一輪の花

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1979年に発行された、「長崎の証言」に掲載されていた原爆を被爆したアメリカ兵の証言です。
どこの国も民族もありません。みな平和を願っています。


季刊 『長崎の証言』《4》1979年 夏 長崎証言の会 より〜

アメリカ人兵士の証言

長崎原爆を生きのびた一米兵捕虜として



私は、フィレディー・ティーフと言います。年齢は55歳。17歳で兵役に入り、長崎で原爆に遭遇したのは22歳のときでした。
私は、フィリピンに送られ、真珠湾攻撃が行われたとき、フィリピンにいたのです。
そして、1942年4月9日、コレヒドールが陥落したときに捕虜になり、パターンの死の行進を生きのびたのです。
そのとき、私はコレヒドール島海岸警備の高射砲中隊の伍長でしたが、カバナトアンとビリビッドの捕虜収容所に入れられていたのです。

1943年の初めに、フィリピンから船で日本に送られ、途中シンガポールに寄港したのに、福岡に着きました。
捕虜のうち、150〜200名近くは福岡の炭坑で働かされました。8月1日に、二人の日本兵がやってきて、捕虜のうち4人を選び出し、炭坑用の杭木を伐採するため、長崎に連れて行かれたのです。
長崎に着いたのが、1945年8月1日であり、その日はすでに空襲が続いていました。私たち以外の捕虜たちは、一生懸命に働いており、私たち二人を連れに来た日本兵は、杭木の伐採を私たちにやらせ、杭木を段平船に積むよう命令したのです。

1945年8月9日、原爆が長崎に投下されたとき、私たちの周りのものすべてはなぎ倒され、私と一緒にいた3名の捕虜が即死し、二人の日本兵は杭木を積んでいた段平船に私を乗せ、陸にあがったのです。二人の日本兵はひどく血を流しており、3人で福岡に戻りました。

福岡の日本当局は、私たちを病院に入れ、決して収容所には戻さなかったのです。というのは、当局は他の捕虜たちに何が起きたのか知らせたくなかったからなのです。
戦争が終わったあと、私たちは福岡で汽車に乗ってどこかへ出発したのです。
ところが私たちが乗っていたその汽車を米軍が止めて私たちを連れだし、私たちはサンフランシスコ市へ送られ、さらに自分の家へと帰り着いたのです。
しかし、ずいぶん長い間、病院に入っていました。

私は、長崎の原爆にあって生きのびた唯一のアメリカ人であります。原爆攻撃とあの1日の爆撃、つまり私たちがそこについた1945年8月1日と9日の原爆投下から生きのびた唯一のアメリカ人なのです。
私は、34年間大変つらい日々を送っています。私の希望は、何らかの方法で核兵器廃絶のために役立つことであり、世界平和のために何かしたいということです。
すべての国の政府、すべての核保有国に対して、またすべての友人、戦争体験のない若い人々に対して、私はこのことを言いたいし、また言ってきています。

私はあなた方の提唱されている「外国人原爆犠牲者追悼碑」の建立はたいへんいいことだと思います。
私は、長崎にぜひ行きたいと心から思っています。1979年8月9日、長崎の地に立ちたいものです。
そして、平和祈念集会にも出席し、原爆病院も訪れたいと思います。

このことがすべての人々に役立つことを希望します。
私たちは原爆と核兵器をこの世界から追放し、平和の中で生きられることを願っています。
もし、もっと私の証言が必要でしたら、どうぞ私を呼んでください。
近いうちにお会いできることを期待しつつ。

(追伸)10月に国連に行きます。それ以前に1979年8月9日、長崎にぜひ行きたいと思います。

1979年6月14日 オクラホマ・トールサにて

 

 
このアメリカ兵のフィレディー・ティーフさんも、体験したパターン死の行進ですが、昨年、次のようなニュース情報がありました。
どこに国がやった、やられたという恨みではなく、戦争がない平和の世界を、地球を、みんなが望んでいます。
戦争や、原爆の使用、原発事故が起こらないことが、世界人類の願いです。
 
バターン死の行進:元米兵捕虜を初招待…政府、9月に6人 (毎日 2010/7/31)

http://nippon7777.exblog.jp/11673417/
 
 第二次大戦中の1942年4月、旧日本軍がフィリピン・バターン半島で米兵捕虜など約7万人を約100キロ歩かせ、多数の死者が出た「バターン死の行進」で、政府は9月中旬、生き残った元米兵捕虜やその家族らを日本に招待する。政府が米国の元捕虜を招待するのは初めてで、日米間の戦後和解に向けた一つの節目となる。【隅俊之、ロサンゼルス吉富裕倫】
大戦中に日本が被害を与えた国々については、関係改善のために政府が95年度から10年間、ホームステイなど交流事業を盛り込んだ「平和友好交流計画」を実施。英国やオランダなどの元捕虜を日本に招待したが、米国の元捕虜は対象外だった。原爆投下をめぐる問題や、日本で捕虜らが強制労働させられた問題で日本企業を相手取った損害賠償請求訴訟が米国で相次いだことなどが背景にあるとみられる。



峠三吉 原爆詩集 青木書店



ちちをかえせ ははをかえせ

としよりをかえせ

こどもをかえせ


わたしをかえせ わたしにつながる

にんげんをかえせ


にんげんの にんげんのよのあるかぎり

くずれぬへいわを

へいわをかえせ





署名よろしくお願いします。
【さよなら原発 1000万人アクション!】 署名開始!!
 http://www.peace-forum.com/no_nukes/
内橋克人さん、鎌田慧さん、澤地久枝さんからのメッセージがあります。



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近くに咲いていた ラベンダー


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ネジのような ネジバナ




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