|
「だ、か、ら!これだと、みんなが納得しないって言ってるでしょ!?」 「納得出来ないって言われても無理なものは無理なんだよ!」 「無理だ!無理だ!って言わないで先生に掛け合ってみなさいよ!」 「簡単に言うなよ!」 「皇太子殿下は頭が固いのね!」 「皇太子って呼ぶなって言ってるだろ!」 「皇太子殿下は皇太子殿下でしょ!」 放課後の生徒会室。 兄、ユルに一緒に帰ろうと言われチェギョンは生徒会室に来たのだが、ユルは女生徒と論争中だった。 ユルと論争中のその女生徒にチェギョンは見覚えがあった。 生徒集会で会長のユルと副会長のシンとの間に立っていた彼女、女子副会長のソン・ウニョン。 でも、彼女とユルが何故言い合いしているのか分からず、唖然としたままその様子を見ていたチェギョンに二人と一緒に生徒会室に居たシンが椅子に座るように勧めた。 「チェギョン、座れ」 「シン兄様…止めなくていいの?」 「あぁ、あれ?いつもの事だ。さっき始まったばかりだからまだ終わらないと思う。暫く待ってろ」 「うん」 椅子に腰掛けたチェギョンが二人の様子を見守っていると、目の前にカップが差し出された。 「ありがとう」 シンからそれを受け取るとミルクティーの甘い香りが漂い、口を付けると香りと同じように優しい甘さが口内に広がった。 「おいしい…」 ホッと息を吐き出し傍らに立つシンに微笑むと、彼は満足したように笑い、チェギョンから少し離れた席に座った。 カップに口を付け、お互いの意見を言い合う二人を見るも、手持ちぶたさは否めない。 視線を二人からシンに向ければ、彼は熱心に何かの資料を見ていた。 自身と一緒に椅子をずらし、シンの隣に行くと彼が見ている資料を覗き込もうとして彼と目が合う。 至近距離のシンの顔に頬が熱くなるのを感じ、誤魔化すようにカップに口を付けたチェギョンは相変らず激論を飛ばし合う二人に視線を送るとシンに二人の事を訊ねた。 「いつも、ああなの?」 チェギョンの問い掛けにシンも二人を見やる。 「意見が合わないとああなる。言いたい事を全部吐き出せば治まるから大丈夫だ」 「そう、なんだ…」 ユルは他人の前ではあまり感情を露わにしない。 それは皇太子ゆえの事なのだが、心を許した人は別だ。 心を許した唯一の他人がシンである事は知っていたが、彼女もその一人という事なのだろうか。 「分かった。一応先生には掛け合ってみる」 「会長が掛け合ってみてくれるけど、ダメだったら我慢してと私もみんなを説得してみるわ」 「よろしく頼む」 言いたい事を全部言い切ったのか、二人は大きく息を吐き出した。 そして二人同時に噴き出す。 「ほんと、ユルって頑固よね」 「君には言われたくないけど?」 クスクスと笑い合う二人の様子にシンは「終わったな」と呟いて席を立った。 手にしていた資料を二人に見せ、三人で話し合う様子にチェギョンはまた一人取り残されたような気持ちになった。 それは、どうしても越えられない二歳という歳の差。 やっと近付いたのにもう少しすれば、また二人は高等部へと上がり、自分はまた一人残されてしまう。 「ハァ…いやだな…」 一人落ち込み、カップの中のミルクティーを見詰めていたチェギョンに影が差す。 チェギョンが顔を上げると、優しく微笑むユルの顔があった。 「待たせてごめん」 「ううん…」 首を振って立ち上がったチェギョンに彼の後ろに居たウニョンが申し訳なさそうに頭を下げた。 「皇女様がお待ちになってたのに、すいません…」 「あッ、そんな!気にしないで下さい!」 オーバーアクション気味に手を振ったチェギョンにウニョンの硬くなっていた表情が幾分か和らいだように見えた。 その様子にチェギョンの横に居たユルが小さく舌打ちしたのが分かった。 「ソン・ウニョンさん、僕と妹では随分態度が違いますね」 面白くなさそうに嫌味たっぷりにそう言ったユルだったが、ウニョンにサラリとかわされてしまう。 「だって、ユルは意地悪だけど、皇女様は可愛いもの」 ウニョンに可愛いと言われ、チェギョンは顔が赤くなるのが分かった。 その後ろでは、三人を静観していたシンが口許に手を当て笑いを堪えていた。 帰りの車の中、ユルはシートに深く腰掛けて溜息を吐き出した。
「ほんと、彼女には参るよ」 そう言ったユルだったが、チェギョンにはその横顔はどこか嬉しそうに見えた。 「参るってどうして?」 「自分が間違っていないと思ったら絶対に引かない。頑固者だよ」 「でも、良い人なんでしょ?」 「まぁ、そうなんだけど、ね…」 どこか、照れたような表情を見せたユル。 何故、ユルがそんな表情を見せたのか後になってその訳が分かった。 ユルはそれから暫くしてウニョンを宮に招待した。 それが一度きりのものではなく、何度か彼女を宮に招待していた。 最初はシンと一緒に。 その内、彼女一人だけが宮に来るようになった。 家族の中でも話題に上がるようになり、ユルは何度か彼女を家族に合わせていた。 それが、どういう意味を持つのかユルも分かっていた。 だから、一年が過ぎた頃、ユルは家族の前で彼女を皇太子妃にしたい事をはっきりと口にした。 「皇太子妃の件が王族会で度々議題に上がっていると聞きます。ならば、僕はソン・ウニョンを皇太子妃として迎えたいと思ってます」 彼女が王族の家系という事や家族の誰もが賛成した事、何よりユルのその強い想いは王族会にも通じて、その一年後のユルが高校二年の秋に二人の婚約が正式に発表された。 婚約者となった、ウニョンはチェギョンにも優しく、何よりユルの事を一番に考え大切にしてくれる。 寂しいと感じなかったわけではないが、彼女ならユルを支えてくれるとチェギョンは二人の婚約を喜んだ。 その後もお妃教育のために宮に来るウニョンとその様子を見守るユルの姿は誰もが頬を緩めるほど仲睦まじく、チェギョンの憧れの的となった。 そして、気が付けば自然と二人の姿を自分とシンに置き換えてしまっていた。 疎遠となりつつある、もう一人の兄、シン。 二人の姿を自分とシンに置き換えてしまうのはユルが自分から離れた寂しさから来るものなのだろうと思っていたのだが、それがユルに対する想いと違うと分かったのは、ユルのある言葉を聞いてからだった。 「シンに恋人が出来た…」 チェギョンが高等部に進学するひと月前、突然聞かされたシンの恋人の存在。 それを聞かされた途端、チェギョンの心がズキリと痛み出した。 そして、それは確かな拒絶反応を示す。 ―コイビトナンテ、ウソダ…― 「う、うそだもん…そんなの絶対、嘘だもん!!」 零れ落ちた涙を乱暴に拭ったチェギョンはユルを睨むように見上げ、そう言い放った。 |
☆Sweet & Bitter
[ リスト | 詳細 ]
|
―正殿、皇太后の間― 蕾が膨らみ始めたばかりの初春、中等部の入学式となったこの日、皇太后の部屋では真新しい制服に身を包んだ少女が零れんばかりの笑顔で家族の前に立っていた。 「チェギョン、良く似合ってますよ」 「本当?お祖母様♪」 くるりと一回りしてスカートの裾を少し持ち上げたチェギョンはちょこんとお辞儀をして兄、ユルの隣に腰掛けた。 既に慣れ親しんだ中等部の制服に身を包んだユルと中等部の制服を来たチェギョンが並んで座るのは今日が初めてで、嬉しくて仕方ない。 数日前までは初等部の制服だったせいか、ユルが随分と大人に見えた。 置いていかれたような気分だったが、今日は同じ制服という事もあり、兄に近付けた事も嬉しかったが何より自分が大人になれた様な気がした。 両親の話題が今日の公務に移ったところでユルが笑顔の耐えないチェギョンの顔を覗き込む。 「そんなに嬉しいか?」 そうユルが訊ねると、チェギョンは人差し指を立てて‘勿論!♪’と答えた。 「兄様達にいつでも会えるもの♪」 ‘お兄様よろしくね♪’と付け加えられた言葉にユルは苦笑いするしかなかった。 自分達にも責任が無かったとは言えないが、初等部の頃はチェギョンが心配でシンと二人、何かにつけてチェギョンの様子を見に行っていた。 それが、自分達が中等部に進んでからそれが一切無くなったのだから、チェギョンがそう言うのも分かる気がするが、理由はそれだけじゃないように思えた。 「そう言えば、さっきシンを見掛けたな…」 その言葉にチェギョンの身体がピクンと動くと、ユルの膝に手を掛けて揺さぶり、大きな瞳でチェギョンはユルの顔を覗き込んできた。 「シン兄様が?どこに?」 「イ内官に渡す物があると言ってたから、イ内官の部屋じゃないのかな」 そう答えたユルにチェギョンが今日一番の飛びきりの笑顔を見せた。 中等部に上がる一番の嬉しい理由が彼なのだと、内心悔しい気もしないでもないが嬉しそうにする妹を見ると嫌味も言えない。 「シンに制服姿見せたいんだろ?」 「うん!」 そう言って立ち上がったチェギョンは準備が整っていなかったと、退室の挨拶もそこそこに皇太后の間を後にした。 呆気に取られる両親に苦笑いしつつ、ユルは嬉しそうなチェギョンの後ろ姿を見送った。 「チェギョン様、もっとゆっくりお歩きになって下さい」
シンの元へと急ぐチェギョンに後ろから付いて来るチェ尚宮が苦言を呈す。 そんなチェ尚宮の言葉に頬を膨らませながら、チェギョンは歩くスピードを緩めた。 「お姉さん厳しすぎ」 「チェギョン様の為です」 ピシャリと言われチェギョンは‘うぅっ’と唸って肩を落とした。 ―やっぱりお姉さん厳しいよ。 チェギョンに付いているチェ尚宮は宮に対する忠誠心が厚く、若い尚宮の中でも優秀だった為、皇后付きの尚宮に取り立てられたほどだ。 だが、そのチェ尚宮を皇后は落ち着きのないチェギョンの為にと二年程前から教育係として付けていた。 普段は厳しいチェ尚宮もチェギョンが悩んだ時などは親身になって相談に乗ってくれ慰めてくれる。 チェギョンにとってチェ尚宮は歳の離れた姉のような存在になっていた。 そんなチェ尚宮を気にしつつ、チェギョンがイ内官の部屋の行くと、ユルの言っていた通り部屋の前にシンの姿があった。 「シン兄様?こんな朝早くにどうしたの?」 嬉しい気持ちを抑え、偶然の装ってチェギョンはシンに声を掛けた。 「お前こそ、こんな場所に来るなんてどうしたんだ?」 チェギョンの声に気付きシンは壁にもたれていた身体を起こすと、長身の彼が一層大きく見えた。 中等部に進学してからシンと会う機会は極端に減り、宮で見掛ける事はあっても声を掛ける事がなかなか出来ずにいた。 そんなシンと話したのはもう一ヶ月前の事で今の彼は一ヶ月前より大人に見える。 知らない間に低くなった声や覚えのない仕草するシンにドキドキして、なかなか答えられないチェギョンにシンは首を傾げその顔を覗き込む。 「んとね、みんなに制服のお披露目しようと思って…」 シンに見つめられ、ドギマギしながら咄嗟に出した言葉だったが、シンが注目してくれるには充分だった。 シンも中等部の制服を着たチェギョンを見るのは今日が初めてで、頭のてんぺんから爪先までまじまじとチェギョンの制服姿を眺めた。 一ヶ月前声を掛けて来たチェギョンはまだ初等部の制服に身を包み、髪は高い位置で二つに結っていた幼い女の子だった。 今、目の前にいるチェギョンは髪を下ろし、少し大人に見える制服を着ている。 あどけない笑顔は変わらないけれども、彼女も少しずつ大人になっているのだと思わずにはいられなかった。 「どう、かな?似合う、かな…?」 自信無さげに訊ねるチェギョンの頭を優しく撫でた後、腕組みしてもう一度チェギョンの制服姿をチェックする。 「似合うけど、スカートが短過ぎ」 「指定通りの長さだもん…」 パン女官とチョン女官に指定された長さよりちょっとだけ短くしてもらったけど、それをシンが知るはずがない。 バレたのかとドキドキして目を泳がせたチェギョンに気付き、シンは後ろに控えているチェ尚宮に声を掛けた。 「チェ尚宮さん」 「はい、何でしょうか?」 「あーっ、だめっ!シン兄様言っちゃやだー!」 チェ尚宮に怒られると慌ててシンの口を塞ごうとチェギョンは手を伸ばしたが、長身の彼の口になかなか届かない。 「スカートの丈、多分指定されたものより短いと思うので調べてもらえませんか?」 隠していた事がチェ尚宮に知られたと、恐る恐る後ろを振り向けば厳しい表情のチェ尚宮が自分を見ており、チェギョンはガックリと肩を落とした後、シンを睨み上げた。 「シン兄様の意地悪!黙ってくれててもいいじゃない」 「生徒会副会長兼風紀委員長の俺に嘘を吐けって言うのか?」 「うぅっ…シン兄様の鬼!悪魔!」 「なんとでも言え」 声を上げて笑っていたシンが不意に表情を固くして俯く。 訝しげな表情で彼が表情を固くする直前に自分の肩越しに目を向けていた事を思い出したチェ尚宮が振り返ると、そこには険しい表情をした彼の父、イ内官の姿があった。 「イ内官様、おはようございます」 「あぁ、チェ尚宮おはよう」 二人のやり取りに気付いたチェギョンが振り返り、イ内官に笑顔を向ける。 「イ内官のおじさん、おはようございます!」 「チェギョン様、おはようございます。このようなところにおいでとは何かございましたか?」 「えっとですね、今日から中等部なので、新しい制服をみんなに見てもらおうと来ました」 「左様にございましたか」 「制服、似合ってますか?」 「えぇ、とてもお似合いですよ」 「ありがとうございます♪」 チェギョンに対し柔らかな眼差しと口調で挨拶するイ内官だが、その後ろに立つ息子シンに向ける眼差しは変わらず険しい。 自分に向けられる父の目に居心地の悪さを感じたシンは、ここに来た目的を早く果たすべくA4サイズの封筒をイ内官に差し出す。 「頼まれていた物です…」 「あぁ…」 封筒を受け取ったイ内官が中身を確かめる間、シンは床に視線を落とし、イ内官からの視線を避けていた。 「チェギョン様、そろそろ登校の用意をなさいませんと」 親子の間に漂う微妙な空気を感じたチェ尚宮がチェギョンに声を掛け、この場から彼女を遠ざけようとする。 「あ、そうだね。じゃぁシン兄様学校でね♪」 何も気付かないチェギョンは素直に頷き、チェ尚宮の言葉に従った。 「あ、あぁ…」 チラリと視線をチェギョンに向けたが父の目が気になるのか、シンは直ぐに視線を逸らした。 手を振るチェギョンに一礼し、二人を見送ったイ内官は、二人の姿が見えなくなると溜息を吐き出した。 「僕も学校がありますので…」 父に何を言われるか見当がつくシンは一礼して立ち去ろうとしたが、イ内官はそんなシンの背中に彼が幼い頃から言われ続けてきた言葉を再び彼に浴びせた。 「シン、分かっているとは思うが、我々と宮家の方々とは住む世界が違うのだ。特にチェギョン様とは距離を置きなさい」 「…はい、父さん…」 振り向かずにシンは父の言葉に頷くと再び一礼してその場を後にした。 振り払いたいのに頭の中では先程の父の言葉がリフレインする。 ―身分違いだということは、言われなくても分かっている…。 ‘異性であるシンがチェギョン様の傍に居れば、悪い噂を立てられる可能性がある。そうなれば、宮家に迷惑を掛ける事になる。’ 散々言われ続けてきた言葉に従い、中等部に上がってからは必要以上に宮中に来ないようにしたし、ユルに用がある時はチェギョンに会わないように東宮殿に行っていた。 偶然に会う事があれば、自分の気持ちを押し殺して兄に徹した。 言われ続ける事で悲鳴を上げそうになる自分の心を抑えるようにシンは唇を噛んで拳を握り締めた。 |
|
シンの証言やその後の調べによりソン・スヒョクの暴言の事実が明らかになった。 事実が明らかになったことで皇帝はソン・デフンにスヒョクの処罰は厳重注意する代わりにシンの暴行は今後一切言及をしない事を約束させた。 宮からの知らせを受け、デフンは宮家に特別に目を掛けられているイ内官家族を面白くないと心の中で舌打ちしながらも、これ以上の醜態は晒せないと渋々了承した。 その後、デフンはスヒョクをアメリカに居る妹の所へ預けた事でこの事態は終息となった。 ***** それから数年後の初夏となった季節、初等部校舎でチェギョンは窓から身を乗り出し、向かい側の中等部校舎に向かいぶつぶつと文句を呟いていた。 「あ、そんなにくっ付いちゃダメ!」 チェギョンのそれは呟くと言うより叫びに近く、友人であるイ・ガンヒョンは叫び続けるチェギョンに近付くとチェギョンが見つめている中等部校舎へと視線を向けた。 中等部校舎の廊下に見える人物を確認しガンヒョンは小さく溜息を吐く。 そこには数名の女子に囲まれ、困ったような苦笑いを浮かべているシンの姿があった。 中等部に上がり身長が伸びたシンは急に大人びたて見え、その所為かシンの周りには女の子が群がるようになった。 今、見えている状況がまさしくそれだ。 「イ先輩も中学生だし、彼女がいてもおかしくないか…」 そうガンヒョンがボソリと呟くと眉根を下げ唇を尖らせながら『う〜っ』と唸っていたチェギョンがキッとガンヒョンを睨み上げた。 「ガンヒョン!」 「なによ、皇太子殿下もイ先輩もこの先、好きな女の子が出来たり、結婚する事だってあるかもしれないじゃない。いつまでもあんた一人って言う訳にはいかないのよ」 「うぅっ…」 分かってるけど、やっぱりヤダもん…。 小さな溜息を一つ吐いてまだ中等部校舎の廊下に見えるシンを見つめた。 誰か見付けたのか片手を上げたシンの右腕にチェギョンの胸はチクリと痛んだ。 遠目からでは分からないが、シンの腕には10センチ程の傷痕がある。 自分を守る為にシンが負った傷を見る度にチェギョンは申し訳なく、そして嬉しい気もしていた。 シンが怪我をしたのは一年前、桜が満開になる頃だった。 聖祖皇帝が二年前に崩御し、その喪が明けた翌年、皇室は毎年恒例となっていた宮の庭園一部を国民に開放する行事を再開した。 開放される場所は皇族住居から離れた場所とされ、警備や来園者チェックが厳重にされていた。 だがチェギョンは好奇心に勝てず、開放日に翊衛士の目を盗みこっそりとその様子を一人見に行っていたのだった。 大勢の人達が宮の庭園に感嘆の声を上げるのを見たチェギョンは知らず知らずの内に来園者との距離を縮めていく。 警備にあたっていた者もまさかそこにチェギョンがいるとは思わず、チェギョンの行動を見逃していた。 それが、この事件が起きる結果となった。 建物の影から人々の様子を見ていたチェギョンの肩が不意に掴まれ、チェギョンは当然のごとく後ろを振り返った。 そこには20代と思われる男が頬を紅潮させ立っていた。 「チェギョン姫だよね?そうだよね?」 訊ねる男の目に不安と恐怖を覚えチェギョンの背筋に冷たいものが走る。 首を何度も振ってチェギョンは男から逃げようと後退りした。 だが、そうすればそうするほど、男はチェギョンの手を掴んで放さず執拗に迫ってくる。 恐怖のあまり声も出せず、チェギョンは心の中で両親やユル、そしてシンに助けを求める。 建物の隅に追いやられ、ギュッと固く目を閉じ、心の中で“助けて!”と叫ぶとチェギョンの耳にシンの声が飛び込んできた。 「おい、お前!何をやってる!」 飛び込んできた声に固く閉じていた目を開きシンの姿を確認した途端安堵でチェギョンの目から大粒の涙が零れ落ちた。 「シン兄様!!」 「バカチェギョン!何でこんなところに居るんだ!お前が居なくなったってみんな大騒ぎしてたんだぞ!」 シンの声に怯んだ男の手が緩んだその隙にチェギョンは男から逃れ、シンの背へと身を隠した。 「うぅっ…シンにい、さま、ご、ごめんなさい…」 背中に顔を埋めるようにしたチェギョン 小さく安堵の息を吐き出したシンは自分の背に隠れているチェギョンの頭をクシャクシャと撫でた。 「チェギョン、ハン・ウンソク翊衛士がこの先に居るはずだからそこに行くんだ」 「シン兄様は?一緒に行かないの…?」 「こいつを足止めしとく」 「やだ、やだよ!」 「我がまま言うな!いいから走れ!」 背中をドンと押され、チェギョンは何度も振り返りながらハン翊衛士の許へと走り出した。 それから後の事はよく覚えていない。 ただ怖かったのと、置いて来たシン兄様の事が心配でたまらなかった。 泣きながらもチェギョンはハン翊衛士にシンの事を教え、翊衛士数名と駆けつけた時にはシンは右腕を血だらけにしながらも男を取り押さえていた。 右腕の傷痕は一生消えないかもしれないと聞かされ、自分の所為だと何度もシン兄様に謝った。 その度にシン兄様は『傷が残ったって平気だよ。お前に何もなくて良かった』と笑って頭を何度も撫でてくれた。 あれからチェギョンの中でシンという存在が兄から別のものへと変わり始めていた。 でも、まだそれに気付く程まだ大人でもなかった。 今までがそうであったように、これからも自分がシンの一番でありたい気持ちだけは、はっきりとしていた。 ただ、校舎の向こうのシンは今の自分よりずっと大人びていて、チェギョンは置いていかれたような気持ちだった。 早く大人になりたくて、もっとシンに近付きたくて堪らなかった。 「早く大人になりたい…」 「何?何か言った?」 「ん…別に…」 チェギョンが小さく呟いた言葉は吹く風に流されていった。
|
|
膝の上に握られた拳はまだ悔しさを残すのか、ぎゅっと強く握り締めていた。 流れ落ちる涙をその拳で乱暴に拭うと、シンは学校で起きた出来事を話し始めた。 「あいつ、ユルの事…」 ************ 昼休み、日直だったシンが職員室に午後の授業で使うプリントを受け取り、教室に戻る途中でユルに会った。 「シン、手伝おうか?」 たくさんのプリントを抱えるシンにユルは手伝うよと声を掛けたが教室までそう距離はない。 「いいよ」と答えを返し、ユルの横を通り過ぎようとして、ユルが手に持っていた本に気が付いた。 「ユル、その本返すのか?」 「うん、今から返しに行くところだよ」 「俺、その本借りたかったんだ。これ教室に置いたら図書室に行くから、その本返さないで待っててくれよ」 「分かったよ」 そう言葉を交わし、シンは足早に教室に戻ると教壇にプリントを置き、急いで教室を出ようとしたところで、シンはある一人の生徒の言葉に足を止めた。 ソン・スヒョクが発した言葉はシンの怒りを買うのに充分な言葉だった。 「ユルがいつもテストで一番なんて絶対変だと思わないか?」 「皇太孫だから、勉強してるんじゃないの?家庭教師とかつけてさ」 「もしそうだとしても、毎回一番だぜ、そんなのありえないって」 「でも成績いいのは確かだし…」 「だからだよ。実はさ、俺、先生が協力してるんじゃないかと思ってるんだ」 「先生が協力?どんな?」 「ユルにだけ先にテストを渡してるとか、そうじゃなきゃ、テストに名前だけ書いて答えは先生が書いてるとかさ」 「そんな事できるのかよ?」 「バカ、ユルは皇太孫だぞ。テストで悪い点数なんかつけてみろ、クビにされるに決まってる。だから先生が協力してるんだよ」 「でもさ…」 「あいつに頭の良さなんか必要だと思うか。テレビのニュース見てみろよ。皇帝も皇太子もみんな手振ってるだけじゃないか。ユルだって同じだろ?こう、首振り人形みたいにさ、ニコニコ笑って手を振ればいいんだから。いいよなぁ、皇帝になってもユルは何にも考えないでただそれだけすればいいんだからさ。それで金が貰えるんだから皇族って楽な仕事だと思わないか?」 首振り人形の真似をしながら手をひらひらとさせ笑うスヒョクに腹が立たない訳がなかった。 生まれた時から共に過ごし、ユルが将来皇帝になるべく様々な教育を受け、努力していたのを近くで見ていたシンが誰よりもよく知っていた。 遊ぶ事もままならず、自由な時間もほとんどない。 寝る時間も惜しんで国の為に将来の為にと勉強を続けるユルにシンはこんな生活、嫌にならないかと問い掛けた事が何度もあった。 けれど、その度にユルは笑って平気だといつも答えていた。 幼いながらにして、自分の立場を知るユルをシンはいつも凄いと思っていた。 だから、何も知らないとはいえ、スヒョクがユルの事を馬鹿にするのをシンは許せなかった。 「おい!ソン・スヒョク!今、言った言葉、取り消せ!!」 スヒョクの肩を掴み、自分へと振り向かせるとスヒョクは小さく舌打ちして、眉間に皺を寄せた。 ユルの幼馴染で皇帝のお気に入りのシンに聞かれた事は誤算だと思いながらも、王族会に属する一族である自分にいち内官の息子であるシンが文句を言うのは気に入らない。 皇太子に負けても内官の息子であるシンには絶対負けるなと父親デフンに常々言われている事もあり、スヒョクは肩を掴むシンの手を振り払うと嫌味たっぷりの視線をシンに向けた。 「なんだよ。内官の息子のくせに俺に文句でもあるのか?」 「…文句?今言った言葉を取り消せって言ったんだ!」 「取り消せって何だよ?本当の事だろ!?父さんが言ってたんだ皇室はただの飾りで人形だって!ただの手を振るだけの人形に勉強なんか必要ないだろ!?」 「なんだと!?ユルがどれだけ頑張っているか知りもしないで!お前らがゲームやテレビだと好き勝手やってる間、ユルは必死で勉強してるんだぞ!」 「なんだよ!何でお前がムキになるんだよ!あぁ、そうか、ご主人様がバカにされて悔しかったのか?お前、ユルの犬だもんな!」 「このっ…!ソン・スヒョク!」 これが皇室に仕える一族の言う言葉か? 王族会は国の為、国民の為にと力を尽くす皇室を助ける存在じゃないのか? こんな奴が将来皇帝となったユルに仕えるのか? 溢れ出した怒りは治まらず、シンはスヒョクの胸ぐらを掴み彼を床に押し倒していた。 倒れる椅子や机の音、悲鳴を上げる女子生徒の声はシンの耳に入らず、シンは低く唸るような声で何度もスヒョンにユルを馬鹿にした言葉を取り消せと言い続けていた。 そして、駆けつけた数名の教師によってシンから引き離されると、スヒョクは大きく咳き込み体をふらつかせ立ち上がった。 頭を打ったかもしれないから念の為にと言う教師に付き添われ保健室へ向かうスヒョクはシンの横を通り過ぎる瞬間、ニヤリと笑うとシンにだけ聞こえるように小さく呟く。 「言いたければ言えよ。けど、誰がお前の言葉を信じると思う?お前は内官の息子、俺は王族会ソン・デフンの息子。きっと皇帝だって信じないさ」 睨むシンの目など怖くはないと、スヒョクは鼻で笑い教師に付き添われ教室を出て行った。 スヒョクが出て行くと教室の中にいた生徒達がシンを見ながらひそひそと囁き合いだす。 耳に入る言葉はどれもシンがスヒョクを妬み、喧嘩を売ったのではと言う言葉ばかり。 『違う!』と言い掛けてシンはさっきのスヒョクの言葉を思い出し下唇を噛んだ。 内官の息子と、ソン家のスヒョク、本当の事を言ったところで内官の息子である自分の言葉など誰も信じないだろう。 駆けつけた父親もデフンに謝るばかりだった。 だったら皇帝陛下も同じに違いない。 真実を話したところで自分が惨めになるばかりだとシンは口を閉ざしていたが『誰の言葉を聞こうとも、私はお前の言葉を信じる…』と言われ漸くシンは全てを語った。 全てを話し終え、俯くシンの隣に腰掛けた皇帝は優しくその肩を包み込んだ。 「誰にも言えずに辛かっただろう…」 「うっ、くっ…ご、めんなさい…俺っ…」 小さく嗚咽を漏らすシンに皇帝はシンの中に留まる不安が消えるようにと優しく何度も背中を擦り言葉を掛ける。 「お前の事はこのジイが守る。だから、何も心配するな…だがな、シン、カッとなったとしても手を出すようなことをしては駄目だ。分かるな?シン…」 「…はい、陛下…」 「さぁ、扉の前でお前の事を心配している者達を安心させてやりなさい」 「…?」 「コン内官、二人を中へ」 「はい、陛下」 扉の前で控えるコン内官の声が聞こえ、扉がゆっくりと開かれた。 そこには涙を拭うユルと救急箱を手に二人の兄を交互に見やるチェギョンがいた。 「シン、ごめん…僕の事で…」 「ユル…」 駆け寄りシンの体をギュッと抱き締めるユルにシンは苦笑いしてその背中を撫でる。 その前では小さなチェギョンが救急箱から二枚の絆創膏を取り出し二人に差し出していた。 「ユル兄さま、シン兄さま、どこが痛いの?チェギョンが絆創膏貼ってあげる」 チェギョンの言葉に二人同時に噴き出す。 チェギョンの前に跪いた二人は絆創膏を額に貼ってもらうと、お互いの顔を見て声を上げて笑った。 三人の様子を眺めながら、皇帝はシンのユルを思う気持ちを嬉しく思っていた。
身分が違えども二人はこれから先も良い関係を続けていくに違いない。 三人の幸せを願いながら、皇帝も二人の姿に声を上げて笑った。 |
|
宮に着くと直ぐイ内官はコン侍従長は皇帝の間へと向かい、シンは控えの間で待つ事になった。 皇帝の間へと歩く足は重く、吐き出したくなる溜息をイ内官は何度も飲み込んだ。 「陛下、イ内官を連れて参りました」 「あぁ、入りなさい…」 部屋の前でコン侍従長がイ内官を連れて来た事を告げると、皇帝が静かに入室の許可を告げる。 イ内官は拳を握り締め、入室するコン侍従長の後に続いた。 皇帝により人払いが告げられ、扉が閉められるとイ内官は皇帝の前に跪き、頭を下げた。 「陛下!申し訳御座いません!」 跪くイ内官に皇帝は僅かに驚きの表情を見せたが、直ぐに表情を柔和に変え、イ内官にソファーに座るように伝えた。 「そのようにしていては話しも出来ぬ。イ内官、兎に角座りなさい」 皇帝のその言葉にもなかなか座ろうとしないイ内官の肩にコン侍従長の手が添えられ、ソファーへと座るように促される。 跪いていたイ内官が漸くソファーに腰掛けるも、俯くイ内官の顔色は蒼く、表情には緊張する様子が見て取れる。 皇帝は軽く息を吐き出した後、俯いたままのイ内官に声を掛けた。 「学校での話は既に聞いている…それでシンはまだ何も答えぬか?」 「……はい…」 「そうか…イ内官、お前はどう思う?全ての非はシンにあると思うか?」 沈黙し続けるシンの様子は皇帝の耳にも伝わっており、イ内官は皇帝の言葉に垂れる頭を更に低くした。 「非があろうとなかろうと、シンがした事は決して許される事では御座いません…いかなる処分も受ける覚悟に御座います…」 「決して許される事ではないか…確かにシンがソン・デフンの息子にした事はいけぬことだと思うが、私はその起因となったものがシンにあるとは思えぬのだ…シンは頭の良い子だ、たとえ自分が蔑まれたとしても手を出す事はあるまい…だが、自分が大切に思う者が傷付けられたとしたら…」 言葉を途切った皇帝の言葉にイ内官はここで漸く顔を上げた。 問い掛けるような、縋るような眼差しで見つめるイ内官に皇帝は小さく頷いた。 「これからそれをシンに問おうと思う…処分は、その後だ…」 「はい、陛下…」 決して許される事ではない。 けれど、それが大切に思う誰かの為にしたことならまだ心は救われる。 イ内官はそう思い、皇帝の言葉に頷いた。 皇帝はイ内官をさがらせると、コン侍従長にシンを呼びに行かせた。 控えの間に赴き、開けられた戸からコン侍従長が中を覗くと、シンは椅子に座ったまま微動だにせず前を見つめていた。 感情が消えた表情にシンの凍りついた心が見える。 このシンの心を陛下はどう溶かすのか…。 コン侍従長が小さな溜息を漏らすのと同時に、服の裾が引かれた事に気付き、コン侍従長は視線を下へと向けた。 そこには制服に身を包み、学校から帰ったばかりのチェギョンが大きな瞳で自分を見上げていた。 「チェギョン様、お帰りなさいませ…」 「コンおじさん、ただいま♪何してたの?かくれんぼ?」 部屋を覗き込むコン侍従長の姿をかくれんぼと勘違いしたチェギョンがワクワクとした表情で部屋の中を覗き込む。 だが、そこには感情のないシンの姿だけが居り、それを見たチェギョンの表情が見る見るうちに明るいものから悲しげな表情へと移っていく。 コン侍従長の服をギュッと握り締めたチェギョンは潤む瞳でコン侍従長を見上げた。 「シン兄様、どこか痛いの…?」 「チェギョン様…?」 チェギョンの『どこか痛いの…?』との言葉が理解出来ず、コン侍従長は問うようにチェギョンを見下ろした。 そして次の瞬間、再びシンのほうへと視線を移し、呟いたチェギョンの言葉にコン侍従長は驚かずにいられなかった。 「だって、シン兄様、泣くのを我慢してるもん…痛いのに、いっぱい、いっぱい、我慢してるよ…」 「!…チェギョン様…」 シンの凍りついた表情の中から誰も気付く事のなかったシンの心の痛みと叫び。 幼いチェギョンが直ぐにそれに気付き、小さな心を痛めている。 血の繋がりはなくとも、生まれた時から傍に居たシンの気持ちはチェギョンには手に取るように分かるのかもしれないと、コン侍従長は二人の中の絆を感じ頬を緩ませた。 そして、悲しげにシンを見つめていたチェギョンが瞳を輝かせて『そうだ!救急箱!シン兄様を手当てしてあげなきゃ!』と意気込む。 急ぐようにパタパタと足音を回廊に響かせ救急箱を取りに行くチェギョンの背中を見送ったコン侍従長は部屋の中に入りシンに声を掛けた。 「シン、皇帝陛下がお待ちだ。私と一緒に来なさい…」 「……はい…」 カタリと椅子を小さく響かせてシンは立ち上がるとコン侍従長の後に従い皇帝の間へと向かった。 コン侍従長がシンを連れて来たことを告げ、連れ立って中に入るも、皇帝を前にしてもシンの表情は変わらなかった。 皇帝に促され、ソファーに腰掛けてもシンから口を開く事は無く、シンの視線は膝の上に置かれた自分の拳をただ見つめるのみだった。 普段からあまり表立って感情を見せる子供ではなかったが、これほどまでに心を凍らせた姿は見た事がない。 それだけに、シンの心は深く傷付いたのだと、皇帝は改めて何が起こったのかを知らなければならないと思い、目の前に座るシンを見据えた。 傷付いた心が更に傷付かないようにと注意を払いながら、皇帝は穏やかな声でシンに話し掛ける。 「シン、学校で何があったのか、このジイに教えてはくれぬか…?」 皇帝としてではなく、孫を思う祖父のような柔らかな口調に俯いていたシンが漸く顔を上げる。 僅かに揺れる瞳に皇帝は頷くと、掛けていた椅子から立ち上がりシンの隣に腰掛け膝の上に置かれた手にそっと自分の手を添えた。 「シンよ、お前は心の強い優しい子だ、そのお前が手を出したという事は余程の何かがあったのであろう?お前の事はユルやチェギョン同様、実の孫のように思ってきた…今もその気持ちに変わりはない…。シン、誰の言葉を聞こうとも、私はお前の言葉を信じる…」 「……皇帝陛下……」 皇帝の言葉にシンの眼から一筋の涙が零れ落ちた。
|







