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(^_-)-☆special道楽

 3198 囲碁は道楽であり、打ったことで自己満足する。その為の往復で、徘徊をしてみた。三キロほど離れた場所にある生涯(障害ではない)学習センターで、木曜日、夜6時から囲碁同好会の集まりがあるので、薄暗くなり始めた5時半ごろ家から出て、車でなく、歩きで、徘徊しながら、行くことにした。土曜日は昼間なので、歩いてゆく場合もヲーキングとなるが、薄暗い丸子川の土手を主に歩くので、多分,他人が見れば、徘徊に見えるだろうと思う。
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早く着きそうだったので、ちょっと、余分に徘徊してみた。25年ほど前に、碁会所へたまに行っていたが、その後、如何なっているのかなと思い、そのあたりに行ってみた。住宅地の暗い小道を歩いていると、どの家も、センサーが作動して、照明が灯る、そんな場所の一角に、まだ、見覚えのある、その、プレハブの建物はあった。人がいる気配はないし、現在、使われているような気配もなかった。こんな写真を撮っている爺さんは、怪しい。
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帰り道、また、ちょっと、遠回りして、車が頻繁に通る道を歩いた。ここはちょっと広いが、この道の大部分は、人が道路わきを歩くようにはできていない。道脇まで30CMくらいに白線が引いてあるが、体は、当然、白線の外に出ている。車が後ろからくるたびに、体をぐっと、道脇に寄せる。徘徊老人としては、かなり緊張する道だ。最近、路肩に突っ込む車のニュースが気になっているし。
 
帰りの8時半過ぎ、歩いた大部分の道で車にも人にも会わない。私を目撃する人は、いない。徘徊していても誰も知らない。たとえ、座り込んでしまっていても、誰も、気が付かない。
 
そういえば、大学の同級会で二人、徘徊が趣味です、楽しんでいますという自己紹介があった。俳諧でした。
 
昨日からの続き、私が選んだ仕事は、その遣り甲斐がある、結構、多くの人のためになると思える道楽をしていて、結婚もし、子供もでき、家も手に入れた。多分、他人から見れば、相当、恵まれていると思われていたと思う。七年後には、夫婦合わせて、残業代を含む月給が30万円くらいあった。1972年ごろでした。
ところが、その前から、私が気に入らない環境を感じていた。自己満足できない状態があった。
俳諧 趣味 体験

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 3197 小企業だが、日本では、まだ、他の会社がやっていない、特殊な仕事だった。海外での仕事、石油コンビナートの設計やフェライトのような窯業を夢見ていたが、この世界もいいなと思った。そして、いくつかのプラスチックの成型部門を経験し、仕事を選ぶ権利と義務は、私に与えられていたとい空気を感じていた。そして、一番、問題児の押出成形を選んだ。その部門に労働組合長をしていた、30歳くらいの習志野空挺部隊の出身の猛者がいた。その人が係長だったが、私は三交代の班長に志願してなった。化学の仕事ではなく、電気や機械の仕事だったし、西ドイツからの装置を使いこなせず、まともな製品がなかなかできない、お荷物の部門だった。それが、私にあっていた。
 
半年もしないうちに、すべての製品での立ち上げは私が一番うまくなっていたし、装置の改良の提案をし、実行し始めていた。とにかく、誰も何もできないのだから、私がやるしかなかった。組合長にも、猛者の後を引きついて、なっていた。日本での新原料が続々と現れた。それらの全てを、使って、素材、プルファイル、テューブを作る仕事の依頼が次々と入った。アミド基の組合わせによって、無限にできることは、知っていたが、ナイロンも、幾つかのメーカーからの、いくつかの種類を試す機会もあった。ナイロン樹脂だけでも組み合わせで、10種類以上あった。製品として、使えるかどうか、成形性はどうか、私の腕に掛かっていた。ほかの樹脂もそうだった。PVCやオレフィンは勿論、PC,POM,PMMA,エラストマー、アロイ、日本では、私しかやらせてもらえないだろうと思うトライを次から次へとやっていた。
成型方法も、それらに合わせるように、編み出した。プロファイルやチューブを作るだけでも、何種類かを自分で作った。冷媒だけでも、エアー、水、各種油、化学液それらの単独、あるいは二種以上、それと、温度、これも、組み合わせ、とにかく、いろいろ、試して、合った成型方法を見つけていった。
完全に、面白いし、やりがいがったし、道楽化していた。
 
今から思うと、よくまあ、動いたと思う、休日の12時間夜勤も私が繋げた、寸暇を惜しんで、車で箱根を越えて、横浜にも通った。明け方まで試作品を作り、三島駅から新幹線に乗り、大阪や神戸の依頼元に届け、その日の夜、また、試作を繰り返した、そんな、無茶をし、倒れてしまったこともあった。
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道楽で、何十年前のものから、つい最近のインドネシアでのもの。
無茶 無限大 道楽

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 3196 よく、他人に、何故、インドネシアへ行ったの?インドネシアのどこがいいの?と、聞かれる。先日の大学の同級会でも何人かから聞かれた。このことについては、自己紹介でも書いてあるが、何度か、ブログでも書いたと思う。
 
結びを先に書いておく。道楽、自己満足を求める生き方だ。それが、努力しないでも、結構、成り行きでできた。
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ここからのスタートだった。この階段で、すべてが初対面の同級生と写真を撮った。私だけが、坊主頭だった。左の上が学生課や電気、電子、機械、右下が土木,醗酵、応化、そして、右の奥に、バドミントンと卓球の練習場と囲碁将棋、華道、茶道の畳部屋があった。
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一力食堂がまだあった。開店が、私が入学した年だった。55年前だ。朝食が30円だった。夕食が50円だった。今は朝食はやっていないようだ。
 
そもそもの、考え方から、再度、書き出す。大学の時に、卒業していった先輩たちの多くは、大企業に就職していった。国立大学の工学部に入学すれば、就職先は大企業から引っ張りだこという世相だった。その通りだった。その先輩に中の何人かからは、外国、主に欧米に派遣されて、行ってきた、という、話が伝わってきていた。私も、卒業後は、その人たちと同じような状態になることを当たり前のように描いていた。
 
ところが、東京オリンピックが、終わるころ、私の一年先輩が就職を決めるころ、その状況が一変してしまっていることを感じさせられた。何やら、大不況になったと思った。すべての上場企業の新卒採用はゼロになった。呑気に大学生活をエンジョイしていた私にとってはショックだった。そして、私たちの就職先探しの時期になると、景気もドン底らしくて、去年より、求人が少なく成っていたというより、4月の時点では、全く、無かった。やっと、求人票が掲示されだしたのが、6月になってから、それも、聞いたことがない名前の中小企業からだけだった。
 
入社試験が始まって、受けに行っても、先行者からは、百人以上の応募があって、取るのは、一人、二人だけだと説明されたとか、そんなで、私の就職先も、窯業志望だったが、求人なし、卒論担当の先生の紹介で、極東貿易関連の東プラ精工を受けることにした。夏休み、北大で卓球の国公立選手権大会に参加し、トンボ返りで、面接、ここで、初めて、開業2年目、東レ、極貿、臼井国際(地元)の子会社ということを知って、プラスチックの成型のいろいろを手掛けていることを知った。海外志向はあきらめて、ここで、お世話になることにした。
道楽 自己満足 基本

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(^_-)-☆残念な日本

 3195 秋雨前線停滞、毎日、雨で寒い。私にとっては、既に、厳しい寒さ、何を着ようか、昨年、富山へ行った時の厚手の服を取り出した。
 
誕生日 妻。また、一時的、同じ年になった。1970年当時、モンブランの値段は70円だった。初任給が2万4000円だった。今はどうか、初任給、25万円?そんなにいっていないか。350円だった。給料は10倍になっているが、モンブランは5倍だ。比率的には、今のほうが安い。50年近く前には、それだけ、高級菓子だったということか。ショートケーキの中で、一番、美味しそうで、高いものがこれだった。一年に二回、妻の誕生日と結婚記念日に、会社から帰る途中で買った。それ以後も、日本にいるときには、買って帰っていた。10月に、日本にいることは、稀なので、前回はいつだったか、覚えていない、それ以来だ。
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それにしても、日本で感じること、何もかも、高い。デフレからの脱出などと、何年も言っているらしいが、そして、バーゲン、バーゲン、安売りと宣伝をしているが、私から見れば、何もかも高すぎて、買う気がしない。前にも書いたが、買い物は、リサイクル商品販売店か100円ショップだけだ。スーパーやコンビニでの買い物は、割引のステッカーが貼ってあるものだけだし、訳あり商品や賞味期限切れのものだけにしている。それでも、ガソリンや公共料金など、バーゲンというわけにはいかないものもたくさんある。
 
サンマの高いこと、シラスは品切れだ。サンマは、目黒どころか、ブカシに限る。日本人は、日本に暮らすより、インドネシアでのほうが、遥かに、暮らしやすい。普通に暮らすなら、半額以下で暮らせる。
 
おりしも、衆議院選挙、立候補者が言っていることが、私には、意味がないことばかりに聞こえる。そもそも、日本から出た理由の一つに、日本に税金を払いたくない、ということがあった。健全な人口構成維持のためなど、私が使ってほしいと思っている、使い方と違うからだ。安部さんは、今、やっと、教育費の無料化を言っているが、30年以上前から、やっていなければならないことだし、対抗政党は、このことについて、何も言っていない。
 
全ての意味で、日本とインドネシアを比較すれば、インドネシアのほうが良い、家族のことを除けば、インドネシアのほうが、私に合っている。
 
車の運転についても、危険運転、煽りなどの嫌がらせ、ブレーキとアクセルの踏み違い、高速道路などの一方通行の逆走、変なことが多い。私自身は、気を使うことが多すぎる。インドネシアでは、ほとんど、何となく運転していて、車線や割り込みなどでも、気を使うことはほとんどない。
 
大企業のチョンボ、失態、地に落ちている。
誕生日 物価 少子化

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(^_-)-☆恩師宅訪問

 3194 次は、中学の同級会へのアプローチの一つ、担任だった先生宅へのご挨拶だった。何年ぶりだろうか、インドネシアへ行っている期間中、一度だけ、私も幹事の一人になって、学年会を催したことがあった。それが、15年ほど前だったと思う。全学年11クラスのほとんどの先生、多分、10人出席されたと思う、各クラス、平均20名合計200人以上の催しだった。その時、私のクラスも20人以上参加し、先生も見えられ、二次会では、会場を変えて、クラス会になった。
その後、学年会は次に主催する組が決まっていたはずが、開かれないままだし、クラス会も私がほとんど日本にいないから、他の人が主になってやることもなかった。
 
私たちに担任だった先生は、11歳とし上、85歳でした。見かけもそうだが、私たちとあまり変わらない年齢に見えるし、言葉も、表現もはっきりしているし、記憶も衰えていない。75まで、北高校で教鞭をとっていたとか、その後は、町の役員や老人会の幹事、市の手伝いとか、やることが、今でも、たくさんあるとか。やはり、動き続けている、そして、病気らしい病気のも掛かっていないことが、普通に元気でいられるのだと、ご本人も分析していた。お話、私にも、参考になった。
 
趣味は多かったと記憶している。中学一年間だけの接触だったが、昼休みに、曲の解説をして、クラシックの音楽を流していたのも先生だった。自宅から持ってきたものだった。カメラも当時では、高級な大きな一眼レフを持っていて、私たちを撮影していたことも覚えている。ちょっと、家庭が経済的に恵まれている先生だなと思っていた。当時、静岡では、ちょっと、有名な、洋裁学校の息子さんだったことを、卒業してから知った。今回、初めて、応接間に通されたが、書物とLPとCDのコレクションで溢れかえっていた。なるほどと思う。
 
三時間近く、とりとめのない話をし、同級会の確認をして、お宅を後にした。
 
先生の話によると、当時のほかの10人の同学年担任だった先生は、すべて、お亡くなりになっていた。
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静岡の街の東側、東静岡駅の東に行ったが、コンテナターミナルになっていた。大型のショッピングモール?の脇を通ったが、出入りの車と近くの講堂に出る信号で、思いがけない大渋滞になっていて、これも、びっくり。私にとっては、この風景、新鮮に映った。今日も雨だった。
恩師 元気 活動

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