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今が、ますます幸せだと気がツクには468号
豊臣家滅亡、大坂城炎上は避けられたか
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2009年大河ドラマ「天地人」も後2回になりました
第46回は、「大坂城炎上」でいよいよ豊臣家が滅亡するのです
また、実は、大坂冬の陣は、11月15日に起きていますが
第46回、「大坂城炎上」は、その11月15日に放送されるのです
しかも、今日は、11月14日なので
俺は、この記事を1日前に書きあげたと言う事になります
偶然なのか、必然なのかは分かれませんが
面白い日のご縁だと思います
さて、前置きはこの程度として
大坂城炎上、豊臣家滅亡ですが
俺は、前からずっと書きたかった事です
何故か、昔から豊臣秀吉に惹かれていて
豊臣家贔屓なのです
なので、豊臣家の御霊さんが
俺の背景にツクのか、豊臣家のいろんな思いが
俺には浮んでくるのです
ただ、その理由は何故なのかは分かりません
自分が、大坂の泉州、泉大津市出身で
今も住んでいるから
大坂の太閤秀吉さんに親しみを持っていて
大坂の和泉、河内、摂津を領地にしていた
豊臣家が好きなのかもしれません
生まれた土地としてのご縁大きいと思うのです
でも、それだけでなく
豊臣秀吉の子供秀頼が、俺の前世、武田勝頼と同じ頼が付くので
豊臣秀頼に惹かれるのかもしれませんし
何か、武田家だけでなく
前世、豊臣家とも何かあるのか
俺には正直分からないのです
しかし、そんな俺でも、豊臣秀頼に関しては
本当にイメージが持てません
秀頼は、公家風の教育を受けていたと言われていますが
ただの愚将だったのか
それとも、ある程度は、武将としての力量があったのか
元服しても、母である淀殿に仕切られる気弱だったのか
それとも、祖父浅井長政や祖母お市の長身という遺伝子を引き継いだのか
身長6尺5寸(約197cm)・体重43貫(約161kg)
の並外れた巨漢であって
家康が二条城で秀頼と会見した時に
秀頼の巨体からかもし出されるカリスマ性に恐怖で
豊臣家打倒を決意したと記録するものもあったというので
本当は戦をさせたら、戦う勇気がある武将だったのか
まったく情報不足なので、何も分からないのです
ただ俺自身、成人した豊臣秀頼に対しても
何とも思いませんので
武将としては、大した人物ではなかったと思います
だけど、この豊臣秀頼・淀殿と
徳川家康、全国すべての大名との戦いで
多くの兵士が亡くなったのは事実です
大坂冬の陣では、大坂城に籠城だったので
そんなに多くの兵が亡くなる事はありませんでしたが
大坂夏の陣で言えば、真田幸村・後藤基次・
長宗我部盛親・毛利勝永・明石全登
などの多くの浪人の武将も亡くなりました
大坂夏の陣では、大坂方だけでも78000人がいたので
何万という兵が亡くなっているのです
それで俺は、その事を考えると
とても悲しくなります
多くの御霊が、今も浮ばれていない気がするのです
けれど、この徳川家康との戦いですが
実は、避けられたのではないかと言われています
豊臣家が、ちゃんと時代の流れを理解していたら
淀殿が、豊臣家に対する誇りに拘らずに
徳川家康に、臣下の礼を取ったら
徳川家康は、喜んで豊臣家を残したと言う話もあります
そんな説があるのです
何故なら、徳川家は、豊臣家の家臣でした
なので、どんな形であっても
豊臣家を滅ぼすと言う事は
主家を、自らの力で滅亡させたと言う事になります
でもそれは、徳川家康には避けたい事でした
何事も、長い目で考える徳川家康は
徳川政権内で、自分が、主家を滅亡させた前例を作る事が
後に、徳川幕府が、おかしくなった時に
徳川家が、他の大名に滅亡させられる事に繋がると考えたからです
だから、徳川家康としては、豊臣家が
自分から、主家という立場を放棄して
徳川家の臣下になってくれたら
それを認めるつもりだったと言います
戦略的に重要な土地
大坂、大坂城を、豊臣家に渡す訳にはいかないので
畿内のどこか、大和、紀伊に100万石程度を与えて
国替えを命じるつもりでしたが
豊臣家がそれを認めたら
豊臣家は、存続させてもいいと考えていた節があるのです
だけど、徳川家康が、そんな合図を送っているのに
豊臣家の反応は、覚めたものでした
慶長10年(1605年)4月16日、家康は、将軍職を辞するとともに
朝廷に嫡男・秀忠への将軍宣下を行わせ、
将軍職は以後「徳川氏が世襲していく」ことを天下に示した時にも
豊臣秀頼に新将軍・秀忠と対面するよう要請しましたが
淀殿は、これを拒絶しました
結局、六男・松平忠輝を大坂城に派遣したことで事は収まったそうですが
その時は、家康は一旦引いたのです
しかも家康は、その後も我慢強く待ちました
6年後の慶長16年(1611年)3月
後陽成天皇の譲位を受けての後水尾天皇即位に際して
上洛した家康は二条城での秀頼との会見を要請するまで
徳川家康は、何もしなかったのです
またこれは、加藤清正や浅野幸長ら豊臣家恩顧の大名らの
取り成しもあり会見は実現しました
これで、少し打ち解けた雰囲気になったのです
その上に、主人である秀頼が、臣下の家康に会いに行った事で
豊臣家と徳川家の立場は、はっきりと大きく変わりました
徳川家が、上になったのです
でも、それでも豊臣家は、徳川家の家臣になる事を認めませんでした
あくまでも、抵抗したのです
そしてそんな中で、慶長16年(1611年)に豊臣家恩顧の大名
浅野長政・堀尾吉晴・加藤清正が
18年に池田輝政・浅野幸長、19年に前田利長が亡くなると
豊臣家の孤立はいっそう強まって
徳川家康は、いよいよ、豊臣家を滅ぼす決心ということになります
家康自身、自分の命が尽きる事も考えて
自分が生きている内に、豊臣家を何としても
滅亡させようとしたのです
それで有名な、文中に「国家安康」「君臣豊楽」とあったものを、
国家安康」は家康の諱を分断し、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願い
徳川家に対する呪詛が込められていると断定したと言う
言い掛かりをつけて
大坂冬の陣で、外堀を埋めるという事で、和議をしたのに
実際は、内堀も埋めて騙しています
その上で、再び、堀のない裸になった
大坂城を攻撃しようとして
豊臣家が、何とか和議しようとしても
戦、大坂夏の陣に持ちこんで
一端は、真田幸村の活躍なので
命が危ない程、追い詰められましたが
5月7日深夜に大坂城は陥落させたのです
でも、豊臣秀頼、淀殿は、それでもまだ生きていました
けれど家康は、脱出した千姫による助命嘆願も無視して
豊臣家を抹殺しようとしました
それで、秀頼は淀殿らとともに籾蔵の中で
勝永に介錯され自害して
ここに豊臣家は、滅亡したのです
しかしここで、俺が言いたい事は
徳川家康は、豊臣秀頼が、臣下の礼を取ったら
豊臣家を滅ぼす事はなかったというのは
本心ではなかったのではないかと言う事です
何故なら、家康が、豊臣秀頼を助けようとしたら
その時に助ける事は可能だったからです
しかも、大坂の役で勝利した後なら
豊臣秀頼に、1万石程度の小大名にする事も可能です
豊臣家としては、それでも納得して恩義を感じるはずなのです
足利家のように生きる事も可能だったのです
でも徳川家康は、豊臣秀頼を殺して
豊臣家の禍根をすべて取り除く事にしました
平氏が、まだ小さかった源頼朝を生かした為に
大人になった源頼朝に滅ぼされたので
頼朝自身が、平氏を滅亡させた例にならったのです
それが、家康の信念だったのです
だからそんな徳川家康が、豊臣家の存続を考えていたと言うのは
俺は信じられませんし
もし、そうだったら、何年も時があったので
豊臣家に誠意を持って説得して
何としても、分かるようにしたと思います
だけど、それをしなかったという事は
徳川家康には、最初から豊臣家を残す
つもりはなかったと言う事です
それが、分かっているから
豊臣家、淀殿や秀頼も、徳川家の臣下になろうとしなかった
俺はそう思います
なので、豊臣家の淀殿が、時勢が分からなかったから
我がままだから、気が強いから
大坂城は炎上して、豊臣家は滅亡したという事は
俺は、違うような気がします
それでは少し、淀殿も可哀そうだと思いますが
皆さんのお考えはどうですか
是非、意見を聞かせて頂きたいと思います
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