ファイターズを44年ぶりの日本一に導いた新庄剛志外野手(34)が27日、札幌ドームで引退会見し「北海道で種をまき、水を与え、3年目で金色の花を咲かせられたことがうれしい」と、阪神時代の監督で現楽天の野村克也監督が好んで使う言葉を引用して思い出を語った。 ジャケット姿の新庄は、マウンドの上に立ち、プロ17年間ずっと使い続けたグラブをそばに置いて会見した。今後の具体的な活動については明言せず「いろんなことをしたい。ユニホームを脱ぐだけであって新庄剛志は新庄剛志。みんなをあっと驚かせることをやり続けたい」と話した。 11月9日からファイターズが出場するアジアシリーズには気力、体力の限界を理由に出場しないことを明らかにした。同18日に札幌市内で行われる優勝パレードには参加する。(『デイリー・スポーツ』2006年10月27日) 北海道日本ハム・ファイターズ…、元阪神タイガースの新庄剛志選手が現役引退しました。
1989年ドラフト5位でタイガースに入団しました。この年は、野茂英雄投手一色のドラフトでした。タイガースは、野茂投手を指名するも抽選で外れて葛西稔投手を1位指名しました。 このドラフトは、初めて僕の同級生が指名されるドラフトでしたので鮮明に覚えています。 2位以下は、岡本圭治内野手、麦倉洋一投手、古里泰隆投手、新庄剛志外野手、吉田浩外野手が指名されました。 同級生の友人たちとは、高校野球甲子園大会で活躍した麦倉投手に期待が集まりました。しかし、麦倉投手は2年目に成長を見せたものの肩の故障で球界を去りました。 一方、リーゼント(?)で入団会見に現れた新庄選手は、「何やコイツ」との評価でした。 この頃のタイガースは、「暗黒時代」。例年、最下位が続いていました。 しかし、1992年のシーズンに突如として、ヤクルト・スワローズと優勝争いをしました。当時の主力打者のトーマス・オマリー内野手(現 阪神駐米スカウト)が故障して、新庄選手が1軍に昇格します。すると、「あっ」という間の大活躍でスターに。ヘッド・スライディングの亀山努選手と「亀・新」フィーバー! 僕は、タイガースの応援に何度も阪神甲子園球場に足を運んでいました。しかし、1回も勝ったゲームを観たことはなかったのです。 そんな僕に、初勝利をプレゼントしてくれたのは、阪神タイガース・新庄選手だったんです。 時は、1992年9月15日の対広島カープ戦。両チームとも得点できないまま延長戦へ、カープは抑えの切り札の大野投手へ交代。 「またしても・・・あかんのか」と不安がよぎりました。 打席は新庄選手。打球は、レフトスタンド方向へ!一瞬、球場全体が息をのむように静まって打球を追う・・・。 「どうや、どうや、入ったでえええ!サヨナラ・ホームランやあ!」 その後の、甲子園はお祭り騒ぎでした└|∵|┐♪┌|∵|┘ が、新庄選手はインタビューで「優勝します。」と、一言。翌日から連敗で、遂には優勝まで野村・ヤクルトにさらわれました・・・。 これから後、タイガースの選手がヒーロー・インタビューで「優勝」と言うことがタブーとなったのです。2003年の今岡・広沢選手まで・・・。 桧山選手を始め、阪神タイガースの選手は言っています。「アイツほど、隠れて練習していたヤツはいない。」と・・・。 −プロ野球人生を有終の美で飾った。
「北海道で種をまき、毎日一生懸命水を与え、やっと3年目で花を咲かせられた。花の色はとても美しくて、たくましい金色の花」 −一番の思い出は。 「阪神時代、成績が悪いのにファン投票で選ばれたオールスターゲームで、ペットボトルが投げられ、トランペットとか鳴らなかった。ショックな気持ちはいまでも忘れない」 −使い続けたグラブがそばにあるが。 「阪神1年目の初めての給料で買った。17年間いっしょに過ごしてきたグラブが『もうプレーできない。もう限界』と言っている。常に携帯し、遠征先でもテレビの上に置いて湿らないようにとか気遣いしてきた」 −今後の活動は。 「自分に何ができるんだろう、何の才能があるんだろうと思う。これからどんどんいろんなことを経験し、自分の夢を探し出したい」 −次の“新庄劇場”は。 「ただユニホームを脱ぐだけであって、新庄剛志は新庄剛志。みんなをあっと驚かせることをやり続けたい」[共同,2006年10月27日] ファイターズ・ファンの皆様、誠に申し訳ありません。新庄との想い出があまりに多すぎます(T_T) 今日の独り言 174ー111=63(^_^)v 京都亀岡国際秘宝館・本館 http://www.geocities.jp/f4_ttm/index.html
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2006年10月29日
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