☆★☆ 名探偵蒙裡胡伍浪之名推理教室 ☆★☆

18年4月7日(土)午前5時17分(干潮)、愛犬が安らかに永眠致しました。13歳と7か月(ヒト70歳相当)でした。

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 わたしも参謀本部員なら情報などは重視しないであろう。情報には“ウソ”も多く含まれる。その峻別だけで疲れてしまうだろう。もし、わが国に情報部が存在したのなら、その情報を精査して確実なものを上げる仕組みが是非とも必要だ。戦国時代には領主自らが忍者を雇い情報を仕入れたというが、この精査作業を利害者自らやったものだろう。情報など間に多くの人間を入れたら不正確になるに決まっているからだ。戦国武将もこの情報の贋物を掴まされて滅んだやつらも多かったであろう。
 現在の世界一のはずの情報部のCIAでさえ自ら(イラン・イラク戦争時代に)イラクに与えた大量殺戮兵器さえ見つけられなかったではなかったか(笑)。なぜ現場の誰かにやらせて捏造もできなかったのだろうか?
 оクルド人への化学兵器使用
 о湾岸戦争時代の化学兵器予防策の予防注射による米軍人の異常
 −これらは“ウソ”だったのか?
 わたしは今も(フセイン)イラクに大量殺戮兵器がひとつもなかったとは信じ難いのである。
■#3教育(erasusさんの教育論への反応)@木庵先生の独り言
http://blogs.yahoo.co.jp/takaonaitousa/17438760.html
赤穂浪士事件は討ち入りしてから三日のち(?)に、ある逢坂の商人の日記に事件のことが書かれていたのを、古文書で読んだことがある。情報の伝達は早かった証拠だ。逢坂の米相場の情報は旗信号で即座に江戸まで伝えられたという。
 三日は大袈裟だろう。
■元禄赤穂事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
そして14日(21日)、この日は勅使・院使が江戸城に登城して将軍綱吉が先の勅宣と院宣に対して返事を奏上するという奉答の儀式が執り行われる予定になっていた。しかし14日巳の刻(午前10時)、江戸城本丸御殿松之大廊下において吉良上野介と旗本梶川与惣兵衛頼照が儀式の打合せをしていたところへ、突然、浅野内匠頭が吉良上野介に対して脇差でもって殿中刃傷に及んだ。
赤穂藩に報が伝わる
一方赤穂藩では電話もない時代であるから、そんなことになっているとは露も知らず、いつもと変わらぬ平和の日々にあった。この平和が壊されたのは19日(26日)卯の刻(午前6時頃)であった。江戸からの第一の急使早水藤左衛門満尭と萱野三平重実が赤穂城内にある筆頭家老大石内蔵助良雄の屋敷に到着し、浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだという浅野大学からの書状がもたらしたのである。内蔵助はすぐさま赤穂にいる200名ほどの藩士全員に登城命令を出した。
家中がそろったところで急報を城代家老大野九郎兵衛知房が藩士達に読んで聞かせた。しかし大学の書状には吉良の存命について何も書かれていなかったため、どうやら藩士たちは内匠頭が吉良を討ち取ったと思い込んでいたようだ。内蔵助は、これだけでは詳細が何も分からないということで午後1時頃、萩原文左衛門(100石)と荒井安右衛門(15石5人扶持)を江戸へ派遣。酉の刻(午後7時頃)、足軽飛脚による第二の急使が赤穂に到着。しかしやはり刃傷事件の発生以外は何も書いていなかった。さらに戌の刻(午後11時頃)、原惣右衛門元辰と大石瀬左衛門信清による第三の急使が到着した。ここでようやく内匠頭切腹の情報が出てきたが、吉良の生死・赤穂藩の改易については相変わらず何も書かれていなかった。しかし殿中刃傷を起こした家がどうなるかは大体予想がつくので、大石は藩札の処理を札座奉行岡島八十右衛門常樹に命じ、早くも翌20日(27日)には領内数箇所に藩札交換所を設けて六分率で交換させ、赤穂経済の混乱の回避に努めた。
22日(29日)には町飛脚の第四報が到着し、浅野大学長広お預かりの情報が伝えられた。続く25日(5月2日)には町飛脚の第五報が到着、これには江戸の浅野家上下屋敷が召し上げられたことが書かれていた。しかしいずれの報にも吉良の生死の情報は無く、いよいよ吉良の死を疑いだした内蔵助は藩士の田中権右衛門(藩大目付150石)を吉良の生死を確かめるべく江戸へ派遣した。

 これが、だいたい五日掛かっている。現在でも、われわれに届く第一報は、この程度の期間を置いてだろう。それは事件が起こると時の政府の情報統制があるからだ。現代の新聞(TV)記者たちだって直接みたわけではないことは取材が遅れるのだ。東京で起こったことでなければ翌日、取材陣が掛け付けることになろう。だが現地に赴いても中央と大差はない。現在の警察が情報を流さず停めてしまえば現場情報など皆無だろう。わが国のイージス艦衝突事件でも詳報が判明したのは数日後だった。知らない間に防衛相が当事者を防衛大臣室に呼び込んで口裏あわせに躍起だったのは記憶に新しい。
ニクソンの評価は近頃上がっているが、具体的にどういうところが偉かったかよくわからないので、いつかご教授を願いたい。
 以下の記事しか見つけられませんでした。
■リチャード・ニクソン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
屈辱の辞任劇の後、晩年までにニクソンはある程度公のイメージを修復することに成功し、ソ連や東欧諸国との冷戦が続く中、外交問題に詳しい長老政治家としてアメリカ国民からの尊敬を獲得した。
ウォーターゲート事件の後遺症もあり完全な名誉回復はついになされなかったが、デタントの推進や冷戦崩壊への貢献など、外交面で大きな成果を上げたことで偉大な功績を残した歴代大統領の1人だともいえる。しかしウォーターゲート事件では自ら主導的に遂行したり、「ケネディ暗殺について何かを知りえる立場であったのではないか」という(根拠に欠ける)説もあることなど、闇の部分をも持ち合わせた大統領であったとの評価を受けている。

 スキャンダルで自滅すると名誉回復など及びもつかないのが現実だから、こう書かれるのは余程努力したのであろう?
万葉集の世界はよく分からないが、私の父は古典をよく理解していた。父によると、万葉のある歌は神々と交信するような内容のものがあるという。ところで、父の教養であるが、古典に対する知識は私の比ではない。それに漢字の知識も、私と比べものにならない。このことからも、戦前の教育を受けた人間は、教育程度が高かったことが分かる。よく戦前や戦中の学童の映像を見ることがあるが、現在の子供より数段集中力が優れている。まず姿勢がよい。それに文句なく子供は教師を尊敬している。また親も教師を立てている。子供や親が教師を批判することは、教育の第一歩から外れていることである。子供は先生の言うことを神様のごとく思う、そのことが、教育で一番大事なことだ。戦後、アメリカの教育が移殖された。戦争に負けたのだから仕方がないが、教育ぐらいはアメリカに汚染されたくなかった。現代の教師はどこまで教育が落ち込んでいるかさえ意識していない。子供中心教育、民主教育、平等教育によって、どれほど日本の人材が蝕まれたか。良いサンプルがなくなっているので、今の教育とよき時代の教育と比較さえできなくなっている。
 わが国の昔の子どもは、常に労働力である今の後進国の子どもと同じだった。
 ≪戦前≫の一流知識は−
 о欧
 о英
 о仏
 о独
 о墺
 о露
 −であり、東洋の支那は皆無であった。石原莞爾は仏ナポレオンだった。陸大の教育もドイツ(プロイセン)人のネッケル(クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル)だった。ここに世界最高の孫子の兵法はなかった。誰も知らなかった。だから支那で失敗した。
 わが国の漢文知識の雄は、板垣征四郎ずれの漢文知識だったが、これもひどかった。支那畑は上記西洋諸国の留学・駐在武官から外れた陸大の劣等生によって占められた。
 わが国の陸大エリート教育にも【カースト(社会的分業)】があったのだ。
 ちなみに石原莞爾中佐・板垣征四郎大佐の満州事変コンビは、ともに日蓮宗であったという。
 マッカーサーはフィリピンから濠太剌利へ逃亡した。そこで反攻作戦を待った。その時期を大本営が見誤った。
 航空機によって絶対国防圏などはなくなった。これは、さらに戦時中に発達して行く。
 わが国は陸大教育によって負けたと言っても過言ではないだろう。■

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