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そっとその体を揺らすだけに吹いていた風が急にその強さを変えた。 その風に耐え切れず、たんぽぽは大きくその体を揺らす。 そして、その風を待っていたかのように綿毛は空へと飛んでいった。 「飛んだ!」 声を上げ立ち上がったチェギョンは飛んでいく綿毛を見つめていた。 風に煽られ空へと舞い上がった綿毛たちは散り散りになりながら舞い降り場所を探しているようにも見えた。 この狭い宮から広い世界へと飛び立つように宮の外壁を次々と越えていく。 それを見守るチェギョンの姿に胸がギュッと掴まれたように痛くなった。 自分で想像したくせにその想像は自分の首を絞めていた。 彼女が望むのはこの閉鎖された世界ではなく、広く自由な世界…。 思考の奥に押し込めた不安が時々顔を見せる事はあるけれど、彼女が自分に見せてくれる笑顔のお陰で恐れる程には姿を現さない。 けれど、こんな風に綿毛を見つめる彼女を見れば、一気のその不安が姿を現し、自分を負の思考へと持って行く。 彼女の姿に知らず知らずのうちに手を固く握り締めていた。 指先が冷えて行き、急速に冷えて行く指先は自分の中の不安と恐れが極限にまで達しようとしている事を教えてくれ、チェギョンの姿を直視出来ない僕は、堪らず視線を下へと落としていた。 「あ…」 小さな彼女の声に思わず反応し、チェギョンへと視線を向けた。 視線を地面へと落としたチェギョンはその場にしゃがみ込んだ。 同じようにしてその視線を辿れば、外壁を乗り越えられなかった綿毛がひとつ。 そして、チェギョンはその綿毛に語りかけるようにポツリと呟いた。 「あなたが選んだ場所はここなのね」 「えっ…?」 その言葉に思わず声を出していた。 僕の声に応えるかのようにチェギョンはニコリと笑うと立ち上がり僕の手を取った。 「冷たい」 冷え切っていた指先に気付き、チェギョンは両手を自分の手で包み込むと冷えた指先に息を吹き掛けた。 その後、擦るようにして指先を温めながらチェギョンが話し始めた。 その話は僕にとって忘れてしまいたくなる程に自分の愚かさを思い出させ、後悔させる話。 「…シン君が分からなくて、自分が分からなくて、苦しさとつらさに宮を逃げ出したいと思ってた頃にガンヒョンに言われた事があるの」 心臓が止まりそうだった。 痛みを通り越し、止まってしまいそうな感覚。 「チェギョン…」 自分でもはっきりと声が震えているのが分かった。 「…変な風には取らないで。責めているんじゃないから」 チェギョンの手がふわりと頬を包み込んだ。 温かく優しい手に後悔の念が押し寄せてくる。 「ごめん…」 「もう、あの頃の話になると直ぐに謝るんだから…」 「ごめん…」 「ほら、また謝った」 でも、謝罪の言葉しか浮かばない。 険しい表情をしていたようで、クスッと笑ったチェギョンは自分の眉間を指差した。 「皺、出来てるよ」 その言葉に少しだけ表情が緩んだ。 それを確認して安心したのかチェギョンはまた話し始めた。 「宮から逃げ出したいと思っていたあの頃、ガンヒョンに『あんたはたんぽぽの綿毛だ』って言われたの」 「たんぽぽの綿毛?」 「うん。『世の中を自由に漂いながら好きな場所に降りて、飛びたい時は自由に飛ぶ、たんぽぽの綿毛』だって言われた」 「自由に…」 言葉を続けられなかった。 『自由に飛びたいと、今もそう思っているのか?』と訊ねてしまいそうだったから。 言葉に詰まり、黙り込んだ僕の手を引き、彼女は壁を越える事無く宮の中に降りた、たんぽぽの側へと僕を連れて行った。 「あの時、この壁を越えていったたんぽぽのように宮を出ようと、外の世界で新しい自分になろうと思った」 「………」 何も言えず、僕はただ彼女の話を聞くしか出来なかった。 「でも、私はこのたんぽぽのようにこの場所を、宮を、シン君の居る世界を選んだ」 「チェギョン…」 「私は自分の意思でこの場所を選んだの」 見上げてくる顔はこの上なく柔らかな笑顔。 けれど、その瞳は力強く見えた。 「この前ね、チェ尚宮お姉さんにお妃教育が予定より進んでるって、頑張った成果だって褒められたの」 「その事はチェ尚宮から報告を受けたよ。凄く頑張っていたって」 つい先日、チェ尚宮から受けた報告。 マカオから帰国したばかりの頃、お妃教育がチェギョンに過度の負担を与えないようにと、以前よりもゆったりとしたものに変えられた。 だが、彼女はそれに甘える事無く、先へ先へと進んだ。 その彼女の成長は目を見張るものだった。 取り組む姿勢も以前とは違い積極的になり、分からない事は直ぐに質問し、気になった事は教育係でもあるチェ尚宮だけではなく、僕にも、そして、お祖母様や両親に尋ねる事もあった。 確実に皇族として成長していくチェギョンに嬉しくもあり、誇らしくもあったけれど、その反面、不安でもあった。 チェギョンが無理をしているのではないかと…。 「良く頑張ったって褒めてくれないの?」 ちょっと拗ねた表情のチェギョンに少しだけ口許を緩ませた。 「偉いよ。良く頑張ったな」 「ふふっ、やっぱりシン君に褒められるのが一番嬉しい」 「僕に褒めてもらう事がそんなに嬉しい?」 「嬉しいに決まってるでしょ。シン君に褒めてもらえると凄く嬉しいし、頑張ろうって思うもの」 「無理するな。ゆっくりでいいんだ」 僕のその言葉に彼女は頬を膨らませた。 「無理なんかしてないよ。シン君が褒めてくれると頑張る力が湧いて来るんだから」 チェギョンは繋いでいない手でファイティングポーズをとって見せた。 不安が消え去った訳じゃないけれど、そうやって笑ったり、拗ねてみたりとコロコロ表情を変えるチェギョンに曖昧ではない笑みが僕の顔に浮かんだのは確かだった。 「あっ、笑った!」 ホッとしたように喜んだチェギョンはそこに落ち着いたたんぽぽの綿毛に一度視線を落とした後、僕を見上げた。 「たんぽぽってね、生命力が強いんだよ。アスファルトの裂目に根を張って花を咲かせるんだって。凄いでしょ?」 「あぁ、そうだな」 「でもね、そんな生命力が強いたんぽぽだって土やお水がなかったら生きて行けないでしょ?」 「当然だよな」 「当然私にも必要な物があるの。それがないと私生きていけないし」 「チェギョンに必要なもの?食べ物とか?」 「もう!失礼ね!」 からかうように顔を覗き込んでそんな言葉を口にすると、チェギョンはプクッと頬を膨らませ僕の胸を叩いた。 勿論それは真剣なものじゃなく、軽いものだから痛くなどない。 「いじわる」と言いながら何度か胸を叩くチェギョンの手首を掴むと、彼女は抵抗する事無く腕を下ろすとコツンと僕の胸に額を当てた。 「私に必要なのはシン君だよ。私にとってシン君が土であり、お水なの。シン君が傍にいなかったら私はきっと生きて行けない…」 チェギョンの言葉に胸が熱くなった。 どうして彼女は僕の欲しい言葉をくれるのだろう。 何度僕は彼女の言葉で地の底に沈み込みそうになった心を助けられた事だろう。 そして、今も不安な気持を見事に吹き飛ばしてくれた。 「ありがとう、チェギョン。僕を必要だと言ってくれて、傍に居てくれて…」 チェギョンの肩口に額を乗せてそう言うと、彼女は「当然じゃない」と、あやすように背中を撫でられた。 顔を上げると彼女は優しく微笑み掛けてくれた。 「言ったでしょ、シン君が離れろって言ったって離れてやらないって」 「じゃあ、一生離れるなよ」 「ふふっ、俺様シン君だぁ」 彼女の言葉は胸の中を温かくさせる。 まるで野に咲くお日様、たんぽぽの様だ。 「お前ってたんぽぽみたいだよな」 「私がたんぽぽ?雑草で生命力が強いって事?」 「かもな」 「なんか、褒められてる気がしない…」 「でも、たんぽぽは凄いんだ」 「凄い?」 「あぁ、たんぽぽは解熱や健胃の生薬として古くから用いられていたし、根をコーヒーにすれば体を内から温める効果もあるそうだ」 「たんぽぽって凄いのね。万能薬みたい…って事は私も凄いって事?」 「さぁ、たんぽぽ程ではないかもしれないけどな」 「もう、意地悪なんだから」 彼女が拗ねたと同時にポケットの携帯が振動し、コン内官がお茶の用意が出来た事を知らせてくれた。 「お茶の用意が出来たそうだ」 「本当?今日のお菓子はなんだろう♪」 お茶の用意が出来たと訊いたチェギョンの膨れていた頬から一気に空気が抜け、彼女は上機嫌になった。 「行こうか」 「うん♪あ、ちょっと待って」 戻る事を促し、差し出した腕に彼女は腕を絡めたが、直ぐに何かを思い出してその腕を外すと、彼女はたんぽぽの綿毛の所へと駆け出した。 そして、しゃがみ込むと人差し指でそっと綿毛に触れた。 「頑張って可愛い花を咲かせてね」 そう囁いた彼女と同じように僕も心の中で『頑張れ』と呟いた。 ―たんぽぽの花言葉―
『真心の愛』 |
☆短編
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「シン君、お散歩行けますか?」 執務室のドアを少しだけ開け、チェギョンが顔を出す。 時計を見れば二時を少しを回ったところだった。 お互い公務のない日はこうやって散歩するのが日課になっていて、彼女はその誘いに来たのだ。 「この書類にサインすれば休憩できる」 「うん、じゃぁ、待ってるね♪」 デスクの傍のソファーに腰掛け、チェギョンはテーブルに置かれた本を手に取った。 残念ながらそれは彼女が苦手とする英語の本で、予想通り本を開いた彼女は直ぐに眉間に皺を寄せ頬を膨らませた。 「むぅ、読めない…」 頬を膨らませる彼女が可愛らしく、思わず頬が緩むが、当の本人は頬に溜め込んだ空気を溜息に変え、ガックリと肩を落としていた。 多分、自分の勉強が足りないのだと落ち込んでいるに違いない。 お妃教育の中、彼女は時々「自分がこんなに頭が悪いなんて思わなかった…」と言う事がある。 普通に生活していれば知らなくても覚えなくてもいい事もここではそうはいかず、彼女にも無理を強いらせている。 韓国の歴史そのものがこの宮であり、自分達なのだが、生まれた時からその責務を負ってきた自分達とは違い彼女は少し前までは普通の女の子だった。 だから、そんな風に努力が足りないと自分を責める彼女に不安を覚える。 一度、宮から離れたいと言ったあの頃の彼女を思い出さずにはいられなくなる。 あの頃の彼女に戻るんじゃないかと、「ここから出たい」と言われそうで怖くなる。 「焦るな、ゆっくり、少しずつでいいんだ」そう彼女を励まし、その思考が最悪の方へ向かわないようにしている事を彼女は気付いているだろうか、臆病で不安な僕の心を…。 「シン君は凄いよね…こんな本読めちゃうんだから…」 決裁書類をコン内官に手渡し、彼女の隣に腰掛け髪を撫でた。 見上げるチェギョンに笑い掛けて彼女の手の中にある本を覗き込んだ。 「僕にだって分からない単語はある。辞書片手に読む事だってあるんだ」 そう言ったけれど、チェギョンは僕を睨むと頬を膨らませた。 「シン君のうそつき」 「うそつき?」 「そうだよ、シン君が辞書片手に本を読んでるところなんて見たことないもん」 「見せないだけだ」 「スラスラと読んでるくせに」 「予習してる」 「勉強じゃあるまいし…シン君、私に気を遣ってる?」 核心を突かれ一瞬チェギョンから視線を外してしまったのは僕のミスだ。 「やっぱり、ね」 小さな溜息と共にそう呟いた彼女は本を閉じて立ち上がった。 「行こう、シン君」 「行こうってどこに?」 「お散歩!」 「あ、あぁ…」 この事に意識を持って行かれ、彼女がここに来た目的をすっかり忘れていた僕は彼女の手に引かれ立ち上がった。 宮の庭園は春の温かな陽射しに応えるように色とりどりの花を咲かせていた。
本当ならそんな庭園を彼女と並んで楽しみたいところだが、さっきの自分の失態にバツが悪く、彼女と並んで歩くことが出来ない。 手を引くチェギョンに一歩後れるようにして歩いていると彼女が急に立ち止まった。 「シン君、たんぽぽ!」 「たんぽぽ?」 チェギョンが指差す楼閣の隅、たんぽぽが一輪、微風に丸い綿毛を揺らしていた。 専属の庭師が定期的に手入れをする為、雑草とされるたんぽぽは花を咲かせる前に抜かれてしまうはず。 なのに、このたんぽぽは見つかる事無く花を咲かせ、綿毛までつけている。 「凄いね。このたんぽぽ抜かれなかったんだね」 そう嬉しそうに笑い、チェギョンは綿毛となったたんぽぽの前に屈んだが、彼女はその綿毛に息を吹きかける事はしなかった。 チェギョンはジッとたんぽぽを見つめたまま動かない。 無邪気な彼女なら綿毛に息を吹きかけ飛ばしてしまいそうなのに、動かない彼女が不思議に思えて仕方なかった。 「飛ばさないのか?」 「飛ばさない」 質問にチェギョンは僕を見る事なく、首を横に振った。 「だって、その時を決めるのは私じゃないもの」 その言葉に首を捻らずにはいられなかった。 だが、その後で僕は彼女の言葉の意味を知った。 |
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