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必死の抵抗もシンの前では虚しいほどだ。 深くなる口付けや耳元で囁く低く甘い声に思考は奪われ、抵抗する手は次第にその力を失っていく。 本能のままにと、シンに全てを委ね掛けた時、ドアが大きな音を立てた。 ドン、ドン!! 「「!!??」」 響く音にチェギョンの思考が一瞬で引き戻され、冷静さを取り戻していく。 二人顔を見合わせドアへと視線を向けると、叩く音と一緒に友人達の声が聞こえて来た。 「おーい、シン!いないのかぁ!?」 「チェギョン返事しなさいよ!」 「へっ?ガ、ガンヒョンにギョン君!?なんで!?」 慌てて落ちそうなシーツを引き上げ身体を隠す。 ドアの向こうにいる友人達には今の自分達の姿は見えないが、彼らと同じ建物内で自分達が行なおうとしていた行為に羞恥せずにはいられなかった。 「シ、シン君、ど、どうしよう…」 焦り、助けを求めるようにシンを見上げたが、シンは逆に不満そうに舌打ちしてドアを睨み付けていた。 「ギョンの奴、邪魔するなよ」 「シン君!?」 苦々しく吐き出された言葉にチェギョンは唖然とするしかない。 「シン君、何考えてるのよ!もう、信じられない!」 下手をすれば翊衛士や随行して来た尚宮を呼んで無理にでもドアを開けられかねない状況なのにと、シンの胸を強く押してチェギョンはシンの束縛から逃げようとした。 が、直ぐにその手が掴まれ、シンへと引き寄せられる。 「続きは帰ってからだ。逃げるなよ?」 低く甘い声で耳元に囁かれ、全身が痺れるような感覚に落とされる。 墜ちていく自分を留めようと全身でシンを抗う。 「バ、バカッ!へ、変なこと言わないでよ…」 が、自分を見つめる瞳があまりにも妖しいくて、耐え切れずチェギョンは視線を逸らした。 逸らした頬が朱に染まっていく様が愛おしくてシンは堪らずその頬に手を伸ばした。 頬から首筋、そして鎖骨へと指を這わせて行けば小さく吐息を漏らすチェギョンがいる。 「お願いだからやめて…」 羞恥でいっぱいのチェギョンにこれ以上の意地悪をすれば宮に帰ってから拒絶されかねない。 惜しい気もするがと、名残惜しむように滑らかな肌から指を離せばチェギョンは急いでバスルームの中へと姿を隠した。 そんな妻の背中を見送り、未だに叩かれ続けるドアへ視線を移す。 出来る事なら友人達に察して欲しかったと溜息を吐きながらドアへと歩き出した。 ―どきどきが止まらない。 バスルームの扉に背を預け、チェギョンは肩で大きく息をする。 ガンヒョンとギョンの急な来訪に驚いたのは確かだが、何よりもシン自身があまりにも妖艶過ぎた。 普段でもかっこいいと思うのに、色気まで放たれてはなす術がないし、自分の身が持ちそうにない。 「うぅ…私死んじゃうかも…」 毎日、毎日あの漆黒の瞳で見詰められたら心臓が破裂するかもしれないと思うと同時に、昨夜の自分を求めるシンの顔を思い出し、チェギョンの心臓が再び心拍数を上げる。 ‘ぶんぶん’と音がするほどに頭を振って昨夜のシンを頭の中から追い出したチェギョンはシャワーで火照る身体と頭を冷やそうと、身体を纏うシーツを取り払った。 と、同時に鏡に映った自分の姿に小さな悲鳴を上げたチェギョンは落としたシーツを胸元へと掻き寄せる。 そして、ゆっくりと鏡に近付きシーツをずらして自分の姿を確かめた。 「う、そ…」 茹蛸のように真っ赤になったチェギョンが口許を押さえ‘ありえない…’と小さく呟く。 チェギョンの白い肌には花の如く、幾つもの紅く鮮やかな証が付けられていた。 「シン、このままだとガンヒョンが強硬手段に出ちまう。早く出て来たほうがいいぞーっ!」
聞こえるギョンの声にシンは苦笑いを漏らした。 確かにガンヒョンなら、ドアを蹴破れとギョンに命令しかねない。 それに、親友を一人マカオに行かせたことを未だ彼女は納得してくれていない。 このまま彼女を敵に回すような行為を重ねれば、チェギョンに纏わり付くヒスや美術科の男子学生の事で協力を願っても拒否される可能性があると、険しい表情で嫌味を言うであろう彼女を想像しつつドアを開けた。 「おっ、居たぞ!」 そこにはどこか楽しそうにするギョンと想像していた通り険しい表情のガンヒョンがいた。 「よっ!シン!」 「あぁ、おはよう」 「おはようじゃないわよ、殿下は今何時だと思ってらっしゃるのかしら?」 片手を上げ、いつもと変わらない挨拶をするギョンに対し、ガンヒョンは眼光鋭くシンを見上げ嫌味たっぷりにそれを言ったあと、シンの体の隙間から室内を窺い始めた。 「チェギョンは?」 「シャワー浴びてる」 シンがそう答えると、ガンヒョンは納得したのか視線を室内から再びシンへと移した。 「ねぇ、皇子。ここはあなた達の別荘だからって、好き勝手は許されないんじゃない?」 「好き勝手?」 「そうよ、みんな待っているのに朝食の時間を過ぎても来ないし、心配で電話したのに携帯にも出ない。起こしに来たにもかかわらずなかなか部屋から出て来ない。これって仕来りやルールを重んじる宮家の意に反している事じゃないかしら?」 痛いところを突かれたと、苦笑いするしかない。 やはり彼女は姉同様、敵にすべきではないと反論する事を止め、シンは素直に謝る事を選択した。 「確かにガンヒョンの言う通りだな。すまない」 「わ、分かれば良いのよ。分かれば…」 あまりにも素直にシンに謝られ、拍子抜けしてしまう。 用意が出来たら直ぐに向かうからと言われ素直に頷いてしまった自分が憎らしいと、ガンヒョンは閉じられたドアに向かい溜息を吐いた。 「文句、言い足りなかったのに…」 と、思うが素直に謝るシンに成長が見えたと素直に喜ぶべきだろうか。 これも親友の努力の賜物なのだろうと頷いて、友人達が待つリビングへと足を向けた。 「なぁなぁ、ガンヒョン」 「なによ?」 確信したようにニヤニヤと笑い出すギョンに顔を顰め、ガンヒョンが素っ気無く問い返す。 「あの二人さ、絶対なんかあったと思わないか?」 「なにが?」 ‘我が白鳥、最愛の女性’と呼ぶ女性に軽蔑の眼差しを向けられている事など気付かず、彼の目下の興味事はイ・シンとシン・チェギョン夫婦にあるらしい。 「昨日の夜までは険悪な雰囲気だったのにさ、夕食辺りから少し雰囲気が変わってた。仲直りしたみたいだったよな?」 「へぇ…あんたも気にしてたんだ」 こいつも二人を気に掛け、心配していたんだと感心した矢先のギョンの失言に彼の評価が下がった事は言うまでもない。 「で、二人仲良く起きて来ない…時間に煩いシンが起きれなかったのには理由があるはずだ。疲れて動けないほどに体力を…」 「ストーップ!!」 掌をギョンの眼前めがけて勢い良く突き出す。 「うわっ!?」 驚いて声を上げたギョンはいきなりの事に目を丸くしていた。 「あんたって最低ね」 軽蔑たっぷりの眼差しでギョンを見上げると、彼は理由が分からないのか首を捻っていた。 確かにこの手の話をした事が無い訳じゃない。 だが、それは同性同士での間の事で異性間で話題に出した事はない。 ましてや親友のそれを想像しているであろう様子を黙って見過ごせるわけがない。 「起きられなかった理由が何だって言うのよ!それ以上変な想像を口にしたら只じゃ済まないわよ!」 キッと睨み上げられたギョンが萎縮するように背を丸める。 ‘ガンヒョ〜ン’と蚊の泣くほどの小さな声で彼女を呼んだが、今の彼女はすこぶる機嫌が悪かった。 「変態男に私の名前を呼ばれたくない!」 「そんなぁ〜」 母親に怒られ、泣く寸前の子供の如くその場に立ち尽くしたギョンが‘ごめんよ〜もう言わないから’と謝っても彼女は母親のようには優しくなかった。 立ち尽くすギョンに、ふんっ!と顔を背けたガンヒョンが彼を置いて歩き出す。 そのあとを慌ててギョンが追い駆けて行く。 「ガンヒョ〜ン!許してくれよ〜」 「うるさい!付いて来ないで!」 「もう言わないって約束するから〜」 「しつこい!!」 縋るギョンをガンヒョンが追い払うというやり取りがリビングまで続けられた。 |
第四章(想い)
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朝食の時間になり、皆がリビングに集まり始める。 だが、いつまで経ってもシンとチェギョンがリビングに現れず、痺れを切らしたインがシンの携帯に電話を掛け始めた。 「ダメだ、繋がらない」 「じゃぁ、チェギョンの携帯に掛けてみるわ」 そう言ってガンヒョンもチェギョンの携帯に電話を掛けてみたものの、コール音が続くだけでチェギョンは一向に出る気配はなかった。 ガンヒョンは溜息を吐き、携帯を切るとソファーから立ち上がった。 「出ないって事は何かあったのかもしれないし、私二人の部屋に行って来るわ」 「じゃぁ、俺も一緒に行く!」 そう言って、追い掛けて来るギョンをガンヒョンは一睨みしたものの、当のギョンは一向に怯む様子がない。 仕方なくガンヒョンはそのままギョンの同行を許す事にした。 廊下に出ると、ガンヒョンの後ろを歩くギョンから鼻歌まじりの嬉しそうな声が聞こえてくる。 「ただ起こしに行くだけだから、別に来なくていいのに…」 溜息混じりのガンヒョンの前にギョンが立ち塞がる。 驚いて歩みを止めたガンヒョンの肩をがっしりと掴んだ。 突然の事に怯み、ガンヒョンは足を一歩後ろに退くと、ギョンはにんまりと笑って見せた。 「何があるか分からないだろ?これでも俺は頼りになるんだ、連れて行って損はない!」 拳を振り上げ、力説するギョンにガンヒョンは溜息しか出て来なかった。 肩を掴んでいる手を払い除けると、ガンヒョンは足早に歩き出した。 金持ちの考える事は分からない。 そして、ギョンの行動もガンヒョンは分からないでいた。 真剣なのか、それともふざけているのか、ギョンの真意がいまいち掴めない。 その所為もあるのか、ガンヒョンはギョンの気持ちを受け入れる気が起きないでいた。 自分の周りをチョロチョロと纏わり付くように歩くギョンを鬱陶しがりながらガンヒョンは、二人の部屋の前に立った。 小さくドアをノックするも部屋の中から返答は返って来ない。 『困ったわね…』と小さく呟くガンヒョンの横でギョンが勢い良くドアを叩き始めた。 「お〜い!シン!いるのか!?いないのか!?いるんだったら返事しろよ!」 それでも返答はなく、ギョンはドアノブをガチャガチャと回してみるも、やはり鍵が掛かっていて開ける事は出来なかった。 「何か、あったのかしら…」 二人の間にあった険悪な空気は昨夜の時点で消えていた。 それに皆安心していたのだが、今度は二人揃って起きて来ないと言う事態に困り果てる。 ドア一枚隔てた先に起きている事態が分からず、ガンヒョンは苛立ち気味にギョンを見上げた。 「ねぇ、スペアキーとかないの?」 「さぁ…?でも、あったとしても開けられないだろ?」 そのギョンの言葉にガンヒョンは怪訝な顔で訊き返す。 「どうして開けられないのよ?」 「いや、だってそれはさ…一応夫婦の部屋なんだし、開けて見てはいけない光景だったらお互い気まずいだろ?」 「ちょ…!何言い出すのよあんたは!」 「だってさ、夫婦だし…そういう事があっても可笑しくはない、だろ…?」 知らぬ間に顔が赤らんでくる。 お互い気まずさに顔を背け、この妙な雰囲気を消すように、二人は再びドアを叩き始めた。 眠りから抜け出し始める二人の耳に外の騒がしさが少しずつ届き始める。 心地良い気だるさを感じながら、まだ抜け切らない眠りは自分達の状況を思い出す妨げとなっていた。 「シン君、今何時…?」 「ん…さぁ、何時だか分からない…」 ぼんやりとした意識のまま、チェギョンは体を起こす。 そして、感じる肌への違和感に、眠りから目覚めた脳がチェギョンに昨日の出来事を思い出させる。 「やだっ!」 何も身に着けていない自分を思い出し、チェギョンは慌ててシーツを体に巻きつけた。 その声に反応したシンの視線は何の躊躇いもなくチェギョンへと向けられた。 シーツを見に纏う前のチェギョンの姿がシンの視界に飛び込んで来た。 急いで纏わせたシーツから見える白い素肌に目を奪われる。 それせずにいた視線が振り向いたチェギョンと重なり、シンは慌てて視線を逸らした。 チェギョンもほぼ同時に視線を外したものの、その数秒後には“キッ!”と鋭い視線をシンにぶつけて来た。 「シン君、見たんでしょ…?今、見たでしょ…?」 ゆっくりとした重い声が背けた横顔にチクチクと刺さる。 「な…何を…?う…ゴホン…」 上ずる声に咳払いして誤魔化し、シンは顔は動かさず、視線だけをチェギョンに向けた。 視界の端に映るチェギョンは先ほどの声から予想だに出来ない表情でシンを見つめていた。 シーツで隠し切れなかった肩は力なく落とされ、大きく開かれた瞳はユラユラと揺れていた。 ゆっくりと視線をチェギョンへと移してみたものの、その姿は今のシンにおいて全て毒となるものばかり、それを誤魔化すようにして出した言葉は、余計に自分たちの中に気まずさを起こさせる結果となった。 「そう何度も訊くなよ…それに、昨日、散々見たし…」 視線を外し、そう呟いてハッとする。 慌ててチェギョンに視線を戻すと、潤んでいた瞳は先程より更に潤み溢れ出しそうになっていた。 「おい…チェギョン…?」 俯くチェギョンに慌ててシンは手を伸ばすも、その手はチェギョンによってピシャリと払い除けられた。 「チェギョン…?」 「シン君の馬鹿…」 「馬鹿って…」 「そりゃ、確かに昨日見られました!でも、それを言う事ないじゃない!」 「はぁ?お前が見ただろって訊くからだろ?」 「見たとしても見てないって言えばいいの!」 「何だよ、それ?」 「それに…」 「何だよ…」 「どうして、シン君は服着てるのよ!?」 その言葉にシンは視線を自分の体へと移した。 昨夜眠れずにシャワーを浴びた。 まさか、裸のまま戻る訳にもいかず服を着てベッドの戻ったのだが、それがチェギョンには気に障ったようだった。 「夜中にシャワーを…」 「どうして起こしてくれなかったのよ!」 「それは…」 昨夜、いつまでも眺めていた寝顔があまりにも安らかで、シンは起こすのが悪いように思えていた。 だから、そのまま起こさず眠らせておいた。 「気持ち良さそうに眠っていたから起こすのは悪いと思ったんだよ…」 「ズルイよ、シン君だけ…私だけこんな格好で…」 「態とした訳じゃないだろ?」 「そうだけど…シン君!?」 “むうっ”と尖らせた唇、それに誘われるように近づけた体は、チェギョンの白くしなやかな足の蹴りによってバランスを崩された。 ベッドの上で不安定にシンの体が揺れる。 シンは落ちないようにベッドの端に手をついたものの、その手はシーツの上を滑ってしまい、バランスを取れない体はそのままベッドから滑り落ちてしまった。 「シン君!今変な事しようとしてたでしょう!?」 「おい、違う!蹴るな!止めろチェギョン…!うわぁ!?」 “ドサッ!”と音がし、シンの姿がチェギョンの視界から消える。 その隙に、チェギョンはベッドから降りるとバスルームへと急いだ。 「痛っ…!おい、チェギョン!人を突き落として謝りも…」 痛む背中を押さえ、ベッドに戻ろうとシンの目にシーツを巻き付けたチェギョンの背中が映る。 大きなシーツは華奢な体に上手く巻き付かず、背中を大きく開けた状態になっていた。 白い肌に残る赤い跡、それが、シーツと揺れる髪の間から見え隠れする。 その肌とその跡が、昨夜を思い出させた。 昨夜、薄明かりの中で見たチェギョンの肌。 その時でさえも白く儚げに見えたものが、今、その肌が朝日にさらされ、その白さを一層際立たせていた。 “触れたい…” 言いようのない気持は知らずにシンの足を動かし、その背中を追い掛けさせる。 大きすぎるシーツはチェギョンの足に纏わり付き、おぼつかない足取りにさせる。 シンはその背を難なく追い越すとチェギョンの前に回り、その足を止めさせた。 「シン君…?」 自分を見つめるシンの視線にドキッとする。 シンから逃げるように体を捻り、足を一歩下がらせる。 下げた踵が壁に当たり、それに気を取られて視線を落としたチェギョンの体はあっと言う間にシンに捕らえられていた。 チェギョンを挟みこむようにシンの両手が壁に付けられた。 不安そうに見上げるチェギョンの頬にシンは指を這わせた。 その指が頬を滑り、唇へと辿り着く。 薄く開いた唇が、何かを言おうと少しだけ動いた瞬間、シンはその唇を自分の唇で塞いでいた。 「ん…!」 驚きと、抗いが含まれた声さえも今はシンを刺激する材料にしかならない。 「ん…!はぁ…っ」 唇を離した途端に溢れ出る声は昨夜のチェギョンを思い出させた。 上気した頬、恥らうように顔を背けた所為で露わになる首筋、その全てがシンを突き動かす。 離れた唇は柔らかな肌を求め、首筋へと移る。 触れた途端にチェギョンの体がピクリと反応し、小さく息を漏らす。 部屋の前の騒がしさで起きた事も忘れ、シンはその行為に没頭していった。 シンから与えられる刺激に、チェギョンのシーツを掴む手が緩んでいく。 そのシーツを掴む手にシンの大きな手が掛けられると、握りしめていた指が一本一本と外されていく。 外されていく指に合わせるかのように、シーツがチェギョンの肌から少しずつ滑り落ち始めていた。 “パサリ…”と胸の前で重ね合わせていたシーツの片方が、床へと落ちる。 「やっ…!」 空気に晒され、シンの前で露わになった肌を隠すようにチェギョンは、まだ辛うじて掴んでいるシーツで、露わになった肌を隠そうとする。 だが、その手もシンによって遮られてしまう。 そして、露わになった肌にシンの指が這わされた。 「やぁっ…!シン君…!」 這わせられる指から与えられる刺激はチェギョンから立つ力を奪う。 黒く深い瞳に吸い込まれるかのように、チェギョンの体はシンの胸へと倒れこむ。 シンはチェギョンの背中に手を回すと、チェギョンが掴んでいたシーツを背中から引き抜いた。 「やっ…シン君、見ないで…!」 自分の目の前で露わになる背中、見られまいとシンの目がチェギョンの手によって目隠しされた。 シンの目を目隠ししたチェギョンの手はシンの大きな手で簡単に拘束された。 「チェギョン…それは、逆効果だ…」 「えっ…」 塞ぐ唇、これから先を予想できるチェギョンの吐息は、忘れていた二人によって阻まれる事になる…。
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「チェギョン…?」 拒絶に驚き、シンの瞳に困惑の色が浮かぶ。 チェギョンはそれが拒絶でない事を知らせるように首を振った。 「違うの…シン君が嫌だとか、ヒョリンの事がどうとかじゃないの…ただ…」 「ただ…?」 一瞬浮かんでしまったヒョリンの顔。 何故か一瞬浮かんだヒョリンの顔が悲しく見えてしまった。 その顔に胸が痛む。 「シン君はヒョリンの事、どう思ってたの?」 「どうって、言っただろ?好きだと思っていたがそれは違ったって…今は友人の一人にすぎない…」 「ヒョリンは…真剣だったんだよね…自殺を考えるほど…」 「チェギョン…?」 シンの理想に応えようと必死だったに違いない。 嫌われないようにと必死でシンに合わせていたのかも知れない。 世界的なバレリーナになる為に頑張っていたのも、シンに釣り合う為にシンの隣で胸を張って立つ為に頑張っていたのかもしれない。 プロポーズを断ったのだってそんな理由からだったのかもしれない。 自分がシンに釣り合う為に…。 「ヒョリンもいっぱい傷付いた。シン君との未来を思い描いていたのに…私がいきなり現れてシン君と結婚した…待っていてくれると思っていたシン君が自分じゃない他の人を選んだ…」 「チェギョン、いきなり何を…」 「傷付いたのは私だけじゃない、ヒョリンも同じ…ヒョリンは離れて行くシン君が怖かった…自分が思い描いていた未来にシン君が突然いなくなるんだもの、きっと怖かったに違いないから…私だって同じだもの…ヒョリンと再会したシン君が私から離れてヒョリンを選ぶんじゃないかって、もう一度好きになるんじゃないかって怖かった…」 「そんな事ある訳ないだろ」 「それでも不安なの…好きで堪らないから不安になるの…でも…ヒョリンにシン君を渡せない、渡したくないの…ヒョリンだけじゃない、他の誰にも…」 シンへの強い想いを瞳に宿す。 シンはその言葉に堪らずチェギョンに口付けていた。 互いの荒い息が静寂となった部屋に響く。 チェギョンの体から次第に力が抜けていくのをシンは背中に回した手で感じていた。 回した手に掛かる重みに抗う事無くシンはチェギョンを横たえた。 背中に感じたベッドの感触が次に起こる事をチェギョンに予感させ、合わせられた唇が一瞬強く閉じられた。 それを感じとり、シンはチェギョンから唇を離すと、優しく髪を撫で、頬に指を這わした。 ピクリとチェギョンの体が動き、見つめられる瞳に合わせられないチェギョンの瞳が宙を漂う。 チェギョンの額に口付けが落とされ、恥ずかしながらもチェギョンは視線をシンに合わせた。 シンの指がチェギョンの唇を這い、その途中で動きを止めた。 「チェギョン、僕も同じだ。お前を他の男には渡したくない。この腕の中に閉じ込めて誰の目にも触れさせたくない…」 「シン君…」 「2500万年後もこうしてお前をこの腕に抱きたい…」 その言葉の後に、再びシンの唇がチェギョンの唇を塞いだ。 深くなる口付けに体が熱を帯び始める。 首筋へと移るシンの唇に浮かされ、意識は虚ろになっていく。 知らない感覚に戸惑う暇もなく、シンの手はパジャマの上からチェギョンの体をなぞっていく。 「ん…っ!」 荒い息の中に漏れた自分の聴いた事もない声にチェギョンは驚き、一瞬にして我に返った。 気付けばシンの手によってパジャマのボタンが外され掛けていた。 「ま、待って、シン君…!」 パジャマをギュッと握りしめ、焦るようにチェギョンはシンから離れようとする。 逃げようとする体をシンの手が捕まえ自分の下へと引き戻した。 「あの…」 「嫌か…?」 シンの指がチェギョンの頬を撫でる。 その行為ですらチェギョンの体が敏感に反応する。 触れられた所が熱く体中に電気が走ったようになる。 自分の漏らした声に驚き、この覚えのない感覚を知る事も怖くなる。 何より、自分が知らない自分をシンの前にさらす事に羞恥する。 何も言えず、黙ってしまったチェギョンの額にシンの唇が寄せられた。 「まだ、ヒョリンの事許してもらえないか…?」 「違うの!」 「じゃぁ、どうして?」 「だから、その…」 「僕が嫌いか…?」 「違う!そんな訳ないじゃない!」 「だったら、もう我慢させないでくれ…」 「シン君…」 再び塞がれる唇。 上手く言い表せない自分の感情はシンの一言によって消されてしまった。 熱を帯びた唇がチェギョンの白い首筋を這い、シンによって開かれた胸元へと落とされた。 見せた事のない姿に羞恥を覚え、触れる指と唇に反応し疼く自分の体。 「い…やぁ、ッ…んぁ…!」 言葉と裏腹な甘い声、その声がますますシンを惹き付ける。 快楽から逃れるように“いやいや”と首を振るチェギョンの姿。 乱れた髪が酷く誘う事など知らず、逃れようと動く体は甘い香りを振り撒く。 全てが妖艶にシンの瞳に映る。 「ふぁ…っ!」 進む手が触れる場所。 弓なりになる体を支え、体を沈める。 苦痛に歪む顔に止めたい思いに駆られながらも体はその思いに反していく。 「いっ…!シ、ン君…!」 苦痛に耐えるように唇を噛みしめる。 腕に食い込む爪にさえ、自分は心地良く快楽さえ覚える。 「ごめん、チェギョン…でも、愛してる…」 きつく閉じられた瞼がシンの言葉で開かれる。 言葉に出来ずに息だけが吐き出される。 苦痛の中に僅かに見え隠れする快楽に翻弄されながら、ようやくチェギョンはシンの名前を口にする。 「シ、ン君…愛してる…」 零れ落ちる涙と共に吐き出された想い。 シンはきつくチェギョンの体を抱き締め、唇を重ね合わせた。 溶け合うほどに熱い体、でもそれが心地良い。 出来る事なら溶け合い一つになりたいとさえ思う。 朦朧とする意識の中、二つの体と思いは一つに溶け合う…。 落ちた意識、目覚めないチェギョンの髪をシンはそっと撫でていた。 失くし掛けた温もりを取り戻した安堵感と、愛しい人をこの腕に抱いた高揚感にシンは眠れないでいた。 小さく唸り声を上げ、無意識に擦り寄るチェギョンの体をシンは腕の中に閉じ込めた。 触れ合う肌の感触に先程の出来事を思い出す。 シンは肩口に口付けて小さく呟いた。 「どこにも行くなよ…ずっと、ここにいてくれ…」 愛しいくて仕方ない存在。 無邪気に笑う笑顔に何度救われたか分からない。 だから二度と泣かせたくないと思う。 誰よりも強くなり、守り抜かなければならない。 傍にいてくれるのなら、自分はもっと強くなれる。 「チェギョン、愛してる…」 その言葉に無意識に緩むチェギョンの口元。
シンは微笑み、髪に唇を落とすと、その体を優しく抱きしめ静かに目を閉じた。 |
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「はぁ…」 ようやく止まったシンの笑いにチェギョンは頬を膨らませた。 「確か真剣な話をしてませんでした?」 「あぁ、してたな…」 「なのにいきなり笑うなんて失礼だと思うんですけど…」 「そうだな…で、訊きたい事は?訊かれた事には全部答えるから何を訊いても構わないよ…」 その言葉にチェギョンは膨らませていた頬を緩ませ、俯いたかと思うと小さな声でシンに訊ねた。 「ヒョリンから、貰ったプレゼントは今も大事に持ってるの…?」 暗室で偶然見つけてしまったヒョリンからの手紙とプレゼントが入った箱。 その箱が今もシンの傍にあるのかとチェギョンはずっと気になっていた。 その不安がチェギョンの足を暗室に向く事を躊躇わせていた。 「返したよ全部…それを持つ必要がなかったし、何よりお前が気にすると思ったからな…」 「全部返したの?それに後悔はないの?」 「ないよ」 「ほんとに全部返したの?」 「あぁ…本当にヒョリンに関する物は何一つない。何なら部屋中ひっくり返して探しても構わないよ」 「そこまでは、しないけど…」 「お前が暗室に近寄らなかったのはその所為か?」 シンのその言葉にチェギョンはコクリと頷いた。 「だって引き出し開けてもしあったらと思うと怖くて…」 「勝手に開けるのか?」 「例えばの話!勝手に開けたりしないもん、それより、開けられて見られたら困る物でもあるの!?」 「ある訳ないだろ、全くお前は…そんなに信用できないか?」 「だって…」 再びシュンと小さくなるチェギョンにシンは笑みを漏らした。 馬鹿みたいに真っ直ぐで、馬鹿みたいに一生懸命…。 だから傍にいて欲しかった。 乾いた土地に水が滲み込み満たされるように自分の心もチェギョンの優しさに満たされたかった。 居心地の悪い皇太子の座、資質がないと言われた時、ますます自分の場所じゃないと思えた。 だったら、チェギョンだけでいい、誰もいなくなってもチェギョンさえいてくれるのなら、それで構わないと思えた。 今も抱き締めているだけで安らげる。 心が満たされていく。 「ねぇ、シン君…」 「ん?」 「あのね…」 やはり訊く事に躊躇いがあるのか、チェギョンは言い掛けた言葉を何度も飲み込む。 「言えよ、何でも答えるって言っただろ」 「うん、あのね…シン君とヒョリンの事が新聞に載った時、ヒョリンの家が母子家庭だって書いてあったけど…シン君、知ってたの…?」 「…知ってた…ヒョリンはその事を隠してたけどな…」 「知ってたんだ…」 知ってて一緒にいた…。 分かってプロポーズしたのはやっぱり…。 「お前、変な事考えてるだろ?」 「えっ!?」 「やっぱりな…」 “知っていてプロポーズしたのはやっぱりヒョリンの事が好きだったから” どうしてもチェギョンの考えはそこに結びつく。 シンは小さく溜息を漏らした後、チェギョンを自分へと向き直させた。 向き直させられ、気まずくなったチェギョンが罰悪そうに下を向く。 その額をシンは軽く小突いた。 「お前の思考は一方方向にしか向かわないのか?」 「そんな事ないもん…」 「お前は『それを知っていてプロポーズしたのはやっぱりヒョリンが好きだったから』に直ぐに結びつけるだろ?それが一方方向なんだよ」 「だって…ヒョリンがプロポーズ受けてたら、私と結婚するより大変だった筈だよ…だから、やっぱりそれは…」 「激しい誤解だな。それに、それ程大変とは思ってなかったし…結構簡単に考えていた…」 「簡単?どうして?」 「逆にそれを利用するつもりでいたから」 シンの言葉の意味が分からず、チェギョンは首を傾げる。 自分でもこの計算高さには呆れてしまう。 これでヒョリンを好きだと思っていたのだから…。 「利用ってどう言う意味?」 「…お前がこれを聞いたら、最低な男って思うかも…」 「最低な男?それは…何度も思ったから平気…かな?」 「おい…」 「冗談だけど、利用って…?」 「あぁ、たとえ陛下達に反対されたとしても世論を味方に付けるつもりだった」 「世論…?」 「ヒョリンの事を発表さえすれば、世間はこちらが何もしなくてもヒョリンの事を調べ上げ、ヒョリンとの事を美談として取り上げたはずだ。皇太子位より、身分の低い愛する女性を選んだとね…。そうなれば、宮もこれを簡単に無かった事にはできなくなる…そう、頭で計算した…」 「……最低…」 「あぁ…最低だろ?以前の僕は心じゃなく、頭で動いた」 チェギョンの瞳に自分への非難をシンは感じた。 そして、シンはその瞳にヒョリンへの哀れみも感じていた。 「でも、幸せになれると思ったんだよね?」 「幸せ…とは違うのかもしれない。ただ今までと変わらないでいられるだろうとは思った」 「変わらない?」 「そう…何も変わらない…喧嘩する事もなければ、相手の為に一生懸命になる事もない。独りの時と何も変わらない生活、ただそこにもう一人増えただけ…」 「それって、ヒョリンに対して凄く失礼だよ」 「仕方ない、それが当然だと思っていたんだから…」 「それって凄く寂しい事だよ…」 そう考えるシンを可哀想に思えてくる。 少し俯き自嘲気味に笑うシンの手をチェギョンは握りしめた。 その温かさに、シンの心がふわりと優しく包まれたような気がした。 「…お前はいつも温かい…」 「え…?」 俯いていた顔が急に上を向く。 なぜかそれに対処し切れなかったシンは思わず優しく笑みを向けてしまう。 その微笑があまりにも優し過ぎてチェギョンの頬が見る見るうちに赤く染まっていき、再び下を向いた。 「その温かさで冷えた心に容赦なく入り込む。入り込まれた方は驚いて対処できない…だから入り込まれた方は思ってもみない行動を起こす…」 気付いた時には心の中がシン・チェギョンで温められていた。 「シン君…?」 「寂しさなんてずっと昔にどこかに捨ててきた筈だった。ずっと一人で平気だったのに、お前の所為で独りが寂しくなった…他の男とお前が話していようが平気だと思ってた。だけど、ユルの事を心配するお前が憎くて堪らなくなっていた。お前は僕から嫉妬と言う感情まで引き出した…」 「私は…」 どう答えていいか分からずチェギョンは思わず口をつぐむ。 「ヒョリンと二年以上一緒にいてこんな感情は一度も芽生えた事などなかったのに…」 「ヒョリンと一緒にいた時は嫉妬、した事なかったの…?」 「ない。誰と話していようが、誰と一緒にいようが何も思わなかったし、感じなかった」 「私には嫉妬してくれてたの…?」 それが嬉しく思わず口元を緩めてしまう。 そのチェギョンの表情に思わずシンの眉根がピクリと動き、ムッとした表情のシンがチェギョンの柔らかな頬を少しつね上げる。 突然の事に理解出来ずにいるチェギョンが僅かに感じる痛みと共に少し顔を歪めた。 「どの口がそれを言うんだ?」 「ふぇん、ふぅん…?(シン、君…?)」 「どれだけお前に苛立たされたか分からないのに、その口がそう言うか?」 自分からどんどん離れて行くチェギョン、その反対にユルとチェギョンの距離が近付くようで怖かった。 チェギョンの口から語られる未来に自分の姿はなく、その隣にはユルがいるのではないのかと、焦りと苛立ちを覚えた。 チェギョンは誰のものでもない、自分のもの、その口が別の男の名を告げるだけで堪らなくチェギョンが憎くなった。 愛おしいのに憎くて堪らない。 『誰の元へも行くな自分の傍にいろ』 嫉妬の心を上手く伝える事が出来なく、結果、最悪は方向へと自分達を導いた。 ようやくチェギョンの頬からシンの手が離され、チェギョンはシンを睨み、唇を尖らせながらシンを見上げた。 「いたぁ〜い!もぉ〜シン君いきなり何するの!?」 「悪い、つい…」 「“つい”でこんな事しないでよぉ〜!」 つねられた頬を撫でる手をそっと掴まえる。 そっと自分の胸に引き寄せ、シンはチェギョンを抱きしめた。 「どこから間違ったんだろうな…」 「シン君?」 「間違わなかったら、こんな喧嘩も、お前をマカオに行かせたりする事もなかったのにな…」 「たぶん、結婚前に離婚してやるってシン君が言った時から?やっぱり、ヒョリンにプロポーズした時から?う〜ん、どっちだろう?」 チェギョンの言葉にシンは苦笑いする。 チェギョンの口から出た二つは自分の犯した大きな間違い。 「お前の間違いはちゃんと話を聞かない事だな…きちんと聞きもしないで怒り出す」 「うっ…!」 「ユルの誕生日にお前が急に可笑しくなったのは今日みたいにヒョリンとの会話を盗み聞きしてたからじゃないのか?」 「…して、ました…」 「やっぱりな…」 「でも、留学の話、してたじゃない…シン君『留学できたらいいだろうな』って、そう言ってた…凄く、凄く、悲しかった…シン君の未来に私はいないんだ…いるのはヒョリンなんだって、そう思うと凄く胸が痛くて…苦しくて悲しかった…」 シンの腕の中、その時の事を思い出したチェギョンは強くシンのパジャマを握りしめた。 「その後の話は聞かなかったんだろう?」 「…うん、いられなくなって、直ぐにそこから離れた…」 「最後まで聞いていれば誤解はなかったんだろうな…」 その言葉にチェギョンは顔を上げた。 「誤解?」 「あぁ、あの後、ヒョリンには自分の夢より大切なものが出来たから宮を出られないと言った」 「夢より大切なもの…?」 「お前だよ…お前が大切だから、ヒョリンには一緒に行けないと、行くなら、お前と二人で行くとそう言った…」 「嘘…」 「嘘じゃない、僕は随分前からお前と一緒に未来を見たいと思っていた」 「私と一緒に…?」 「お前と一緒に…そう思ったのはお前だけだ…」 そう言ったシンの手が優しくチェギョンの頬を撫でる。
近付くシンの顔に思わずチェギョンはシンの胸を強く押し返していた。 |
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「シン君…?」 シンの溜息にチェギョンは不安になり、そっと声を掛けた。 再び吐き出される溜息と、呟きにチェギョンはクスリと笑った。 「優しくするなんて慣れてないから出来なかったんだよ…」 「確かにシン君には意地悪な事しか言われてなかった。そのくせ、私には傍にいて欲しいみたいな事言わなかった?」 「……さあな…」 「言ったよ、卵ぶつけられた時に『雰囲気の読めないお前が来てくれればって…気が晴れるかも』って言ってなかった?」 「うっ…!」 「思い出した?」 言葉を詰まらせたシンにチェギョンは勝ち誇ったような顔をする。 その顔にシンは苦笑いした。 「思い出さなくても覚えてる…」 あの時はヒョリンでも誰でもなく、チェギョンに傍にいて欲しかった。 傍にいて笑ってくれるだけできっと心が晴れる、そんな気がしていた。 「あの時、本当はヒョリンに傍にいて欲しかった?」 「…いや…お前が言った通り、お前に傍にいて欲しかった。ヒョリンの事は思い出しもしなかったよ…」 「そうなんだ…」 「何だよ、意外だったのか?」 「だって、あの時、ユル君に言われたの『ヒョリンなら…』って…だから、シン君はきっとヒョリンに傍にいて欲しいんだって…」 「そんな事言われてたのか?こっちはてっきりじゃれ合ってるものだと思ってた」 「違うもん!凄く心配してたんだよ…卵をぶつけられた時のシン君の顔、今でも覚えてる…」 「…どんな顔してた?」 「…死んだ人みたいな顔だった…怒ってる訳でも、悲しんでいる訳でもなくて、感情が全然無いの…シン君がこのまま壊れるんじゃないかって心配だった…」 「心配してたくせに、途中で『卵を投げられて当然』みたいな事言わなかったか?」 「あれはシン君が意地悪言ったからよ!」 ぷくりと膨らませたチェギョンの頬をシンは指で軽く突いて笑った。 素直に感情を見せれば誤解もすれ違いも起きなかった。 言葉にすればこんなにも簡単な事だった。 「ユルと一緒にいるお前や、お前の事を悪く言うギョン達にも、そして、お前を皇太子妃として相応しくないと言うヒョリンにも苛立った。何も感じない頃の自分ならそんな事を言われても苛立つ事は無かった。なのに、気が付けば、誰かにお前の事を言われると苛立つようになっていた…ただあの頃の自分にはそれが何だかは分からなかったけどな…」 「もしかして…」 「その頃にはたぶん、な…」 今ならその時の自分の感情が分かる。 誰かを好きになった事がなかったから分からなかった感情。 「でも、ずっと怒ってばっかりだったよ。落馬した時だって心配してあげたのに怒り出すんだもん」 「お前なぁ…」 シンは長く溜息を吐くと、今度はチェギョンの頭を軽く突いた。 チェギョンは小さく痛いと呟いて顔をしかめる。 「落馬した時にユルの所に行ったのは誰だ?怪我をしていた事に気付いたのだって随分後だったじゃないか」 「だって…シン君の所にはみんなが駆け付けて来てくれたけど、ユル君には誰も来なかったから可哀想で…でも、怒んなくったって良かったじゃない…」 「怒るに決まってるだろ?お前は誰の妻だ?ユルの妻じゃないだろ?落馬した時に僕じゃなくユルの所に駆け付け、怪我をした事を後で気が付くお前にイラつかない訳がないだろ?お前が直ぐに僕の所に駆け付けてれば怒る事はなかったんだよ」 「出た!皇子病!」 「皇子病…!?…何とでも言え、皇子病だろうが何だろうが、お前がユルの所に行くのは許せなかったんだよ」 ヒョリンの写真を現像しても苛立ちは治まる事はなかった。 それどころか、一向に自分の所に来ず、ユルを心配しているチェギョンに苛立ちは募るばかりだった。 「タイでも…」 そう、シンが口にした途端、チェギョンの顔から笑みが消える。 気にしていないように努めながらも、その体は強張っていた。 タイでの事はチェギョンにとっていい思い出は一つもなかった。 掛かって来ない電話に心配ばかりが増し、食事も喉を通らなくなった。 シンが帰ってきた事にホッとしたのも束の間、シンとヒョリンのタイでの密会が大きく報じられ、心は酷く傷付いた。 そして…あの写真…。 再び唇を強く噛みしめているチェギョンの横顔にシンの中の罪悪感が蘇る。 出来る事なら消してしまいたい過去。 自分でもそう思うのに、聞かされるチェギョンを思うとシンの胸は痛んだ。 痛みながらもそれを話さなければチェギョンの苦しみは消えない。 「タイでの事はお前も聞きたくない事だと思う。だけど、タイにいる時も僕はお前を忘れた時はなかった…」 「えっ!?」 驚いた顔のチェギョンが振り返る。 シンは静かにチェギョンに微笑み掛けた。 「ヒョリンの事はタイで会うまで思い出す事はなかった…でも、お前の事はいつも考えていた…タイで見た物全てがお前に繋がった…お前の事だからこの景色にこの建物に、この食べ物にどんな顔をして何を言うだろうって…そう考えていた」 見る物全ての中にチェギョンがいた。 『ほら見て!凄いよシン君!!』そう言ってはしゃぐチェギョンが見えていた。 「でも、一度だって電話してくれなかったじゃない…」 小さく消え入りそうな声でチェギョンが呟く。 その声に置いて行った後悔が蘇る。 シンはチェギョンを強く抱き締めゆっくりと話す。 「電話しなかったのは…すると認めてしまうのが怖かったんだ…」 「認める…?」 「…お前を好きだと認めるのが怖かった…声を聞いてしまえばお前に会いたくなるような気がして…だから、あえて電話をしなかった…」 「でも、ヒョリンと…」 その後の言葉を言えずにチェギョンは口をつぐんだ。 僅かに瞳が揺れ出し始める。 「確かにヒョリンと出掛けたのは軽はずみな行為だった…その所為でお前を酷く傷付けたのも事実だ…その事は本当に後悔している…でも、あの時はヒョリンが哀れに思えたんだ…」 「哀れ…?」 「以前のヒョリンなら、あんな事はしなかった…プライドを捨てて自分の目の前で泣くヒョリンをどうしても放って置けなかった。だから、最後のプレゼントにと空港まで送ってやる事にした…ヒョリンが望む事をしてやってそれで終わりにしようと思った」 「それが…あのキス…?」 その言葉と同時に繋いでいた手にチェギョンの力が込められた。 その言葉さえ口にする事はチェギョンには苦痛だった。 そして、口に出した途端にあの写真が頭の中に浮かび、チェギョンは強く首を振った。 「チェギョン、言い訳に聞こえるかもしれないが、あれはヒョリンからいきなりされたもので、僕が自分からしたものじゃない。望んでしたとは思わないでくれ」 「うん…分かってる…でも、やっぱり嫌かな…出来ればもう二度と見たくないもん…」 「ある訳ないだろ」 「だって心配なんだもん…」 「お前は…もう二度とないから安心しろ、な?」 「うん」 少しずつ絡んだ糸が緩み外れていく。 強張っていたチェギョンの体も次第に力が抜けていき、再びシンへと体を預けていった。 「韓国に戻ってお前を見た時はホッとした。お前を抱き締めた時、お前がいるこの場所が自分の帰ってくる場所だと思った。だから倒れたお前をご両親が連れて帰ると言った時も断った…手放せばお前が帰って来ないような気がして放せなかった…」 「私が帰って来ないと思ったの…?」 「あぁ…思ったよ、だから、お前があの写真を見ていなくなった時は不安で仕方なかった…お前が二度と僕の所に戻って来ないような気がして…」 「心配、してくれてたの…?」 「あちこち探し回った…」 「シン君が…?」 「あぁ…ようやく見つけた時、お前はユルといた…」 「ユル君に会ったのは偶然だよ。なのに、シン君いきなりユル君殴るんだもん…」 「仕方ないだろ…あれは…」 『嫉妬したから殴った』 そう言い掛けてシンはその言葉を飲み込んだ。 全て素直に話す、そう思うのに最後のプライドがシンの邪魔をする。 言えずに口を噤んでしまったシンの代わりにチェギョンはいとも簡単にその言葉を口にしていた。 「妬きもち、そんな事ないよねぇ…」 『ははは…』と笑うチェギョンにシンは僅かに口角を上げてチェギョンの頭を軽く叩いた。 「正解…その妬きもちでユルを殴った…」 「へっ!?」 「そんなに驚くな、恥ずかしくなるだろ…」 「えっ…?いや…あの…でも、はい…」 驚きで、あたふたとし出すチェギョンに自分の恥ずかしさなどいつの間にか消えていた。 シンは堪えきれずにチェギョンの肩に額を寄せ、くすくすと笑い出した。 「え?どうして笑うの?」 「いや、別に…」 「だって、ここって笑うところ?」 「違うよ。でも、笑える…」 「シン君、意味分かんないんですけど…」 チェギョンは溜息の中、シンの笑いが治まるまで唇を尖らせ続けた。
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