☆★☆ 名探偵蒙裡胡伍浪之名推理教室 ☆★☆

18年4月7日(土)午前5時17分(干潮)、愛犬が安らかに永眠致しました。13歳と7か月(ヒト70歳相当)でした。

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 もし○人小野田寛郎が本当にエリートコースの卒業生でフィリピン戦線へゲリラ指導に中央から送られたのであれば、もうフィリピン戦争時代の東アジア戦争は米軍の攻勢により戦況は判明していた。もし若き○人小野田寛郎が分からなくとも先輩や教官、同胞の誰かが教えることができたはずだった。だが○人小野田寛郎は、そういう情報の根幹が情報将校の末端でありながら当時、理解できていなかった。これは深刻だろう。
 さらにラジオも改造し得て≪戦後≫の世界情勢も把握できていたという。英語も少しはできたようだった。それなのに継戦し続けたという。この無能さの根源は何だったのだろうか?
 ≪戦前≫の情報の価値の程度が、こいつで推測できよう。わが国には情報部など無いも同然だったのだ。自らが得た直接情報を、この○人小野田寛郎(スパイ)は解析できなかったのだった。情報将校なら、この戦況の変化をいち早く掴む能力を養成したのではなかったか?
 これが、わたしが○人小野田寛郎と名指しする理由である。
■#3教育(erasusさんの教育論への反応)@木庵先生の独り言
http://blogs.yahoo.co.jp/takaonaitousa/17438760.html
横井庄一のことはよく知っている。「恥ずかしいながら、帰ってまいりました」と言ったあと、タラップを降りる姿が痛々しかった。その後可愛い奥さんをもらい、日本全体が消費文明に酔っていた時代に、最低の生活費でやりくりしていることが週刊誌に書いてあった。
 横井庄一は下士官に過ぎなかったということで、わが国の国粋主義者《日本会議》も利用に困ったであろう(笑)。そこで○人小野田寛郎に飛びついた。そして糞を掴んだ(笑)。
小野田さんのことで強烈に印象に残っているのは、帰国後、公式の行事に連れられ、ようやく和歌山県の実家に帰った。この時もテレビ各局の追いかけは終わっていなかった。実家での一部始終を報道していた。さすがに家の中までは取材できなかったが、家の外から中の様子を映し出していた。家の周りには近所の人が集まり、ちょっとしたスター扱いであった。小野田が家の直ぐ上にある神社に帰国の挨拶に行くところを待っているのだが。家の中の様子がおかしい。何やら口喧嘩をしているようだ。小野田が激しく罵り、それを母親らしい声が注意しているように聞こえてきた。
内容はよくわからないが、私の想像では、小野田が帰国後、彼のフィリピンで想像していた日本はもはやなくなっているふがいなさが怒りとなって現れたのだろう。部下と命がけでフィリピンで戦った緊張と戦後のふやけた日本人とのギャップにどうしょうもない疎外を感じたのだろう。特に母親は、「貴方は立派でありました。よく国のために最後まで戦ってくれました」というようなことをテレビの前で言い、良き母親を演じていた。その姿が気に入らなかったのだろう。母なるものは黙して、涙してくれればいいのである。どうも、小野田家では寛郎は出来の良くない子供であったのだろう。長男は東大医学部を卒業するほどの秀才であった。それに対して、寛郎は勉強も兄たちに比べれば良くなく、小野田家では外れ者であったのだろう。その外れ者であったが故に、生き延びたのであるが。その彼に、折角生存して還ってきたのに、まだ世間体を気にして振舞う母親に我慢がならなかったのだろう。
それほど長い口論ではなかったが、「OOOしやがって」という語尾が、今でも記憶にある。画像が動いた。一気に小野田が神社まで駆け上ったではないか。カメラが彼の姿を追えないほどの身軽さであった。ジャングルの起伏に激しい地形をいつも移動していて、無駄な贅肉が完全に落ちていた。人間というより猿のような機敏さであった。これが小野田の強烈な印象であった。
小野田のことを書いたゴーストライターが、小野田を取材した時の裏話を本に著わしているが、小野田は彼にあまり良い印象を与えていなかった。小野田がそのまま日本に滞在していれば、きっとマスメディアの格好の餌食になっていただろう。その意味で、次の兄を頼ってブラジルに行ったことは正解であった。歳をとりまた帰国し、小野田塾を開き、色々なところで発言したり、子供に自然でのサバイバルの方法を教えているのも正解である。ただバラモンの秘法のようなものを彼に期待することは、酷なことと言えよう。

 なるほど。
 世間体は≪戦前≫の大義だった。この狂人小野田は決してエリートではなかった。家族にしてみれば亡霊が蘇ったようなものだった。これからどうするか?
 TV時代のわが国でどう振舞うか、家族たちにとっても大問題であったことだろう。
■小野田寛郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小野田 寛郎(おのだ ひろお、1922年3月19日 - )
1922年和歌山県海南市に生まれる。父種次郎、母タマエ、長兄敏郎(軍医中佐)、次兄格郎(元主計曹長)、姉千恵、弟滋郎(元少尉)。旧制海南中学卒業後貿易会社に就職し中国大陸に渡り、中国語を習得。
軍歴
上海の商事会社で働いていた頃現地召集を受けて、1942年、現役兵として歩兵第61連隊(和歌山)に入隊。転属等を経て、陸軍甲種幹部候補学生に合格、陸軍予備士官学校に入学、卒業後、当時軍の情報学校だった陸軍中野学校二俣分校へ入校、情報将校として育成され卒業する。中国語や英語が堪能だった事から、1944年12月、遊撃戦の指導の任を与えられフィリピンのルバング島に着任。

 о小野田種次郎−父、不仲
 о小野田タマエ−母、不仲?
 о小野田敏郎−長兄(軍医中佐)
 о小野田格郎−次兄(元主計曹長)、ブラジル
 о小野田千恵−姉
 о小野田寛郎−(元少尉)、支那畑
 о小野田滋郎−弟(元少尉)
 −この支那畑というだけで当時の一級の頭脳ではなかったことが分かろう。
■幹部候補生(日本軍)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
甲種幹部候補生(甲幹)は予備士官学校等で教育を受けた後、一定期間見習士官を経て、少尉に任官した。
 寛郎の自称経歴には必ず陸軍甲種幹部候補生と書いてあるようだが、これは決してエリートコースではなかった。
■陸軍予備士官学校(日本)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
陸軍予備士官学校令(昭和13年3月25日勅令第139号)第1条では「陸軍予備士官学校ハ予備役将校ト為スベキ生徒ヲ教育スル所トス」と謳われていた。それに対して、同時期の陸軍士官学校令では第1条第1項「陸軍士官学校ハ各兵科(憲兵科ヲ除ク)将校及航空兵科将校ト為スベキ学生ヲ教育スル所トス」(昭和12年9月30日勅令第566号による改正後のもの)と謳っていた。
このように、陸軍予備士官学校は陸軍士官学校と異なり、当初から予備役将校となるべき者(現役将校の期間を経ない)の養成を目的としていた。

 陸軍予備士官学校は≪陸軍士官学校≫ではない、これが肝腎だ!
■陸軍中野学校二俣分校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
諜報や防諜、宣伝など秘密戦に関する教育からゲリラ戦術の教育に変化していった中野学校とは異なり、当初からゲリラ戦術、破壊工作の訓練を目的に設置された。
 陸軍中野学校二俣分校は、<陸軍中野学校>ではない、これも肝腎だ。わが国エリートコースは、
 〈 1 〉 陸軍(中央)幼年学校→陸軍士官学校(少尉)→陸軍大学校(大尉)
 〈 2 〉 海軍・・・
 〈 3 〉 ・・・→帝大
 〈 4 〉 ・・・
 〈 5 〉 ・・・
 〈 6 〉 ・・・
 〈 7 〉 甲種幹部候補生→陸軍予備士官学校→陸軍中野学校二俣分校(少尉)
 −であり、これらは言わば下級将校(下士官)養成コースに過ぎなかった。
 (つづく)

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