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チェギョンをシンの側室にと言うヘミョンにガンウは困惑するしかなかった。 だが目の前の女性は真っ直ぐにガンウを見詰め、その真剣さを伝えてくる。 ならば、こちらもその真意を聞かなければと、彼もまたヘミョンの目を真っ直ぐに見詰めた。 「太子殿下は近々明国の姫様と婚礼を行なうとか。なのに、何故その娘を側室に迎えようとするのですか?」 その問い掛けに、『ふっ…』と一瞬だけヘミョンは悲しげに微笑む。 「明国のヒョリン姫との婚姻は国と国を繋ぐ民を守る為にも大切な事…私達、国を治める者にとって、それは果たさなければならない義務…想いを寄せる相手がいたとしても、その想いを叶える事は出来ない…けれど、離せない想いをどうにかして叶えてあげたいと思うのは、私の我儘かしら…?」 そのヘミョンの言葉は、その華やかな暮らしとは裏腹の、自由に自分の想いを貫けない虚しさと苦しさ、そして、どうにかしてシンの想いを叶えてやりたいと思う、姉の思いが痛いほどにガンウ達に伝えてくる。 その思いに彼は口を閉ざす理由がなくなってしまっていた。 「どうか、会わせてもらえないでしょうか?」 「ヘミョン様!?何をなさるのですか!?ヘミョン様がそのような事をされてはなりません!!」 そして、懇願し、頭を下げるヘミョンの姿に皆が驚くと同時にソン武官が声を荒げる。 皇女にあるまじき行為だと、ソン武官が頭を上げるように説得するが、ヘミョンは依然として頭を上げようとはしなかった。 「ヘミョン様!お止め下さい!!」 「じゃあ、あなたはあのままのシンでもいいの!?あの姿を見て、胸は痛まないの!?」 その言葉にソン武官が一瞬言葉を飲み込む。 「胸が痛まないはずがありません…あのような殿下のお姿を見ているのは私も辛いのです…」 「なら、私が頭を下げるくらい大した事ではないわ。それでシンが救えるのなら、安いものよ」 「ヘミョン様…」 ―ヘミョン様なら、二人を守ってくれるかもしれない…― 二人のやり取りを見守っていたガンウの中にそんな思いが湧いてくる。 「…ウナは…」 ガンウの口から呟かれたその名前に、ヘミョンが弾かれたように顔を上げる。 「ウナと、その女性の名はウナと言うのですね!?」 「はい、その子の名はウナと言います…ですが、この村にはもう居りません…」 安堵の表情を見せたヘミョンの顔が一瞬にして険しくなった。 「居ないとは…?どう言う事です?」 「あの子は、元の、自分の居た場所に戻るのだとこの村を出て行ったのです…」 「そんな…だめよ、二人を会わせないと、シンの心が持たないわ…」 「ハヌルの…太子殿下の心が持たないとは、一体どう言う事ですか!?」 嘆くヘミョンにガンウが詰め寄る。 顔を覆う手を下ろし、ヘミョンは宮中でのシンの姿を思い出す。 苦しみと悲しみ、その姿から見えるのはそれしかなく、瞳は映る物全てを拒絶しているかのようだった。 「弟は、生きる気力を失くしています。だから、私は二人を会わせようと…なのに、もう居ないなんて…」 シンを助ける為にと望みを賭け、ここまで来たのにとヘミョンの瞳が涙で揺らいだ時、ソン武官がその重い口を開いた。 「殿下が…殿下がそうなられたのは皇帝陛下のお言葉の所為にございます…」 「それは、一体どういう事なの?」 「陛下は、私に殿下がその者の為に再び宮を出る事があれば、その者を殿下を誑かし国を揺るがした重罪人として捕らえよと…」 「お父様がそのような事を!?」 「はい、それで私は殿下にその事を申し上げました。殿下が宮から出れば、その者は重罪人として極刑が与えられると…その後です、殿下があのようになられたのは…」 「そんな…」 それを告げられた時のシンを思うとヘミョンの胸が痛んだ。 その所為で追い詰められたシンの心。 会う事も伝える事も出来ずにシンの心は悲しみの中に沈んでいった。 葉を落とすむくげの木の前で悲しげに笑ったシンの顔は無力な自分を嘆いていたに違いない。 「ウナを捕らえるつもりなのですか?」 皇帝の意思を知ったガンウがソン武官にチラリと視線を向けた後、ヘミョンへと問い掛けた。 その問い掛けにシンの心痛を思い、涙を浮かべていたヘミョンはその涙を拭うをきっぱりと言い切る。 「いいえ、そんな事、私がさせません」 そう言い切ったヘミョンの瞳は嘘を吐いているように見えない。 「今、追い駆ければまだ間に合うかもしれません…」 その瞳を信じガンウはヘミョンに二人を託す事を決めた。 「ここから少し先に、むくげの花が咲く丘があります。ウナが殿下への想いを断ち切れないでいるなら、まだ、そこにいるかもしれません」 次の、花咲く頃にその丘に二人で行く約束をしたのだと、嬉しそうに話してくれたチェギョンの笑顔がガンウの脳裏に思い出された。 自分の元居た場所に戻るのだと言っても、そう簡単に人の想いは断ち切れるものではない。 その想いが残っているのなら、あの丘にきっとまだ居るはず。 「ヘミョン様、お待ち下さい」 ガンウからむくげの丘に居るかもしれないと聞いたヘミョンが立ち上がり、戸口へと急ぐ。 その背中にガンウが声を掛けた。 「今もウナはハヌルがこの国の太子殿下だとは知りません」 「誰もその事を言わなかったの?」 「はい、村の者は皆あの子を思い言いませんでした。告げれば、また苦しむと…ですから、あの子がその事実を知り、その上で側室を望まないのなら、無理強いはしないで欲しいのです」 ハヌルは李国シン太子だった。 知らずにいた事実をウナが知れば傷付くのは目に見えている。 その上、側室になれと言われれば彼女の心は混乱し、また苦しむだろう。 だが、二度と会えない苦しみを一生、彼女に与えるのはそれでいて酷な事なのだと。 別れを選ぶか、それとも側室という道を選ぶか、それはチェギョンの意思に任せるしかないのだ。 「彼女がどんな道を選ぶか…私にも分からないし、選んだ道を変えろと無理強いはしない。けれど、その道を彼女一人ではなく、シンと一緒に選んでもらうわ」 「殿下と一緒に?では、二人を会わせるのですか?」 「ええ、そうしなければ、二人の心は今の場所から一歩も動けずに、ずっと後悔と苦痛だけを抱えて生きていかなければいかない…」 そう答えたヘミョンはソン武官を従え、外へと走り出した。 むくげの丘、チェギョンの許へと―。
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☆千年恋歌
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遠巻きに出来た人の輪を掻き分け、ガンウは輪の中心へと歩み出た。
剣を手にした屈強な男には見覚えがあり、その隣には圧倒的な存在感を持つヘミョンの姿にガンウの足は動く事を一瞬戸惑わせた。 圧倒されそうになる空気に負けまいと、拳をきつく握りガンウは声を上げた。 「あんた達、何の用だ…」 その声に二人の視線がガンウへと向けられ、ゴクリと唾を飲み込む。 見覚えのある男はあの日、シンを迎えに来た男。 一緒にいる女は宮となんらかの係わりを持つ者なのだろうと推測出来た。 「あなたはこの村の長?」 「違う」 問い掛けられる言葉に威圧感は感じられなかったが、まだ何者とも分からない者に警戒心を解くわけにはいかず、ガンウは二人の出方を待った。 「私達、人を捜しているの」 「人を捜している…?」 その言葉にガンウの脳裏には直ぐチェギョンの顔が浮かんだ。 宮にチェギョンの存在が知られ、明国の皇女との結婚に邪魔になったチェギョンを捕らえに来たのか。 だが、目の前にいる人物はその役目を担った人物には到底思えない。 質素な着物を着てはいるが、漂う気品に凛とした表情、そして、何よりシンと良く似た澄んだ瞳が気になった。 「ここではなんだから、俺の家に来てくれ。そこであんた達の話を聞く」 その言葉にヘミョンは素直に頷き、後ろに控えていたソン武官を促すと、二人はガンウの後に続いた。 「汚い所だが、勘弁してくれ」 「構いません」 心配そうに家の前で待っていたダヨンに無言で頷き、ガンウは二人を家の中へと招き入れた。 宮殿とは違い、粗末な家の中でも戸惑う事無くヘミョンは家の中へと入り、ガンウの前に腰を下ろす。 そのヘミョンの後で一歩下がってソン武官が立つ。 彼らの主従関係は一目瞭然だった。 そうなれば、シンとヘミョンの関係も想像がつく。 不躾と思いながらもシンと良く似た澄んだ瞳にその血の繋がりを感じ、ガンウは僅かに頭を下げてヘミョンに質問をしてみた。 「このような不躾な質問をお許し下さい」 「なにかしら?」 「あなた様と太子殿下は血縁関係がおありなのでは?」 そう問うガンウの言葉にヘミョンは驚く事もなく笑って見せる。 「名前さえも明かしていないのに良くお分かりになりましたね」 「やはり皇女様…」 その聡明さは弟、シンにも引けを取らないと言われ、女であることが惜しいと皇帝にまで言わしめた女性。 「えぇ、私はシンの姉のヘミョンです」 「ヘミョン様!そのように軽々しくご自分の身分を明かすなど…!」 躊躇もせず自分の身分を明かすヘミョンにソン武官は叱責するが、彼女は『うるさい黙って』とでも言うように顔を顰め、前に進み出てきたソン武官に下がるようにと手をひらひらと振って見せた。 そして、ガンウに向き直り彼の顔をまじまじと見つめた後、ヘミョンは今度はガンウに問い掛けた。 「何故、私が皇女だと分かったの?ソンから推測したのかしら?」 「いいえ、あなた様の目が太子殿下によく似ていらっしゃったので…」 「シンに似てる?愛想の無いの弟に似ているなんて心外だわ」 ガンウの言葉にヘミョンは眉根を寄せると不満そうな表情を見せた。 その表情に苦笑いしながらも、ガンウはヘミョンが無愛想だと言うシンの顔を思い出すが、彼の脳裏にはそんなシンの表情は思い出せない。 確かにチェギョンが現れてからシンは声を上げて笑うようになったが、それ以前も穏やかに笑う姿はよく目にしていた。 「宮殿におられる殿下は笑う事はなかったのですか?」 思わず問い掛けた言葉にガンウはソン武官の鋭い視線を受け俯くが、ヘミョンはその言葉に小さな溜息を落とす。 「シンはここにいた時、笑っていた?」 「はい、以前は声を上げて笑われる事はありませんでしたが、最近の殿下は声を上げて笑っておいででした…」 その言葉に再び溜息を吐いたヘミョンは寂しげな表情を浮かべた。 冷静に物事を判断し、国に起こる数々の問題を皇帝と共に解決してきたシンは、幼い頃から周囲に『民に崇拝される王となり、他国の侵略に怯えることのないよう、この国を今より強靭な国にしなければならない』と言われ続けていた。 その期待に応え続けようとしたシンはいつしか笑う姿を自分達に見せなくなった。 国を知る為と自身の身分を隠し、たびたび国を放浪したのは息苦しく自分を押し殺さなければならなかった場所から逃げ出したかったからか。 そして、シンを心から笑わせた女性にはやはり会ってみたい。 ヘミョンは表情を神妙な面持ちに変え、ガンウにこの村にやって来た時と同じ質問を投げ掛けた。 「ガンウさん、私たちはシンと一緒にこの村に住んでいた女性を捜しています。その人に私はどうしても会わなければならないの。あなたはその人をご存知なんでしょう?」 「それは…」 真剣な眼差しと言葉にガンウは言葉を詰まらせたが、ヘミョンの真意が分からない以上、簡単にはチェギョンの事は話せない。 ガンウはヘミョンの表情を見逃さないようにしながら、チェギョンを探している理由を訊ねた。 「その者に会ってどうなさるおつもりですか?」 そう問い掛けたガンウの言葉にヘミョンは暫く沈黙した後、驚く言葉を口にした。 「シンの…側室になってもらいます…」 「えっ!?」 驚く言葉にガンウは困惑した眼差しをヘミョンに向けた。 |
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「ソン武官、早くしなさい!」 「ですが、ヘミョン様…」 「もう!これもシンの為でしょ」 「そうですが…なにもヘミョン様が行かずとも…」 「あなたが行ってどうにかなるの?その怖い顔で何かを言ったところで、その娘があなたの言葉を信じると思う?」 「ではヘミョン様が文をお書きになり、それを私が…」 「だ・か・ら!そんな物を渡しても駄目なのよ!」 まだ夜も明ける前、厩舎前ではヘミョンはソン武官と押し問答を繰り返していた。 「ですが、この事が知られでもしたら…」 「もう!だから、この時間に出るんでしょ?それに、その後の事もあなたに話したでしょ?それで万事上手くいくの!ほら、早くしなさい!」 「分かりました…」 「全くもう、融通が利かないんだから!」 「ヘミョン様を思っての事です!このように馬に乗るのも私は反対なのです!」 「馬車で行けとでも言うわけ?そんな事してたらお日様が真上に上ったって着きやしないわよ!ほら、行くわよ!」 厩舎より馬を連れ出したヘミョンはまだぶつぶつと言い続けるソン武官を無視し、鮮やかに馬に乗った。 「遅い!置いて行くわよ、ソン武官!」 「お、お待ち下さい!ヘミョン様!」 既に馬を走らせたヘミョンの後をソン武官急いで追い掛けると、二人は一路チェギョンが滞在する村へと向かった。 ヘミョンの思惑を知らないチェギョンは空が白み始めた頃、ガンウ夫婦に見送られて村を出ようとしていた。 朝靄がチェギョンの笑顔を儚げに見せる。 「色々とお世話になりました」 その笑顔の裏に隠した苦しい思いを痛いほど知る二人は何とも言えない気持ちでその笑顔を見つめ、深々と頭を下げるチェギョンにダヨンは涙ぐんだ。 「泣かないで下さい。私は大丈夫です。私は私の幸せになれる道を探す為に行くんです。だから、笑って見送ってください」 「そうだ、ウナの言うとおりだ、笑って見送ってやろうじゃないか…」 ガンウはそっとダヨンの肩を抱くと彼女はガンウの胸に顔を埋め嗚咽を漏らす。 「さぁ、笑って見送ってやるんだ…」 そう言いながら背中を撫でるガンウの言葉にダヨンは顔を上げて涙を拭くとチェギョンを強く抱き締めた。 「ダヨンさん…?」 「辛くなった時、いつでも私達に会いに来て頂戴…」 「はい……」 それは叶わない事。 お互い分かりながらもダヨンはそれを口にし、チェギョンはそれに頷いていた。 用意された馬のひずめが土を蹴る。 その音が別れの合図でもあるかのように、抱き締め合っていたチェギョンとダヨンは静かに体を離した。 「気を付けて行くんだよ…」 「はい…」 チェギョンはもう一度深々と頭を下げ、馬に乗ると村を後にした。 村の外まで見送る二人に何度もチェギョンは頭を下げ、そして朝靄の中に消え行く村の姿を目に焼き付けた。 村が完全に靄の中に消える。 消えてしまった村にチェギョンは馬首を向かせると、もう一度頭を下げた。 全てが夢か幻のよう…。 一時の幸せな時間をあの村で貰った。 人を愛し愛される事を教えてもらった。 チェギョンは馬首を申国がある方へと向けると、馬の腹を軽く蹴った。 靄に視界を遮られ、早く走る事は出来ない馬の足、それでも確実にその足は申国へと向かい始めていた。 自分を捜している存在に気付く事もないまま、チェギョンはその思いを断ち切るかのように馬を走らた。 チェギョンが村を発ってから半時ほどしてヘミョンとソン武官はチェギョンを探しにこの村に訪れていた。
「ここなの?」 「はい、この村に殿下は居られました」 「じゃぁ、早速その子を探しましょう」 「ヘミョン様、その娘は私が探しますので、どうか、この場にてお待ち下さい」 そう止めるソン武官を他所にヘミョンは馬から降りると、何の躊躇いもなく村の中へと歩み行く。 ヘミョンの着物は馬に乗る為と目立たないようにと質素な物を纏ってはいたが、もって生まれた他を圧倒する存在感は、その質素な着物では隠し切れないものだった。 村の中を進んで行くヘミョンを不思議そうに村の者達は見つめていたが、ヘミョンの後を追ってきたソン武官の顔を見た村の者は、それが宮廷の者だと直ぐに分かり、慌ててガンウの家へと急いだ。 「ガンウ、大変だ!この前来た宮の武官がまた来てるぞ!」 「何!?」 ハヌルが宮廷に戻り、ウナはこの村を去った。 これ以上宮の人間が何の用があるのだと、ガンウは苛立ちを抑えきれず外へと飛び出して行った。 |
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雨により、チェギョンの足が止められる事になった。 それは神が意図した事なのかチェギョンは家の外、屋根の下で雨を避けるようにして、ぼんやりと屋根から落ちる雨の雫を眺めていた。 決心をしたにもかかわらず、雨に止められるた事に苦笑いするしかない。 逢いたくて苦しい気持ちを押し殺して漸く決心した気持ちも揺らいでしまいそうになる。 差し出した掌に当たる雫が跳ね返り涙のように頬へと当たり落ちていく。 それでもチェギョンは差し出した手を下ろす事はしなかった。 「ウナ、そんな所に立ってちゃ、濡れちまう」 「あ…はい」 いつまでも戻らないチェギョンに心配したガンウが家の中から姿を現し、チェギョンに家の中に入るように促す。 雨にチェギョンの着物は濡れその色を変えていた。 ガンウはチェギョンのその姿に驚き慌てて駆け寄るとチェギョンを急ぎ家の中へと連れて行った。 「ウナ!濡れちまってるじゃないか!」 「あ…本当だ…」 ガンウの声にダヨンが手拭を持って駆け寄って来る。 濡れていると言われ漸くチェギョンは視線を着物へと移し、自分の姿に苦笑いを零した。 「こんなになるまで…」 「ダヨンさん、自分で拭きますから」 「いいから!」 濡れた着物を拭くダヨンにチェギョンがそう言って手を差し出せば、ダヨンはチェギョンの手を制し濡れた着物を拭き続けた。 「心配だよ…こんな風に雨に濡れてもあんたは気付かずにいるんじゃないかと思うと心配で堪らないよ…」 「ダヨンさん…」 「ハヌルは何をしてんだか!ウナが行っちまうっていうのに!」 着物を拭いていたダヨンの手が止まり、その手が震え出す。 堪えるように俯いても小さく漏れる嗚咽がダヨンが泣いている事を教えてくれていた。 「ダヨンさん…」 「あぁ、嫌だ!雨の所為で私まで湿っぽくなっちまったよ!」 そっとチェギョンがダヨンの手を握るとダヨンは手の甲で涙を拭い大袈裟に声をあげた。 顔を背け、奥へと消えていくダヨンにチェギョンは感謝の言葉を何度も心の中で呟いていた。 李国での両親のような存在のガンウとダヨンには感謝の言葉しかない。 こうやって引き止めてくれる事も嬉しいと感じる。 けれどここにこうしている事はできないのだ。 いつの間にか雨の音が止み、落ちる雫の音だけがチェギョンの耳に届く。 戸を開けると、雨は上がっており、代わりに湿った風がチェギョンにまとわり付いた。 そんな色を落とす空をチェギョンは見上げ小さく微笑んだ。 李国の空を見るのも今日が最後、明日には申国の空を眺める。 風を感じるのも、この空気も、今日が最後。 明日の夜には全てが元通り…。 薄くなる雲の切れ間から星々が覗き始める。 「明日は晴れね…」 その空に雨が降る様子は見えなかった。 明日の朝早くにこの村を出よう。 慣れない道、早くから動けば日が落ちる前に申国に戻れる。 「ウナ…」 「ガンウさん…」 窓の外を眺めるチェギョンにガンウが声を掛ける。 チェギョンの横に立ち、ガンウも同じように空を見上げた。 お互い空を見つめ、顔を見ないままの会話が始まる。 「明日は晴れるな…」 「そうみたいです…」 「いつ出る?」 「朝には…」 「そうか…」 「色々とお世話になりました…」 「いや、結局お前には何にもしてやれなかった…」 ガンウの言葉にチェギョンは首を振った。 シンが自分のいるべき場所に戻ったあの日から今日までこうしていれたのも二人のお陰だとチェギョンは思っていた。 二人がいなければ自分の心は既に折れていたに違いない。 闇の中で今ももがき苦しんでいたに違いなかった。 「いいえ、お二人には感謝しても仕切れないほど沢山の物を頂きました…何も返せないのが心苦しくて…」 「だったら幸せになってくれないか?ハヌルを忘れるほど幸せになってくれ。そうすれば俺達も安心出来る。二度と会えなくとも、お前が幸せになった事を風の便りに聞くだけでいい…ウナ、幸せになれ…」 「ガンウさん…」 ガンウの言葉にチェギョンは微笑んで見せた。 辛く苦しい思いを抱えたまま、シンを待つ事をせずにこの村を去る自分を哀れに思うガンウの言葉。 チェギョンはガンウの横顔にその言葉を言わなければいけない苦しみと、自分を思う優しさを感じていた。 「ハヌルを忘れるほど幸せになります…」 ガンウの横顔から視線を外し、再び空を見上げた。
すっかり雲の消えてしまった空には先程よりも多く輝く星々。 出逢ったあの日と変わらない星空、でも、心を寄せたいと思う相手はもういない。 想うのもこれが最後…。 チェギョンは静かに目を閉じ、出逢ったあの日のシンを思い出した。 |
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宮に戻った翌日にソン武官に聞かされた話はシンを更に追い詰め、動けなくさせていた。 『再び太子がこの宮から飛び出す事があれば、その娘を太子をたぶらかせた罪により捕らえよ』 皇帝の命令、シンがそれに背けばソン武官はチェギョンを捕らえなければならなくなる。 そうさせない為に、ソン武官はシンにその事を伝えていた。 「本当に…本当に陛下はそんな事を言ったのか…?」 「はい、直に私めにそう申されました。殿下がそのようになさるのであれば、私は陛下の命令に従わなければなりません…」 握りしめたシンの拳は白く血の気を失い、唇は震えていた。 打ちひしがれ、ふらつきながら椅子へと倒れ込む。 その様子にソン武官は驚いていた。 全ての事を完璧にこなしてきた姿だけを見てきた。 そのシンが打ちひしがれ、まるで子供のように背中を丸くさせている。 見てはいけない姿を見たような気分だった。 日々その顔に影が色濃く映る。 放って置くには危険すぎるシンの様子に、ヘミョンはソン武官を呼び寄せた。 シンが見つめていたむくげの木の前でヘミョンはソン武官にシンが滞在していた村の事を訊ねていた。 「あなたはシンが滞在していた村に行ったのよね?」 「はい…」 「じゃぁ知ってるわよね?シンの想い人…」 「…いえ、私は見ておりません…」 「見てないかぁ…見てたら話は早かったんだけどなぁ…」 「と、申されますと…」 「お願いがあるの」 「…お願いにございますか…?」 跪き、俯いて話を聞いていたソン武官が顔を上げる。 何かを企んでいる微笑みに不安を感じる。 「ねぇ、あなた、シンがあのままで良いと思ってる?」 「…思ってはおりませんが…」 「そう、だったら協力してくれるわよね?」 ヘミョンにとってもそれは一か八かの賭けだった。 下手をすれば大変な事になりかねない。 それでも、そうしなければシンはあのまま心を閉ざしていくだけ。 不安そうに見上げるソン武官を立たせ、ヘミョンはソン武官の耳元近くでその計画を話す。 その話にソン武官は驚きで一歩後ずさる。 「ヘミョン様、正気ですか!?」 「正気よ、こうでもしなきゃシンは元に戻らない…」 「ですが…」 「幸いにも誰も顔は知らないし、大丈夫よ…」 大丈夫…。 ヘミョンは何度もそう自分に言い聞かせていた。 ****************** 「出て行くと言うのか!?」 ガンウの声が家の中に響く。 チェギョンはその声に静かに微笑むと小さく頷いた。 ずっとこの二人に甘え、頼る訳にもいかない。 そして、ハヌルがいない今、自分がここにいる理由もない。 ハヌルがいなくなってからずっと考えていた事だった。 「足が良くなったのに、ついつい皆さんに甘えてしまいここにいましたが、家に帰ります…」 「だが、ハヌルは…ハヌルはどうする…?」 その言葉に一瞬チェギョンの瞳が揺らいだが、直ぐにそれを隠し首を振った。 「…これ以上待てば私もハヌルも苦しみます。引き返すなら今しかないような気がするんです。だから、私はハヌルが自分の場所に戻ったように、私は私の場所に戻ります…」 「それでいいのかい…?」 ダヨンの手がチェギョンの手を包み込む。 優しく温かな手に抑えていた涙が込み上げてくる。 それに気付かれないようにとチェギョンは俯きギュッと唇を噛んで涙を堪えた。 そして、溢れ出そうになる涙を抑えたチェギョンは、俯いていた顔を上げ、心配そうに見つめる二人に笑顔を向けた。 「はい…私は私の場所に帰ります…」 チェギョンの決心の後に静かに雨が降り出した。
その雨が笑顔の下の隠したチェギョンの涙のように二人は思えてならなかった。 |




