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ゆとり教育2
日本の小中高の教育の特色のひとつは、「正解は唯一つある」という観念で一貫していることである。「1+1=2」とか、「国語=こくご」とか「鎌倉幕府は1192年」とかは確かに答えは一つといって良い問いである。(厳密に言うといろいろあるにしても、一般的にはそう言える)ところが、この世の中に大きく、「答えのある問い」と「答えの無い問い」があるとすると、少なく見積もっても、その90%は後者である。
しかし、教室では「この問いの答えは?」が大事にされる。入学試験でもこの種の問題が主流となっている。この種の問題は教えるのも、採点し評価するのもとても楽である。それは、採点する先生にとっては、である。ということは取りも直さず、先生は考えなくてもいいということである。
一方、社会においては、「どうやったらこの品物が売れるか」とか「どんな品物を消費者は求めているのかとか」「どうやったら私たちは幸せになれるか」とか、答えが無数にあるあるいは唯一の答えなんか無い問題に溢れている。僕達日本人は小学校以来、学校では社会にあるような問いに対応する訓練をほとんど受けずに来ているのだ。
だから、学生が社会人になって突然、答えの無いあるいは唯一正解の無い問題に直面した時、固まってしまうのも、それは当たり前である。
例えば、最近流行のTV討論でも、日本人は答えは唯一つ、と思っているから、とにかく自分の意見を大声で喚き散らす。だから、討論とか討議が成り立たない。ディベートとか討論とは、違う意見を出し合いながら、新しい事実を捜し求めるものである。
だから日本人には社会性が乏しいのかもしれないな。この社会性という問題はまた別の議論として論じたいので、ここでは深入りはしません。
また、日本の外交を見ても、結局戦後の日本は、外交の基軸をアメリカにおいてしまった。だから、日本の中に判断の基準が無い。その分、外交官は考えなくてもよい訳で、その問題をアメリカがどう考えるかで、判断すれば良い。これは楽ですよね。でも、日本に何のノウハウも残らず、日本の国民の意見は反映されない。これは外交だけでなく、少なくとも戦後の日本人が皆そういうやり方を選択してしまったということである。
土曜に日本の教育も自ら考えることを放棄してしまった。ゆとり教育はまさに、この答えの無い問題を扱い考えるゆとりが先生にも学校にも生徒にも無い、ということの問題だ。ゆとり教育はむしろ時間も労力もお金も掛かるものである。だから、現象的に見てもゆとり教育=教育時間の削減はまったく無意味である。
教育はその国の未来を予言する。まさに、ゆとり教育はそういう文脈の中で考えられるべきではないだろうか。
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