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2日目は、早朝“チントレ”を、早々と済ませ、市内観光へと、向かいました。 セブというと、あのマゼランが、世界一周を達成し、戦死した場所としても、有名であります。 1521年3月16日、ポルトガル人の航海士、フェルディナンド・マゼランは、セブ島に、到着した。 彼は、スペイン王の命を受け、探検の途中で、欧州でも有名なモルッカ諸島への、西回り航路を開拓し、 島々の実態を調べ、東方に、スペインの領土を広げることが可能か、調査することが、旅の目的だった。 マゼランの、マライ人奴隷エンリケは、上陸後、言葉がかろうじて通じると、言った。 マゼランは、かつて船乗りとして訪れた、マライ語圏に戻ってきたことで、 世界を一周したことを、悟った。 マゼランは、セブの領主、ラジャ・フマボンを説得し、スペイン王カール5世への忠誠を、宣誓させた。 スペイン人の、ドミニコ会修道士が同乗していたことで、この航海は、フィリピンへの、 キリスト教宣教の、第一波となった。 4月14日、マゼランは、大きな木の十字架を、セブの海岸に立て、400人ほどのセブ人が、洗礼を受けた。 セブの王と王妃も洗礼を受け、スペイン王夫妻に敬意を表して、それぞれカルロスとフアナという、 洗礼名を、受けた。 後に、セブの守護聖人になる幼きイエスの像、サント・ニーニョ像も、スペイン側とセブ側の、 平和の証として、王妃に手渡された。 セブでの宣教と同盟の成功に、勇気づけられ、マゼランは、隣のマクタン島との海峡を渡った。 マクタンには、ムスリムの領主(ダトゥ)ラプ=ラプがいた。 4月27日、両者の間に、戦闘が起こり、マゼランは、戦死し、部下達は、島の住民に追い返された。 歴史家で、年代記作家のアントニオ・ピガフェッタは、部下達が、スパイスや宝石を、 島民に差し出そうとしても、マゼランの遺骸は、取り戻すことができなかったと、書く。 後に、ラプ=ラプは、フィリピン人の侵略者に対する抵抗の象徴となり、現在は、マクタン島に、 マゼランの布教をたたえた記念碑と、ラプ=ラプの戦いをたたえた記念碑が、隣同士に、建っている。 マゼランの部下の一人、フアン・セバスティアン・エルカーノは、指揮を引き継ぎ、 破損の激しいコンセプシオン号を焼き捨て、2隻になった残存艦隊を引き連れて、スペインに戻った。 彼らは、セブに来た時の西回り航路とは反対方向の、東回り航路をとったため、 彼らは、初めて、世界を一周した者たちとなった。 以上、めんどくさいので、Wikipediaから、引用させて、いただきました。 めんどくさくて、読み飛ばしたあなたは、お勉強だと思って、時間があるときに、読んでみて下さい。 そして、街中には、とても綺麗とは言えない、屋台が多く、貧しそうな生活をしている人々が、目につきました。 しかし、マゼランの布教の甲斐があってか、物がなくても、心が豊かな人が、とても、多かったです。 そして、あるキリスト教徒から、こんな『アツイ コトバ』を、ゲットしてきました。 “神様が、与えたもので、足りないものはなく、 神様が、与えなかったもので、どうしても、欲しがらなければいけないものはない。” 物が、有り余っている、僕らと、物が、足りないように見える、彼ら。 本当は、どっちが、豊かなんでしょうかね? 僕らって、きっと、足りなければ、足りないことに悩んで、 あればあったで、失ったらどうしようって、悩むんですよね。 あっ 僕の、髪の毛のことでは、ないですよ(笑) 以上、ココロの筋肉を、思いっきり刺激されて、おセンチな気分の、2日目でした。
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