|
思えば一目惚れだったのかも、しれない。
その子は、女子会員が極端に少ない代。遅れてサークルに加わった夏の新入生だった。素直に、ああ、可愛い子だなと思ったのを覚えている。ぱっと目を引くような顔立ちではないけれど。その子の笑みには、見る者をホッとさせるような屈託の無さがあった。無防備なまでの、飾り気の無い笑顔。目なんて糸みたいに細くなって。その笑顔が、とても好きだった。
その子は、程なくして、彼女にこのサークルを紹介したという同学年の男と付き合い始めた。二人とも、俺にとっては一学年下、ひとつ年下の「可愛い後輩」だった。仲睦まじい二人の様子は瞬く間に噂になって。遅れて入ってきた彼女だけど、あの、一年生のカップルの……なんて言えば彼女と面識の無い者もああと膝を打つくらいには、ある意味ですっかり溶け込んでいて。夏が終わるころには、サークルの人気者だった。
何も特別な所の無い、何でもないような間柄だった。
俺とその子は、サークルの発表会やそれに付随した飲み会や、週一度のミーティングや。そんな場所で顔を合わせれば、親しく会話をした。大学生活の話、サークルの話、アルコールが入った時には、すこし突っ込んだ話もあったかもしれない。下宿生の気安さと、俺自身の料理がそう苦にならない性質から、よくサークル仲間が飯をねだって転がり込んでくる中に彼女がいたことも、あった。だけどそれは他のサークル仲間たちと変わらない、取り立てて特別でも何でもない、ことだった。
俺とその子は、二つの季節が巡ってもそんな、取り立てて特別な所の無い、何でも無い関係のままでいられた。彼女は、少し頼りない所のあった恋人に時々やきもきしながらも、それを飲み会で冗談みたいに笑い飛ばせるくらいには幸せそうにしていた。俺はというと、男ばかりの宅飲みでひとつ下のカップルの片割れに説教を食らわせたりしながらも。時折周囲をひやひやさせる二人を眺めているのが、それなりに好きだった。何より彼女が笑っているのを見ているのが好きだったのだと、思う。変化が訪れたのは。特別でないはずの、ありふれた一夜のことだった。それは、夏の新入生がやってきてから半年が経とうとした頃の、ことだった。
寒い夜の、出来事だ。
俺は、よく家に人を呼ぶ割には、他人がいるとあまり寝付けない性質だった。その夜は確か、冬恒例の鍋パーティ。俺とその子と、これまた仲睦まじいことで有名なサークル内カップルがひと組。彼女の恋人は都合が合わないとかで、不在だった。ほろ酔い程度のアルコールをお供に、鍋を囲んで。片付けも終わり布団を敷く頃には会話もぽつりぽつりと途切れ途切れのものになっていた。男だけだと、遅くまでやれ酒だやれ麻雀だ、なんて一晩中騒がしいのも珍しくないのだけど。それでも、明かりを落としたのは午前2時頃だっただろうか。カップルは隅の方で身を寄せ合い眠っていた。彼女は、心なしか普段より口調がゆったりとしていたものの、まだ意識ははっきりとしているようだった。俺も、例によって寝付けないでいた。
俺は、そう酒には弱くない方だった。寧ろ、強い方だと、思う。だけどその時は酔っていたのだろうか。自分でもよく、分からない。よく分からないまま俺は彼女に、ぽつりぽつりと、一方的な自分語りを始めていた。悩み、というべきか。くすぶっていた色々を、淀んだ部分を、何も特別な所の無い、何でもないような間柄であったはずの彼女に、打ち明けていた。どうしてこんなことをしているんだろう。そう、内心首をかしげる一方で或る、確信もあった。
だいじょうぶですよ、と。その一言が泣きたいくらいに、染みた。
その子は、とても思慮深いひとだった。時々、ひとつ年下だなんて忘れてしまうくらいに。そして何もかもを、まるごと受け入れてくれるようなところがあった。彼女の何が、そう感じさせるのかは分からない。でも、そんな彼女には恋愛相談だとか、様々な打ち明け話が持ち込まれているらしいことは聞いていた。サークル内でちょっとしたいざこざが起こった時も彼女は、いつの間にかするりと、絡まったひもを解いてしまうのだった。
その子は、俺の話を聞き終えて。いくつかの、とても丁寧に慎重に選ばれたような言葉たちのおわりに一言、あなたは、だいじょうぶですよと笑った。俺はその笑顔に、まるごとを受け入れてもらったような心地がして。すこし、泣いていたかもしれない。すると彼女はふっと、笑みを消して。ぽつりぽつり、自身の話を、始めた。彼女が自身の悩みを語るのはそういえば、とても珍しいことのような気がして。俺は受け入れられたという幸福以上に彼女が内側を見せてくれたということがとてもとても、嬉しかった。
今でもあの夜の出来事は不思議なものだと、思う。一方で、必然だとも。
俺は、その子に触れていた。髪を梳いて、あまい香りのする頭を、抱いていた。熱に浮かされたような気分で、でもどこかで突っぱねられないという確信も、あった。その子はひどく、やさしかったから。他人の為にまるごとを、差し出してしまうような子だと。知っていたから。ずるいことだと、思う。だけどおずおずと伸びてきた細腕に、真似るように髪を梳くしぐさに、小さな手のぬくもりに。俺は一切の冷静さを放棄した。己のずるさを冷ややかに見つめる目に、蓋をした。与えたいと思った。欲しいと思った。
俺は、或る時から「嫌う」ことを放棄していた。どうしたってそりの合わない相手に苛立つことに疲れて、嫌悪を閉じ込めれば上手くいくんじゃないか、なんて思ったのが始まりだった。そしてその試みは、上手くいった。心がささくれ立たないというのは、平穏で気楽なことだった。しかし俺は同時に「好く」という感情が希薄になっていることにも、気付いた。それはどんどん加速していった。俺には嫌いなものも、好きなものも、無かった。よくないんだろうな、という気持ちはあったけどそれを、どうにかしようとも思わなかった。何もかもが、どうでもよかった。
はじめて、だった。欲しいと思ったのは。
きっかけはあの晩だけれど本当は、もっとずっと前からそれは密かに芽生えていたのだろうか。
俺とその子は、それから定期的に二人で会うようになった。誘うのは何時も俺だった。意図的ではないけれど雨の夜が、多かったように思う。何が食べたいかと聞いて。うどん、なんて言われた日は拍子抜けしたけれど。ならばと気合を入れて好きだという、きのこのたっぷり入ったあんかけうどんを作ったらとても喜んで食べてくれた。オムライスを作ったこともあった。個人的には少し納得のいかない出来だったけれど彼女はひとつひとつの工程を珍しそうに眺めて、やはり、おいしそうに食べてくれた。外食することもあったけれど俺の作ったものを喜んで食べる彼女を見る方が、好きだった。
俺とその子は、大抵そんな風に食事を共にして。それが夕飯の時はそのまま、一晩を共にすることが多かった。俺が、ねだったことだった。思えばその頃には俺は、彼女なしではいられないようになっていて。彼女のことが好きで、欲しくてたまらなくなっていて。だけど不思議と、性欲は湧かなかった。ただ側にいてほしいと、そのぬくもりを腕の中に留めておきたいと、そう思うだけだった。だから一晩じゅう、俺は彼女を腕の中に閉じ込め過ごした。ぬくもりを胸に、雨音に包まれ頭を撫でているうち、苦手だったはずの他人との夜でも、ぐっすりと眠ることができた。とても、幸せだった。触れていいかな、と問うと。彼女はすこし困ったように笑うのが、常だった。しょうがないな、とでも言うように。はじめは、与えたい、と思っていた。笑ってほしいと、兄妹のように、守ってやりたいと。だけどいつしか立場は、逆転していたのかもしれない。
自身の話をしなくなっていたその子に、気付いたのはいつのことだっただろうか。
俺は、それに気付いた時、ひどく恐怖を感じた。求めるだけでは飽き足らず、一方的に与えるでもなく。俺は、求められたいと、思っていたようだった。だけど一度でも、彼女から逢瀬を申し出てきたことは、あっただろうか? 屈託の無い笑顔が困ったような微笑みに塗り替えられたのは、いつのこと?
俺は、しばらくそれに気付かないふりをした。困ったような微笑みにも、己のずるさにも。何も言わなければ何も変わることは無い、と。触れる瞬間、ほんの一瞬だけ身を固くするその子に気付いた時も、だから気付かないふりを、しようと思った。
「先輩が私に何を求めているのか、分からなくて時々、怖くなります」
雨音の中、世界に取り残されたようなワンルームで。震える声に感じたのは落胆か、安堵か。
「俺は、君に笑っていてほしい、幸せでいてほしい。そうして、出来ることなら俺がそうできたら、とても嬉しい。俺に、何かを求めてくれたら嬉しいと……思ってるんだ」
「……私も、先輩に、幸せでいてほしいとは、思っています。それが、私が先輩に求めること、です」
だけどそれじゃあ、たぶん駄目なんですよね。
その子は、困ったように、泣きそうになりながらそれでも、笑った。屈託の無い笑顔に魅せられてから一年が、経とうとした頃のことだった。気付けば長い冬はとっくに明けて、桜もすっかり若葉を茂らせ。そろそろ日差しがきつくなってくるような、時期に差し掛かっていた。
あれから季節が二度、廻った。
俺とその子は、あれ以来ふれあうことを止めた。二人で会うことも、ほとんど無くなった。一度だけ、満足のいくものを食べさせられなかったオムライスを、ご馳走したことはあったけれど。それは自分でもそれなりに納得のいく出来で、彼女もおいしそうに、食べてくれた。
その子は、時の流れの中、付き合っていた男と別れ。すこししてまた、他の誰かと懇意にしているようだった。そしてその関係は中々、上手くいっているようだった。心なしか服の趣味が変わって大人っぽくなった彼女は、幸せそうに笑っていた。
俺は、それを見るのがとても、好きだった。
*
これもまた、記録のようなそうでないような。
ここに置いていった過去の記事たちを読むうち。
書くということをわたしは、覚えておくためという側面を持つ一方で、一時的に預けておくため、忘れておくためにしているのかな、なんて思ったりもします。
|
与えるから。。
ステップは自然と。。
2012/9/13(木) 午後 4:56 [ ヤナ・ヤヌー ]
距離感って、難しいなと思います。
ある時点では心地良いと思えたはずのものがいつの間にか、息苦しいものになったりも、して。
だからこそ、満ち足りていると感じる瞬間が尊く、また、クセになるものなのかもしれないけれど。。
2012/9/15(土) 午前 0:44