「密約」に関する外務省の有識者委員会が9日提出した報告書の詳報は次の通り。(一部敬称略、肩書は当時)
【密約とは何か】
両国間の合意あるいは了解で、国民に知らされておらず、かつ、公表されている合意や了解と異なる重要な内容を持つものは「狭義の密約」と言える。明確な文書でなく、暗黙のうちに存在する合意や了解だが、公表されている合意や了解と異なる重要な内容を持つものは「広義の密約」と言える。
【核搭載艦船の一時寄港】
1960年に改定した日米安全保障条約に付属する「安保条約第6条の実施に関する交換公文」は、日本が米国に提供する基地の使用に関して次のように規定している。
「合衆国軍隊の日本国への配置における重要な変更、同軍隊の装備における重要な変更ならびに日本国から行われる戦闘作戦行動のための基地としての日本国内の施設および区域の使用は、日本国政府との事前協議の主題とする」
核兵器を搭載した米艦船の日本の港への寄港が日米両国による事前協議の対象になるかという問題は、この交換公文の解釈をめぐる問題だ。
1、「討議記録」の解釈
政府の説明は、安保改定時にできた日米間の了解事項を前提にしている。「装備における重要な変更」は「核弾頭および中・長距離ミサイルの持ち込みならびにそれらの基地の建設」を意味するという了解である。政府が核搭載艦船の寄港は事前協議の対象になると説明するのは、それがこの了解でいう核弾頭の「持ち込み」に当たるとみなすからである。
安保改定時、この了解事項は他の了解事項とともに、「討議記録」という名前で文書化されている。60年1月6日、藤山愛一郎外相とマッカーサー駐日大使との間でイニシャル署名されたこの文書は、今回の調査では、コピーと考えられる文書が見つかった。
この文書の2項Aの記述により、「持ち込み」は「装備の重要な変更」に当たり、事前協議の対象になることが確認できる。
だが、核搭載艦船が日本の港に入るが、一定期間停泊後にそのまま出港するような場合も「持ち込み」になるのか。米国政府は63年4月、ライシャワー駐日大使を通じて大平正芳外相に、「持ち込み」には当たらないという米側の解釈を伝えてきた。だが安保改定交渉の際、日米間に「持ち込み」の意味についての合意があったわけではない。
ライシャワー大使はこの日、2項Cの記述も持ち出した。
「事前協議は合衆国軍隊とその装備の日本国への配置、合衆国軍用機の飛来、ならびに合衆国海軍艦船の日本国の領海への進入や港湾への入港に関する現行手続きに影響を与えるとは解されない。ただし、合衆国軍隊の配置における重要な変更の場合を除く」
これこそ核搭載艦船の寄港を事前協議の対象外とする日米間の「密約」を示す記述ではないかと疑われてきた。
だが、この記述を「密約」の証拠と見るのは難しいように思われる。まず、2項Cは、第2次台湾海峡危機を背景にして、米側が、米軍艦船や航空機の日本への通常の出入りが事前協議制度の制限を受けないことを確認するための了解であった。核兵器の「持ち込み」に関する了解であるという認識は日本側交渉者にはなかった。
たしかに米政府は、2項Cの記述によって、核搭載艦船寄港を事前協議の対象外として処理できるとみなしたようである。ただ、交渉当時、その解釈を日本側に明らかにした形跡はない。
2、「暗黙の合意」の萌芽(ほうが)
マッカーサー大使は交渉開始前、核搭載艦船の寄港を事前協議の対象から外すよう日本側に真正面から求めれば、日本側は拒否せざるを得ないだろうと判断していた。60年代半ばに作成された米政府内の研究報告は、この問題では日米間に明確な了解ができなかったと結論している。
日本側の態度が消極的なものであれば、詰めた話をせず、問題をあいまいなままにしておいてもよい、マッカーサーはそう考えたのではないか。事前協議の内容を詰める責任は日本側にあって、日本側がそれをしないのであれば、米側は米側の解釈で交換公文を理解してよいはずだ、マッカーサーはそう判断したのではないか。
日本側の交渉者たちは米側の考え方に気付きつつ、漠然と希望は伝えたかもしれないが、核搭載艦船の寄港も事前協議の対象にしてほしいと正式に要求することはなく、米側もこの問題を正面から持ち出さなかった。それゆえ日米間で議論が詰められなかった。そういう構図が浮かび上がってくる。
米側にしてみれば、問題を議論していなければ、現状通りでよいという解釈ができよう。日本側にしてみれば、核搭載艦船の寄港問題は将来の課題にして、今回はここまで、というようなことだったのではないか。
結局、安保改定時には、あいまいにされたようである。だが、米側は日本側が事前協議なしの寄港を表立って認めることができないのを知っていたし、日本側は米国がこの問題で実際に事前協議するとは考えていなかったと思われる。双方はお互いの意向を知りながら、問題をそれ以上追及しなかったのである。そういう暗黙の合意が安保改定時にできあがりつつあったと見てよいだろう。
3、「大平・ライシャワー会談」以後
その「暗黙の合意」が日米間で固まるのは、「大平・ライシャワー会談」(63年4月3日)以降である。
ライシャワー大使は、大平外相との間で「米国の現在の解釈に完全に沿うことで十分な相互理解に達した」と報告しているが、特にこの問題を議論するつもりも準備もない大平が周到な準備をしたライシャワーの一方的な説明を聞いて理解したから、日米合意ができたと言えるだろうか。
重要なことは、日本政府が米側の解釈について明確に知らされ、実際に核搭載艦船の事前協議なしの寄港が行われている可能性が高いことを知ったこと、そして、米側の解釈に異議を唱えなかったことである。
ライシャワーは、佐藤栄作首相にもひそかに米国の立場を伝えたようである(64年12月29日)。佐藤は大平同様、米側の解釈に異議を唱えなかったらしい。
米国政府の解釈に異議を唱えなかったから、直ちに日本政府が同意したということにはならないだろう。だが、米側は、日本政府が米国は米国の解釈で行動することを許すものと受け取ったと思われる。ライシャワー以後は核搭載艦船の事前協議なしの寄港を続けたと推定される。
だが日本政府は、米政府の考えをはっきり知らされた後も、核搭載艦船の寄港は事前協議の対象になる、と国会などで説明し続けた。さらに、具体的に米艦船の寄港が問題になると、米国がそういう日本の立場を知りながら事前協議をしてこないので、その艦船には核兵器を搭載していないはず、という趣旨の説明も行った。
厳密にはうそとは言えないかもしれないが、まったく不正直な説明であるのは間違いない。
政府は、不正直な説明を続けるために、明白なうそもついた。日米間には安保改定時に「藤山・マッカーサー口頭了解」があり、交換公文の意味が明確になる、ということにしたからである。
何より問題は、歴代政府答弁が安保条約の事前協議に関して日米間には「交換公文」と「藤山・マッカーサー口頭了解」しかない、と事実(「討議記録」が存在する)に反する明白なうそをつき続けたことである。
しかし、米政府は表だって異議を唱えなかった。日本政府が核搭載艦船の事前協議なしの寄港を現実問題として容認している以上、黙認せざるを得ないと考えたのであろう。
今回の調査で明らかになった内部文書「装備の重要な変更に関する事前協議の件」(68年1月27日付)は東郷文彦北米局長が書き、双方の立場に異論を唱えず黙視する処理は政治的・軍事的に動かせないと主張。この文書は政府内で説明資料として使われた。首相、外相、外務省幹部が対象で、文書の欄外に、佐藤政権から宇野政権までの首相や外相らに説明したとの記述がある(海部政権にも口頭で説明)。日本政府のこの問題への対応は以後、「暗黙の合意」の維持で固まったのである。
4、「暴露」への対応
74年9月11日のラロック(退役米海軍少将)証言の後、外務省内では核搭載艦船の寄港(および領海通過)を事前協議の対象から外すことを公に認める可能性について検討がなされた。
大平蔵相が積極的で、田中角栄首相と諮りつつ、フォード米大統領来日後、臨時国会までに決着を付ける方針を立てた。フォード大統領来日の際の首脳会談では田中首相が、核疑惑に答える課題の難しさについて語り、大統領の理解と解決への協力を求めた。外務省内でいくつかの対策案が検討されたが、結局、日の目を見ることがなかった。
81年5月、再び「暗黙の合意」を揺さぶったのはライシャワーの発言である。しかし政府は、「暗黙の合意」の再検討には乗り出さなかった。
91年、ブッシュ政権は米海軍の艦船、航空機から戦術核を撤去する決定を行った。これにより核搭載艦船の寄港問題は現実の日米関係を悩ます問題ではなくなった。90年代には米公文書公開によって「討議記録」の存在が指摘されるようになり、2000年までにはその概要が広く知られることになった。
政府は冷戦終えんから10年という国際情勢の変化を踏まえ、米政府とも相談の上で、思い切って国民に経緯を説明し、核政策全般について再検討するべきはするという政治決断を行っても、あるいはその準備を始めてもよかったのではないか。
5、結論
日米両政府には「暗黙の合意」という広義の密約があった。それは安保改定時に姿を現し、60年代に固まった。
「密約」問題に関する日本政府の説明は、うそを含む不正直な説明に終始し、本来あってはならない態度である。
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010030900640