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1945年8月9日午前11時2分、3日前の広島に続いて長崎の地で悲劇は繰り返され、またしても約74千人の尊い生命が奪われました。当時の長崎市の人口は推定で24万人と言われていますから、長崎市民の30パーセント以上の方々が亡くなられたことになります。
毎年8月6日に小学校で行われた「戦争と平和に関する授業」で、『核の悲劇』は長崎で最後にしたいと思っていました。
しかし、その後の歴史は終わっていなかったのです。
戦後、最初の核保有国である米国が太平洋上で原爆の実験を繰り返しました。当時は、『放射能の恐怖』が、一般的には知られておらず無防備に核実験を見物していた多くの米国兵が命を落としたと言われています。
また、1954年3月1日には静岡県焼津市のマグロ漁船・第五福竜丸がマーシャル諸島近海において操業中に、ビキニ環礁で行われた水爆実験によって被爆し同船の久保山愛吉無線長が命を落とされました。
1986年4月には旧『ソ同盟』のチェルノブイリ原子力発電所の事故によって、地球規模で放射能で汚染されました。放射能は偏西風にのって日本にも到達するであろうと報道され恐怖を感じました。そして、雨の日には放射性物質が空から多量に降り注ぐため濡れてはならないという『都市伝説』が飛び交ったのを鮮明に憶えています。
そして、現在においてセルビアやイラクにおいて使用された『劣化ウラン弾』による放射能汚染が問題視されています。
僕は、人体や環境への影響に関する調査報告を見聞する限り、『劣化ウラン弾』と放射能汚染の関係は無縁と言えないと感じます。
何ゆえ、現代の人類は『核』を捨てられないのか?人類は『核』と共存せざるをえないのか?
この問題を我々の次世代に解決を求めることでいいのでしょうか?
今日もまた、核廃棄物が「生産」されています。
海外で知り合った人びとの中に『KYOTO』,『OSAKA』は知らなくても『HIROSHIMA』,『NAGASAKI』は知らぬものはなかった!
ほぼ、2年前の去る2005年4月15日に伊藤一長長崎市長は、我が母校である立命館大学で講義をされ、「原爆の語り部」になられたという。写真を拝見すれば、僕にとっても想い出深い教室だった。自然と涙が溢れてきた。
本日ほど、日本人であることを恥ずかしいと感じた日はない!
伊藤一長長崎市長に対して、我が立命館大学の後輩への厚き講義の感謝とご冥福をお祈りするとともに日本の平和を見守ってくださるようお願い申し上げます。
南無阿弥陀仏 合掌
【2007/4/18(水)午後1:31に加筆修正】
【参考URL:市町村長リレー講義「わがまちの国際戦略を語る〜自治体外交の挑戦」】
[ http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/special%20lecture/050415%20nagasaki.htm ]
まったけ日記」1〜50は、こちらまで[ http://www.geocities.jp/f4_ttm/index.html ]
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