だから行きたいと、いうことで、通い始めました。
パスター(牧師)は沖縄二世で日本語は話せないものの、とても親切で、ある日、ウチをたずねたいと聞かれ、いつでもいいですよ。と答えると、2,3日後に訪ねて来られて、いろんな話をしてくれました。
そこでイエス・キリストを自分の救い主として受け入れますかという質問に「はい。」と答えました。
人生を変えたいと思ったから、そう答えてみました。
そして、洗礼をハワイの海で受けたのです。

結婚生活はみるみる良いモノに変わっていくのがわかりました。
でも、教会に行ってお願いだけはするけれど、行いは改めようとは思いませんでした。
そして、妊娠。
教会の人はとても喜んでくれていました。 私もまた頑張っていきたいと決心しました。
それなのに、夫婦喧嘩をきっかけに知り合いに相談したところ、中絶した方がいいという意見で、
私はすぐに同意して、彼にそう告げました。
そして、彼がアポイントを取りアラモアナの病院で手術しました。
その直後、『もうどうにでもなっちまえ』という思いでいっぱいになり、自分のした事から目をそらすだけだった。
友達や教会には流産したと、うそをつきました。
そのうそは友達は気づいていたのに、私を責めることはしませんでした。
彼女が泣いて祈っている姿を何度か見かけました。

夫は益々家によりつかなくなり、私は毎晩と言っていいほど、泣いて暮らしていました。
パスターやパスターの奥さんに相談していたが、なんて答えてくれていたか覚えていません。
なぜなら、私は彼らに全てを話していなかったし、赦されるわけないと思っていましたから。
そして、私は仕事を見つけ、離婚しました。
そんなときでも教会では、私のために献金をしてくれたのです。 罪を悔い改めていないのに。
仕事の関係もあって、教会から足が遠のいていきました。
シングルマザー生活は初めのうちは、自分勝手な希望と自由で満ちていました。
離婚寸前から付き合いのある彼はまじめで子供の世話をよくしてくれました。
その彼も2年の後、転勤が決まったのです。
結婚という話は出ませんでした。
私は寂しさを紛らわすために、娘と一緒に実家に2週間のバケーションを取りました。
当時、ストレスからか原因不明の鼻血(かなり頻繁に)と胸やけがありました。
母は仕事をしていなかったので、娘を預かってもいいと切り出してくれました。
実際、自分の感情も体調もガタガタだったから、母たちに頼んだ方が娘のためかもしれないと思いました。
体調を整えて経済的に安定するまでという約束で、私ひとり、ハワイに帰ったのです。

仕事をかけもち、どんどん残業もしました。
家にいると娘のことを思い出すから、仕事以外は友達のところか、クラブにいるかのひどい状態になっていました。
また切羽詰ってパスターのところに電話をかけ、娘を置いてきたことを話すと、
日本に帰ることをすすめられました。
何回か教会にも行きはじめました。
あきらめかけたとき、ある男性と知り合ったのですが、
その人は娘と同じ誕生日だったんです。
なぜか私のことを愛してくれて、全部承知でプロポーズしてくれました。
知り合って2ヶ月くらいでした。
彼の普段の何気ない行動から子供が好きなんだなぁ、大丈夫かもしれない と思い、
母に話しました。
母は今まで見たことのないくらい怒りました。
「そんなつもりでこの子を預かったんじゃないよ!考えが甘すぎる!だったらここで暮らしな!」
母の言っていることはもっともだったのかもしれませんが、どうしても日本で母子家庭でスタートする気にはならず、、
なぜアメリカで育てたいのか、なぜ彼と結婚して三人でやり直したいのかを手紙につづりました。
そして、母は母の友人が幸せなことだから反対しないで喜んであげてというアドバイスをもらって、
私の手紙を読んで、泣きながら賛成してくれました。

そして、再婚し、彼の転勤先のカリフォルニアで、娘と三人の暮らしが始まったのです。
これこそが家族と思えるほど、幸せな毎日でした。
でも、なかなか子供は出来ませんでした。
次の転勤先ノースキャロライナでバイブルスタディーに通いはじめ、そこのバプテスト教会にも通うようになりました。
そしてすぐに妊娠したのです。
欲しくて欲しくて仕方がなかった彼の子供を、どう表現したらいいかわからないほどにうれしかったのを覚えています。
教会では、サプライズのベビーシャワーをしてくれました。
驚いたのは、まだ男の子か女の子かわからない時だったのに、ある女性が赤いキルトをくれたこと。
彼女は目立つような存在ではない人だったが、神さまに聞いたら女の子って言うから、と言ってこの赤いキルトをプレゼントしてくれたのでしだ。
もちろん、生まれたのは女の子でした。
いつのまにか、Choirにも参加していて、生まれた赤ちゃんを抱っこしながら歌を練習しました。
自分の罪のために十字架にかかってくれたイエス・キリスト。
彼のために歌を歌いました。
そのたびに涙が溢れ出ました。

でも、まさかこんな自分にはイエス様の声が聞こえるとは信じられなかったんです。
あのキルトをくれた女性がはっきりと声が聞こえるのは、彼女が清い人だからなんだろうと思っていました。
自分にはありえないと思っていました。

そして、Born Againに続きます。 長い文章を読んで頂きありがとうございます。

高校は東京タワーの近くにある学校に通いました。
とってもおりこうな高校でついて行くのがやっと。
というか、ついて行くことさえ、あきらめていました。

スカートも短くバッグはヴィトン、(ルーズソックスはまだなかった時代ですが)今のコギャルのハシリのような感じで、これが青春だと思い込んで、好き勝手な日々を過ごしていました。

遅刻は当たり前、
友達とグループで万引きをしたり、
渋谷・六本木で朝まで夜遊び、(ディスコとよばれた時代です)
ロングアイランドアイスティーを一気飲み、
大学のサークルや合コンには無欠席、
大学生の彼氏とハンドウセイ。

当時は楽しくって仕方ないと信じていましたが、
今振り返ると、寂しくって仕方なかったんだろうなって思います。

母はその頃、ほかに部屋を借りていました。
「少し離れたほうがお互いケンカしなくていいね。」
なんて言ってはいたものの、いざ離れてみたら心細い。
でも、私にも優しい彼氏がいたので、いつも一緒にいてくれました。
そんな母でしたが、よく掃除をしに来てくれて、私の部屋の家賃も光熱費も彼女が払っていました。

今は母の気持ちがよくわかります。
だから、彼女を責めることを辞めました。

でも、私は当時の自分の気持ちもよ〜・・・・くわかるので、
娘たちが自立出来るまで、
神様からの預かり物として、
神様から知恵をいただいて、
神様と共に育てていこうと思います。

自分だけじゃ、無理なので。


「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」ローマ人への手紙5:8

第1章 両親の離婚

私が生まれ育ったのは、下町のよくあるお魚屋さんでした。
曾じいちゃん、曾ばあちゃんがまだ健在で、お店には両親、祖父母が出ていて、お客さんもいて、にぎやかな環境でした。

小さいながらに記憶に残っているのは、いつもおじいちゃんが神棚に拝んでいたことです。お寺にも奉納した大きな鐘がぶら下がっていて、あれはおたくが奉納したんですよねと、近所のひとが尋ねると、自慢げにうなずく祖母の姿です。

それなのにおじいちゃんは脳卒中という病気で倒れ、寝たきりの状態に。

そして、うちと駅を寸断するかのように出来た大きな道路。それによってお魚屋さんは急激に暇になり、家計も大変だったと後から聞きました。結局、母は働きに出るようになり、父もそうせざるを得なくなりました。よってお店は廃業。子供ながらに友達に聞かれたらと、気が気でなりませんでした。

その頃から、母から両親の夫婦間の問題を聞かされ始めました。いつか離婚することになると思うがどうする?私についてくる?といった質問で、当時の私はなぜか転校生が羨ましかっただけで、ついていくと答えていました。

そして、中1の夏休み、母が今から出て行くから自分の荷物をまとめなさい、と言い、これが現実なのか夢なのかわからないような感覚でしたが、言われたとおり荷物をまとめました。隣の部屋には弟がテレビを見ていて、お姉ちゃん家出すんの?と聞かれ、返事はできませんでした。祖母と父が私を説得しに来ましたが、私は、お母ちゃんが一人じゃかわいそうだからと、泣いたのを覚えています。

それから私と母の母子家庭生活が始まりました。
引越し先は母の知り合いの家族の近くで、そこのおばさんは私と同い年の子を中絶したことがあることもあって、とてもよく面倒を見てくれました。
そして、そこのお嬢さんが20歳くらいのOLのクリスチャンでした。彼女の誘いで週1回のバイブルスタディーに参加することになりました。
そこで初めて聖書をプレゼントされ、うれしくて自分で聖書のカバーを縫ったほどでした。
そこに行くとなぜかみんなあったかくて、安心できるような雰囲気がいっぱいで、たまにコクッと居眠りしそうになってましたが、そこで歌われた歌は今も覚えています。
そして寝る前にお祈りをするという習慣がついていました。

今振り返ってみると、当時はただお菓子を食べに行っていたバイブルスタディーも、神様が用意していてくれた場所だったんだと確信できます。

これがその歌です。聖書の箇所でもあるんですが、こんな長い文章を歌で覚えていたので、聖書を開かずに言える貴重な箇所となりました。意味をよく理解したら本当に私の人生に現れてくださった神様そのものだと、しみじみ心に浸透しました。


私たちは知ろう

主を知ることをせつに追い求め

主は暁の光のように

確かに現る

大雨のように

私たちのところに来て

のちの雨のように

地を潤される

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